御書研鑚の集い 御書研鑚資料
顕謗法抄 01 背景と大意
顕謗法抄 背景と大意
本抄は、弘長2年(西暦1262年)日蓮大聖人が41歳の時、伊豆流罪中に著された御書です。
本抄の御真筆の所在については、かつて身延に存在していたことが「霊宝〔れいほう〕目録」によって明らかになっており、そこには、「顕謗法書〔けんほうぼうしょ〕」と記されています。
その後、身延に数度の大火があり、その際に焼失してしまったらしく、現存はしていません。
本抄では、まず地獄の業因について述べられ、とくに、その中でも最下層に位置付けられている無間地獄について、その業因を正法誹謗の罪とされ、謗法の罪の大きさを強調されています。
このことについては、妙法比丘尼御返事(御書1257頁)の中で詳しく、述べられており、これを認識する上で極めて重要であるので、その内容について記〔しる〕しておきます。
今、日蓮は、世界の中では、日本と言う国の者です。
この国は、仏が世に出現された国から、東方、はるかに二十万余里も離れた海中の小島であり、また仏が御入滅されてから、すでに二千二百二十七年になります。
インド、中国の人が、この国の人々を見ると、この国の人が、伊豆の大島や奥州の東の人々などを見るようなものでしょう。
それなのに、日蓮は、日本の安房〔あわ〕に生まれ、民衆の家から出家して髪を剃り、袈裟を着たのです。
そして、今世に於いて、いかにしても仏種を植え、生死を離れる身となろうと思い、周りの人々が、みんな阿弥陀仏を頼み、成仏を願っているので、幼少より、その名号を称〔とな〕えてきましたが、いささか事情があって、この事に疑いを持ち一つの願〔がん〕を立てたのです。
日本に渡って来た仏教の経文や菩薩の論文と人師の注釈文を習い見て、また、倶舎〔くしゃ〕宗、成実〔じょうじつ〕宗、律宗、法相〔ほっそう〕宗、三論〔さんろん〕宗、華厳宗、真言宗、法華天台宗と言う宗派が多くあり、さらに他にも、禅宗、浄土宗と言う宗派もあります。これらの宗派の詳細は別にしても、その主張の肝要を理解しようと思って、全国を随分と走りまわり、十二から十六の歳から、三十二歳に至るまでの二十余年の間、鎌倉、京都、叡山、園城寺〔おんじょうじ〕、高野山、天王寺〔てんのうじ〕などの、あらゆる寺に遊学して、それを習いましたが、一つの不思議が出て来たのです。
私のような浅はかな者の心で推察すると、仏法は、唯一つであり、いづれの宗派においても、心を込めて習い学ぶならば、必ずや生死を離れることが出来るだろうと思っていたのに、仏法を悪しく習い覚えれば、謗法と言う大きな穴に堕ちて、十悪、五逆罪と言って、日々、夜々に殺生、偸盗〔ちゅうとう〕、邪婬〔じゃいん〕、妄語〔もうご〕などを犯す人よりも、五逆罪と言って父母などを殺す悪人よりも、僧や尼となって出家した身には、二百五十戒を固く持ち、心には、八万法蔵を思い浮かべ、智者や聖人のように、一生の間に一悪も作らず、まるで仏のように思われ、まさか我が身が悪道に堕ちるはずもないと思っている人々が、十悪、五逆罪よりも、さらに多く地獄に堕ちて、阿鼻〔あび〕地獄を住まいとし、永く地獄を出られないと言う事があると言うのです。
たとえば、出世しようと思って国主に仕えている人が、これといった大きな過ちがあるわけではないのに、自らの慢心と怪しい振舞いが重なり、さらに自分の行動に問題があるとも思わずに、また、周囲の取り巻きの者も、それをおかしいとも思わず、后などとの事で間違いなどはないのに、自然に、その振る舞いが横暴となり、王などに、そのことを怪しまれてしまえば、謀反の者よりも、それが、おおきな問題となるようなものなのです。
また、その身に、このような疑いがかかれば、父母、兄弟、それに付き従う者なども、また大きな疑いをかけられる事になるのです。
謗法と言う罪は、自分も気付かず、また人も悪い事とも思はず、ただ仏法を習い極めようとしているのだから、尊い事とばかり、思っているので、この人も、また、この人に従う弟子、檀那なども無間地獄に堕ちる事があるとは、まったく思わないのです。
いわゆる、勝意〔しょうい〕比丘、苦岸〔くがん〕比丘と言う僧は、二百五十戒を固く持ち、三千の威儀を一つも欠けずに持つ人でしたが、無間地獄に堕ちて、そこを出る時期さえ定まらず、また、彼の勝意〔しょうい〕比丘、苦岸〔くがん〕比丘に近づいて弟子となり、檀那となった人々は、思いの他、大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて師とともに大苦を受けているのです。
この人たちは、後世の為に多くの善根を積もうとする以外に、なんの悪い心もなかったのですが、このような不祥事に会ってしまったのです。
このように妙法比丘尼御返事において、謗法を一つの不思議と述べられ、謗法こそ無間地獄へ堕ちる業因である事を御教示されているのです。
それは、結論から述べるならば、日蓮大聖人は、釈迦仏法が白法隠没し形骸化した末法(教法流布の先後)の日本(国)の鎌倉時代(時)に生まれられ、幼少の頃に民衆が苦難にあえぐ世の中の有様(機)に、虚空蔵菩薩の御宝前に願〔がん〕を立て、日本第一の智者となし給〔たま〕へと祈られました。
その後、日本の各地を遊学され、釈尊が顕わした妙法蓮華経の文底に秘し沈められた大白法、つまり、御自身こそ、末法の法華経の行者であり、その本地は、久遠元初の御本仏であり、大聖人が唱えられる南無妙法蓮華経こそ、三世諸仏が成仏した本因で有り、末法の衆生を即身成仏をさせる平等大慧の法であることを悟られ、その悟りを弘安二年の大曼荼羅として書き顕わされて戒壇の大御本尊(教)とされたのです。
この根源の一法の立場からすれば、この御本仏、日蓮大聖人を信ぜず背くものは、釈迦牟尼仏を始め、いかなる仏、菩薩であっても、また、いかなる宗派であっても、すべて謗法となるのです。
このように御本仏、日蓮大聖人また弘安二年の戒壇の大御本尊を信じない誹謗正法の者は、いかなる善業、善根も、すべて徒労に帰し、必ず、その謗法によって無間地獄に堕ちるのです。
現在の人々は、仏法ならば、どのような宗派でも同じで利益があると考えていますが、仏教の根本である法華経を謗〔そし〕れば、このように、無間地獄の大苦を受けなければならないのです。
この誹謗正法の一点を鮮明にされることで、日蓮大聖人は、謗法の恐ろしさを知らしめ、人々を無間地獄の苦から救おうとされているのです。
また、弘安二年の戒壇の大御本尊を信じれば、それだけで日蓮大聖人が願われた日本第一の智者となることを得て、一生成仏の妙法の偉大な功徳に浴することができるのです。
しかし、現実には、世間では、聖僧や偉人と謳われる人が、さも日蓮大聖人の真似をして、仏教を悟りもしていないのに悟ったふりをして邪宗邪義の諸宗派を構え、誹謗正法の謗法を犯して、殺生や偸盗や邪淫などを犯す者が堕ちる地獄以上に過酷な無間地獄に堕ち、しかも永遠とも思えるような長い時間を、そこから出る事が出来ないのです。
本抄を拝して、厳格な信心の指南書として正法への信を深めることが、最も肝要であるといえるでしょう。
本抄の大意は、大別して四段に分けられ、
第一段は、八大地獄の因果を明かされ、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、阿鼻地獄と八種類の大地獄を順を追って、それぞれについて、その地獄の位置、面積、相貌、堕地獄の業因などを説明されています。
そして、その結論として、いかに阿鼻地獄が恐ろしいかを論じられ、その業因を戒められています。
第二段は、無間地獄の因果の軽重を明かされ、一般に無間地獄の業因は、五逆罪であるとされましたが、日蓮大聖人は、五逆罪と謗法を比較し、謗法が、はるかに重罪であることを明かされています。
第三段は、ここで16の問答を通じて、謗法の義について詳細に論じられています。
(問01) 謗法の具体的な内容とは、どのようなものか。
(答01) 正法を憎んで人に捨てさせることが謗法である。
(問02) 謗法の内容を知りたいと思うので、概略を示して欲しい。
(答03) 仏を無常であると言う人の舌が、ただれ落ちると言うことである。
(問03) 諸々の小乗経に仏を無常と説かれている。
(答03) より優れた経文を非難するのは、破法となる。
(問04) 観無量寿経の念仏往生を、その後の経文で謗るのは、謗法ではないのか。
(答04) 無量義経に未顕〔みけん〕真実と説かれている故に謗法とはならない。
(問05) 未顕真実の文は、二乗不作仏と始成正覚の文に限るのではないか。
(答05) 伝教大師は、爾前経の文々句々にわたって未顕真実であるとしている。
(問06) 未顕真実が二乗不作仏に限るのであれば、二乗不作仏は、仏の妄語なのか。
(答06) 人、天、声聞、縁覚、菩薩の五乗は、ただ一仏性なので仏語に矛盾はない。
(問07) 無量寿経上巻の念仏往生願の文も未顕真実であるのか。
(答07) 法蔵比丘が阿弥陀仏にならずば、法蔵比丘の成仏は、すでに妄語である。
(問08) 阿弥陀仏は、今世ではなく、過去世の法華経に依る成仏ではないのか。
(答08) 今の権経で成仏が許されないものが過去の権経で許されるはずがない。
(問09) すぐではないが、長い時間を経るならば、成仏できるのではないか。
(答09) 長い時を経たとしても、爾前の経では、成仏は、できない。
(問10) 四十余年の中に華厳経だけは、入らないのではないか。
(答10) 華厳海空と名前を挙げて四十余年の中に入れている。
(問11) 釈尊は、爾前経を説かずに法華経だけを説けば、よかったのではないか。
(答11) 方便品に、ただ仏乗を褒めれば、衆生は、法を謗り信じない故にとある。
(問12) それでは、何故、爾前の経文を衆生は、誹謗しないのか。
(答12) 随他意と言って衆生の心を説かれているからである。
(問13) 日蓮大聖人は、なぜ法華経を説いて人々に誹謗させ、悪道に堕とすのか。
(答13) 法華経を誹謗し地獄に堕ちる事は、多くの仏に供養するより優れている。
(問14) 念仏、真言などの祖師は、皆、謗法に堕ちるのか。
(答14) 法華経の顕彰をする似破〔じは〕か、そうではない能破〔のうは〕に依る。
(問15) 成仏には、何ものを肯定し、何ものを否定し、何ものを願うべきなのか。
(答15) 悪知識である悪師を恐れるべきである。
(問16) 他国では、外道が仏法を滅ぼし小乗が大乗を謗っているが日本はどうか。
(答16) 日本では、大乗だけが残り、争いも多く、それを存続させようとしている。
第四段で仏法を弘める際の用心を明かされ、教、機、時、国、教法流布の先後の五綱をあげて、その中でも教を示し教を知る事が大事である事を御教示されています。
教とは、如来一代の経文のことであり、その中に大小相対、権実相対、顕教、密教の違いがあることを述べられ、また、華厳、法相、三論、真言、浄土、禅の各宗派の教義の違いを挙げられています。
日蓮大聖人は、教機時国抄で「所以〔ゆえ〕に法華経は一切経の中の第一の経王〔きょうおう〕なりと知るは是〔これ〕教を知る者なり。」(御書271頁)とされています。しかし、これは、次の機を知るでは、末法の衆生の機根は、釈尊の法華経に依って成仏できる正像二千年の本已有善〔ほんいうぜん〕の機根の衆生ではなく、本未有善〔ほんみうぜん〕の法華経の文の下に秘沈された三大秘法によって即身成仏をする機根の衆生であることを示され、また、時を知るでは、現在は、釈尊の仏法が力がなくなる釈迦滅後二千年の白法穏没、闘争堅固の末法であり、また、国を知れば、日本は、大乗仏教、法華経に縁がある国であり、像法時代に伝教大師によって、比叡山に迹門の大乗戒壇を建てた国でもあるのです。従って、末法の本門の大乗戒壇も当然、日本に立つべきであり、それが日蓮正宗の大石寺であり、仏教西還の原理によって、その仏法が中国、インド、西洋に広がっていくのです。さらに最後の教法流布の先後を知るでは、末法の御本仏、日蓮大聖人が真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊と、これら権門を敢然と破折され、その結果、三類の強敵を呼び出されて、数度の身命に及ぶ大難の結果、弘安二年の本門戒壇の大御本尊を書き顕わされたのです。これこそ、教法流布の先後を知る者であり、これらを知る事を教を知る者、正しく仏法を弘める事が出来る者なのです。
しかし、これに対して諸宗派は、脇尊者の金杖の譬えで諸宗、諸論は異なるが修行の理が同じであると述べて反論し、それに対して日蓮大聖人は、大般若経、法華経、涅槃経の文証、無垢論師、大慢婆羅門の現証をあげて、闡提〔せんだい〕とは、インドの言葉であり、漢語では、不信と翻訳し、久遠の過去、三千塵点劫、五百塵点劫に本因である法華経文底秘沈の三大秘法の大御本尊によって、一切衆生すべてに仏性がそなわっていると言う事を信じないことであり、涅槃経の恒河の七種の衆生の第一、第二であることを示されています。
ここで、涅槃経の恒河の七種をあげておきます。
涅槃経の恒河の七種 | ||
第一 | 入水則没 にっすいそくもつ | 入水則没の一闡提、 生死の河で身は重く常に海底に常没する |
第二 | 出已復没 しゅっちぶもつ | 出已復没の謗法の者、 何度、水面上に出ても、また海中に没す |
第三 | 出已不没 しゅうちふもつ | 生死の河で没する事がない舎利弗などの声聞 |
第四 | 出已即住 しゅっちそくじゅう | 縁覚 河を泳ぎ続けるが方向が定まらず戻って来る |
第五 | 観方 かんぽう | 縁覚 水面に浮かんで、さらに四方を見渡す眼を持つ |
第六 | 浅処 せんしょ | 菩薩 彼岸に到るが衆生を救う為に河を去らず |
第七 | 到彼岸 とうひがん | 菩薩 彼岸に到るが衆生のいる所へ戻る |
この解釈については、諸説がありますが、諸宗派は、これについて、謗法とは、理由もなく仏法を謗ることであり、衆生の機根を考えて行う対機説法と宗旨建立の為に他の法門を謗ることは、謗法ではないとし、日蓮大聖人の宗旨建立の為に諸大乗経を謗〔そし〕った文章があるのかとの問いに諸宗派が答えるのには、華厳経や涅槃経にあり、それらが根拠であり、謗法は成立しないと主張しているのです。
そこで日蓮大聖人は、諸宗派の依経の文章は、教、機、時、国、教法流布の先後の五綱によって判断すべきであり、対告衆の機根、説かれる時期、その適応範囲、そして、その経文が説かれた前後の経文との関係性を理解して判断すべきであり、その例を挙げて、法華経が一切の諸経が説くところの究極の法門であり、これを知る者を教を知る者であると明言されています。
そこから考えれば、各宗派の祖師が宗教の五綱をわきまえず、自分の依経を第一とするのは、教を知らない者であり、天台大師のみが、教を知るものであるのです。
真言宗の善無畏〔ぜんむい〕金剛智〔こんごうち〕不空〔ふくう〕
華厳宗の法蔵〔ほうぞう〕や澄観〔ちょうかん〕、
法相宗の慈恩〔じおん〕、
三論宗の嘉祥〔かじょう〕
浄土宗の曇鸞〔どんらん〕や道綽〔どうしゃく〕、善導〔ぜんどう〕、
禅宗の達磨〔だるま〕
これらの祖師は、法華経の本意を知らないばかりか自宗派の依経の心も知らない者であると述べられています。
さらに他の経文を破折するのも、能破〔のうは〕と似破〔じは〕があり、是非を明らかにする為に、その法門を謗〔そし〕るのは、似破〔じは〕、実際には、優れている経文を劣っていると思って、その法門を謗〔そし〕るのは、悪能破〔のうは〕、現実に劣っている経文を謗〔そし〕ることは、善能破〔のうは〕なのです。
法相宗の慈恩〔じおん〕、三論宗の嘉祥〔かじょう〕、華厳宗の澄観〔ちょうかん〕は、法華経誹謗を悔い改めた筆を残しているので、似破〔じは〕であり、脇尊者の金杖の譬えの意は、小乗経典は、多いと言っても、すべて同じ、苦、空、無常、無我の理を説いていると言う意味であり謗法とはならず、外道が小乗を謗り、小乗経の者が大乗経を謗〔そし〕り、諸大乗経の者が、法華経を謗〔そし〕るのは、悪能破〔のうは〕で謗法となり、逆に大乗経の者が小乗経を謗〔そし〕り、法華経の者が諸大乗経を謗〔そし〕るのは、善能破〔のうは〕で謗法とはならないのです。
善無畏などが、法華経の一念三千の法門を盗んで、自宗派の法門にしていることは、一見すると悪能破〔のうは〕で謗法のようであるが、法華経の一念三千、つまり日蓮大聖人の仏法が正しいとすれば、それは、似破〔じは〕か、その他の雑謗法になると答えられています。
このように正しく謗法を理解出来る者を教を知る者と言うと述べられています。
さらに信について、
信而不解〔しんにふげ〕 信仰心は、あるが、仏法を理解出来ない者
解而不信〔げにふしん〕 仏法を理解は、出来るが、信仰心がない者
亦信亦解〔やくしんやくげ〕 信仰心もあり、仏法を理解する事も出来る者
非信非解〔ひしんひげ〕 信仰心も仏法を理解する事も出来ない者
の四種を挙げられて、信而不解〔しんにふげ〕の者は、法華経譬喩品の以信得入の文によって、必ず成仏するので、謗法には、ならないのですが、
日蓮大聖人は、涅槃経第三十六巻を通して、涅槃経の恒河の七種の衆生の第一、第二の二種の人を挙げ、
第一の入水則没の常没〔じょうもつ〕の者とは、解而不信〔げにふしん〕の者であり、この不信の者は、怒りの心で仏法僧の三宝は、ないと邪見を増すので、一闡提であると定義されています。
第二の出已復没の謗法の者とは、信而不解〔しんにふげ〕の者であり、仏法を理解する智慧がないので無明を増し、迷いの心で、間違って教義を解釈して仏法僧を謗〔そし〕る謗法の者と定義されています。
そして、涅槃経第36巻にある「如来常住無有〔むう〕変易〔へんにゃく〕常楽我浄」とは、「三大秘法の大御本尊」のことであり、この「三大秘法の大御本尊」を信じる者は、この涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の文章通り、すべての衆生に仏性が具〔そな〕わるのです。
それを信じる者は、たとえ法華経を謗〔そし〕り、五逆罪を作り、四重禁戒を犯す者も、また、小乗経の声聞、縁覚の者も、涅槃経の生死の恒河を出る第七の到彼岸の者となるのです。
逆に三大秘法の大御本尊を信じる者であっても、その、すべてが成仏するとは、限らないと思う者は、この涅槃経を信じているように見えるけれども、二乗不作仏などに心を寄せる爾前の教義を信じる信不具足〔しんふぐそく〕の者であり、智慧がなく、真逆に仏教の教義を解釈している信而不信〔しんにふしん〕の一闡堤であると御教示されています。