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顕謗法抄 04 第3章 謗法の重罪を示す
第3章 謗法の重罪を示す
【第三に問答〔もんどう〕料簡〔りょうけん〕を明かさば、】
第三に問答によって、謗法の意義を明らかにします。
【問うて云はく、五逆罪と謗法罪との軽重はし〔知〕んぬ。】
第1問、五逆罪と謗法罪との罪の軽重については、謗法罪が重いと知りましたが、
【謗法の相貌〔そうみょう〕如何〔いかん〕。】
その謗法の具体的な内容とは、どのようなものでしょうか。
【答へて云はく、天台〔てんだい〕智者〔ちしゃ〕大師の】
第1答、天台智者大師の
【梵網経〔ぼんもうきょう〕の疏〔しょ〕に云はく】
梵網経〔ぼんもうきょう〕の疏〔しょ〕に
【「謗とは背〔そむ〕くなり」等云云。法に背くが謗法にてはあるか。】
「謗とは、背く事なり」とあり、法に背くことが、謗法であると言えるでしょう。
【天親〔てんじん〕の仏性論〔ぶっしょうろん〕に云はく】
天親〔てんじん〕菩薩の仏性論〔ぶっしょうろん〕には
【「若〔も〕し憎〔にく〕むは背くなり」等云云。この文の心は】
「憎〔にく〕むとは、背くことである」とあります。この文章の意味は、
【正法を人に捨てさするが謗法にてあるなり。】
正法を憎む故に、人に正法を捨てさせる事が、謗法にあたると言うのです。
【問うて云はく、委細〔いさい〕に相貌をしらんとおもう。】
第2問、詳しく、その謗法の内容を知りたいと思うので、
【あらあらしめ〔示〕すべし。】
概略を示して欲しいと思います。
【答へて云はく、涅槃〔ねはん〕経第五に云はく「若し人有って】
第2答、涅槃〔ねはん〕経の第五巻に「もし人がいて、
【如来は無常なりと言はん。云何〔いかん〕ぞ是の人舌堕落せざらん」等云云。】
如来は、無常なりと言って、この人の舌がただれ落ちないはずがない」とあります。
【此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云。】
この文章の意味は、仏を無常であると言う人の舌がただれ落ちると言うことです。
【問うて云はく、諸の小乗経に仏を無常と説かるゝ上、】
第3問、しかし、諸々の小乗経に仏を無常と説かれている上に、
【又所化〔しょけ〕の衆皆無常と談じき。】
また弟子の人々も、皆、仏は、無常であると話し合っています。
【若し爾〔しか〕らば、仏並びに所化の衆の舌堕落すべしや。】
もし、そうであるならば、仏と弟子の人々の舌は、ただれ落ちるのでしょうか。
【答へて云はく、小乗〔しょうじょう〕経の仏を】
第3答、小乗経の仏を小乗経の人が
【小乗経の人が無常ととき談ずるは舌たゞれざるか。】
無常であると説き談じる場合は、舌は、ただれ落ちないでしょう。
【大乗〔だいじょう〕経に向かって仏を無常と談じ、】
しかし、大乗経の仏に向かって、無常であると話し合い、
【小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか。】
小乗経と比較して、大乗経を謗〔そし〕れば、舌は、ただれ落ちるのです。
【此をもてをもうに、おのれが依経〔えきょう〕には随えども、】
この事から思うと、自分の信じる経文には、従っても、その信じる経文より、
【すぐれたる経を破するは破法となるか。】
優れた経文を非難すると、それは、破法となるのです。
【若し爾らば、設〔たと〕ひ観経〔かんぎょう〕・華厳〔けごん〕経等の】
もし、そうであるならば、たとえ観経〔かんぎょう〕や華厳〔けごん〕経などの
【権大乗〔ごんだいじょう〕経の人々、所依〔しょえ〕の経の文の如く】
権大乗経の人々が、その信じる経文の文章の通りに
【修行すとも、かの経にすぐれたる経々に随はず、】
修行したとしても、その経文よりも優れた経文に従わなかったり、
【又すぐれざる由〔よし〕を談ぜば謗法となるべきか。】
また、優れていないと言う意味の話をするならば、それは、謗法となるでしょう。
【されば観経等の経の如く法をえたりとも、】
それ故に観経〔かんぎょう〕などの経文の通りに法を理解したとしても、
【観経等を破せる経の出来したらん時、】
観経〔かんぎょう〕などを謗〔そし〕る経文が出現した時は、
【其の経に随はずば破法となるべきか。】
その経文に随わなければ、破法となるのです。
【小乗経を以てなぞらえて心うべし。】
このことは、他の経文についても、この小乗経の例に準じて心得るべきです。
【問うて云はく、双観〔そうかん〕経等に乃至】
第4問、それでは、双観〔そうかん〕経、つまり、観無量寿経などに、
【十念即得〔そくとく〕往生〔おうじょう〕なんどとかれて候が、】
十念、即得〔そくとく〕往生〔おうじょう〕などと説かれており、
【彼のけう〔経〕の教への如く十念申して往生すべきを、】
この経文の教えによると、ただ十遍だけの念仏で往生できるとされているのに、
【後の経を以て申しやぶらば】
その後に説かれた経文に、それが、間違っていると書いてあると言うのであれば、
【謗法にては候まじきか。】
それは、謗法になるのでは、ないでしょうか。
【答へて云はく、仏、観経等の四十余年の経々を束〔つか〕ねて】
第4答、それについては、仏は、観無量寿経などの四十余年間の経々をまとめて、
【未顕〔みけん〕真実〔しんじつ〕と説かせ給ひぬれば、】
無量義経で未顕〔みけん〕真実〔しんじつ〕と説かれており、
【此の経文に随ふて乃至十念即得往生等は】
この経文に従うと、観無量寿経の十念、即得往生などの教えでは、
【実には往生しがたしと申す。此の経文なくば謗法となるべし。】
実際には、往生し難いのです。もし、この経文がなければ、謗法となります。
【問うて云はく、或〔ある〕人云はく、】
第5問、それでは、ある人が言うのには、
【無量義〔むりょうぎ〕経の「四十余年未顕真実」の文は】
無量義経の四十余年、未顕真実の文章は、
【あへて四十余年の一切の経々並びに】
けっして四十余年間の、すべての経文の
【文々句々を皆〔みな〕未顕真実と説き給ふにはあらず。】
文々、句々を、全部、未顕真実と説いたのではなく、
【但四十余年の経々に処々に】
ただ、四十余年間の法華経以前の爾前経の中に、いろいろな場所で、
【決定性〔けつじょうしょう〕の二乗を】
五性各別の決定性〔けつじょうしょう〕の二乗を
【永不成仏〔ようふじょうぶつ〕ときらはせ給ひ、】
永く成仏できないと非難し、
【釈迦〔しゃか〕如来〔にょらい〕を始成〔しじょう〕正覚〔しょうがく〕と】
釈迦如来を始成〔しじょう〕正覚〔しょうがく〕と
【説き給ひしを、其の言ばかりをさして】
説かれた、その言葉の部分だけを、
【未顕真実とは申すなり。あへて余事〔よじ〕にはあらず。】
未顕真実と言ったのであり、決して他の部分を言ったのではない。
【而るをみだりに四十余年の文を見て、観経等の】
それなのに四十余年未顕真実の文章を見て、観経などの経文に
【凡夫のために九品〔くほん〕往生〔おうじょう〕なんどを説きたるを、】
九品〔くほん〕往生〔おうじょう〕などと凡夫の為に説いてあるのを、
【妄〔みだ〕りに往生はなき事なりなんど押へ申すは、】
みだりに、この往生の文章は、真実ではないなどと主張するのは、
【あに〔豈〕おそろしき謗法の者にあらずやなんど申すはいかに。】
非常に恐ろしい謗法ではないかと主張していますが、この点は、どうでしょうか。
【答へて云はく、此の料簡〔りょうけん〕は東土の得一〔とくいち〕が】
第5答、この考え方は、常陸国、筑波山の法相宗、中禅寺の得一〔とくいち〕の
【料簡に似たり。得一が云はく、】
主張と似ています。その得一〔とくいち〕が言うのには、
【未顕真実とは決定性の二乗を、仏、爾前〔にぜん〕の経にして】
未顕真実とは、決定性〔けつじょうしょう〕の二乗を仏が爾前の経で
【永〔よう〕不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるゝなり。】
永く成仏できないと説かれたことを、未顕真実と否定したのである。
【前四味〔ぜんしみ〕の一切には亘〔わた〕るべからずと申しき。】
前四味の一切には、わたるものではないと主張したのです。
【伝教〔でんぎょう〕大師は前四味に亘りて】
伝教大師は、前四味の一切にわたって、
【文々句々に未顕真実と立て給ひき。】
すべての文々句々が未顕真実であると主張されました。
【さればこの料簡は古〔いにしえ〕の謗法〔ほうぼう〕の者の料簡に似たり。】
それ故に、この考え方は、すでに過去に破折された謗法の考えと同様なのです。
【但し且〔しばら〕く汝等が料簡に随ひて尋ね明らめん。】
ただ、しばらくは、あなたがたの考え方で、問題点を明らかにしていきましょう。
【問ふ、法華已前〔いぜん〕に二乗〔にじょう〕作仏〔さぶつ〕を嫌ひけるを】
第6問、法華経以前の経文で、二乗作仏を否定したことだけを、
【今未顕真実というとならば、先づ決定性の二乗を】
今、未顕真実と言うのであれば、まず決定性〔けつじょうしょう〕の二乗を
【仏の永不成仏と説かせ給ひし処々の経文ばかりは、】
仏が永く成仏できないと説かれた処々の経文だけは、
【未顕真実の仏の妄語〔もうご〕なりと承伏せさせ給ふか。】
未顕真実の仏の嘘であると言う事を認められるのでしょうか。
【さては仏の妄語は勿論なり。】
第6答、そうであれば、もちろん仏が嘘を言われた事は、認められるでしょう。
【若〔も〕し爾〔しか〕らば、妄語の人の申すことは】
もし、そうならば、妄語の人の言うことは、
【有無共に用いぬ事にてあるぞかし。】
有ると言ったことも無いと言ったことも、どちらも、用いては、ならないのです。
【決定性の二乗永不成仏の語ばかり妄語となり、若し余の菩薩凡夫の】
決定性の二乗が永〔よう〕不成仏との言葉だけが妄語となり、もし他の菩薩、凡夫の
【往生成仏等は実語〔じつご〕となるべきならば、信用しがたき事なり。】
往生成仏などは、真実とするなら、まったく信用し難いことです。
【譬へば東方を西方と妄語し申す人は西方を東方と申すべし。】
たとえば、東方を西方と嘘を言う人は、また、西方を東方と言うでしょう。
【二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも】
二乗を不成仏と説く仏が、他の菩薩の成仏を許しても、
【又妄語にあらずや。】
それも、また嘘では、ないでしょうか。
【五乗は但一仏性〔いちぶっしょう〕なり。】
人、天、声聞、縁覚、菩薩の五乗は、ただ一仏性なのです。
【二乗の仏性をかくし、菩薩凡夫の仏性をあらはすは、】
二乗の仏性を隠し、菩薩、凡夫の仏性を顕わすことは、
【返りて菩薩凡夫の仏性をかくすなり。】
返って菩薩、凡夫の仏性を隠すことになるのです。
【有る人云はく、四十余年未顕真実とは、成仏の道ばかり未顕真実なり。】
ある人が、四十余年、未顕真実とは、成仏の道だけが、未顕真実であり、
【往生等は未顕真実にはあらず。】
往生などは、未顕真実ではないと言っていますが、この点についても同じなのです。
【又難じて云はく、四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はゞ、】
第7問、四十余年の間の経文に説かれた成仏を未顕真実とされるのであれば、
【双観〔そうかん〕経に云ふ「正覚を取らじ」】
無量寿経上巻の念仏往生願の文の「もし生ぜずんば、自らも正覚を取らず(中略)
【「成仏より已来〔このかた〕凡〔およ〕そ十劫を歴たり」等の文は】
阿弥陀仏は、成仏已来〔このかた〕、およそ十劫をへたり」などの文章は、
【未顕真実と承伏せさせ給ふか。】
未顕真実と言われるのでしょうか。
【若し爾らば、四十余年の経々にして】
第7答、もし、そうであるならば、四十余年の経々は、未顕真実の経文であり、
【法蔵〔ほうぞう〕比丘〔びく〕の阿弥陀仏〔あみだぶつ〕になり給はずば、】
無量寿経では、法蔵〔ほうぞう〕比丘は、阿弥陀仏に、なれなかったので、
【法蔵比丘の成仏すでに妄語なり。】
法蔵〔ほうぞう〕比丘の成仏は、すでに妄語なのです。
【若し成仏妄語ならば】
この成仏が嘘であるならば、
【何れの仏か行者を迎へ給ふべきや。】
どのような仏が、念仏の行者を、仏が喜んで迎えいれてくれるのでしょうか。
【又かれ此の難を会通〔えつう〕して云はん、四十余年が間は成仏はなし。】
第8問、しかし、また、これを釈明して、四十余年の爾前経に依る成仏ではなく、
【阿弥陀仏は今の成仏にはあらず、過去の成仏なり等云云。】
阿弥陀仏は、今世の成仏ではなく、過去世の法華経に依る成仏と言う事でしょう。
【今難じて云はく、今日の四十余年の経々にして】
第8答、今、この考えに反論すると、釈迦在世の四十余年の爾前経において、
【実の凡夫の成仏を許されずば、過去遠々劫〔おんのんごう〕の】
実際の凡夫の成仏を許されないとすれば、過去、遠々劫〔おんのんごう〕の
【四十余年の権経にても成仏叶ひがたきか。】
仏の四十余年の権経によっても、成仏は、叶わないでしょう。
【三世の諸仏の説法の儀式皆同じきが故なり。】
三世の諸仏の説法の儀式は、皆、同じ方法をとるからです。
【或は云はく】
第9問、あるいは、また彼は、無量義経には、
【「疾〔と〕く無上菩提を成ずることを得ず」ととかるれば、】
「すぐに無上菩提を成ずることを得ず」と説かれているので、
【四十余年の経々にては疾くこそ仏にはならねども、】
四十余年の経々では、速やかに成仏は、できませんが、
【遅く劫を経てはなるか。】
長い時間を経るならば、成仏できるのではないでしょうかと言うのです。
【難じて云はく、次下〔つぎしも〕の】
第9答、この考えを非難しておきましょう。今引用した文章の後の
【大荘厳〔だいしょうごん〕菩薩等の領解〔りょうげ〕に云はく】
大荘厳菩薩などの領解には
【「不可思議〔ふかしぎ〕無量〔むりょう〕無辺〔むへん〕】
「不可思議〔ふかしぎ〕無量〔むりょう〕無辺〔むへん〕
【阿僧祇劫〔あそうぎこう〕を過ぐるとも終に無上菩提を】
阿僧祇劫〔あそうぎこう〕を過ぎたとしても、結局は、無上菩提を
【成ずることを得ず」等云云。此の文の如くならば】
成ずることを得ず」などとあります。この文章の通りであるならば、
【劫を経ても爾前〔にぜん〕の経計〔ばか〕りにては成仏はかた〔難〕きか。】
いかに長い時を経たとしても、爾前の経では、成仏は、できないのです。
【有るひは云ふ、華厳宗〔けごんしゅう〕の料簡〔りょうけん〕に云はく、】
第10問、ある人は、華厳〔けごん〕宗の解釈では、
【四十余年の内には華厳経計りは入るべからず。】
四十余年の中に華厳経だけは、入らない。
【華厳経にすでに往生成仏此あり。なんぞ華厳経を行じて】
その華厳経には、すでに往生成仏が説かれており、どうして華厳経を修行して、
【往生成仏をとげざらん。】
往生成仏を遂げないわけがあるでしょうかと言うのです。
【答へて云はく、四十余年の内に華厳経入るべからずとは】
第10答、これに対して、四十余年の中に華厳経は、入らないと言うのは、
【華厳宗の人師の義なり。無量義〔むりょうぎ〕経には正〔まさ〕しく】
華厳宗の人師の考えであり、無量義経には、まさしく、
【四十余年の内に華厳〔けごん〕海空〔かいくう〕と】
四十余年の内に華厳〔けごん〕海空〔かいくう〕と
【名目〔みょうもく〕を呼び出だして、】
名前を挙げて、
【四十余年の内にかず〔数〕へ入れられたり。】
四十余年の中に数えられているのです。
【人師を本とせば仏を背〔そむ〕くになりぬ。】
人師を根本とすれば、仏に背くことになるのです。
【問うて云はく、法華経を離れて往生成仏をとげずば、】
第11問、それでは、法華経を離れて、往生、成仏が、できないならば、
【仏世に出でさせ給ひては但法華経計りをこそ説き給はめ。】
仏は、この世に出現されて、ただ法華経ばかりを説かれれば、よかったのに、
【なんぞわづらはしく四十余年の経々を説かせ給ふや。】
どうして煩わしく、四十余年の経々を説かれたのでしょうか。
【答へて云はく、此の難は仏自ら答へ給へり。】
第11答、それは、この論難には、仏自身が答えられています。
【「若し但仏乗〔ぶつじょう〕を讃ぜば衆生苦に没在〔もつざい〕して】
法華経、方便品の「もし、ただ仏乗を褒めれば、衆生は、苦に埋〔うず〕もれて、
【法を破して信ぜざるが故に三悪道に堕ちなん」等の経文これなり。】
法を謗〔そし〕って信ぜざる故に、三悪道に堕ちる」などの経文がこれです。
【問うて云はく、いかなれば爾前の経をば衆生謗〔ぼう〕ぜざるや。】
問12問、それでは、何故、爾前の経文を衆生は、誹謗しないのでしょうか。
【答へて云はく、爾前の経々は万差なれども、】
問12答、それは、爾前の経々には、多くの違いがありますが、
【束〔つか〕ねて此を論ずれば随他意〔ずいたい〕と申して】
まとめて、これを論ずれば、随他意と言って
【衆生の心をとかれてはんべり。故に違する事なし。】
衆生の心を説かれているのです。それ故に衆生の心と異なることがないのです。
【譬へば水に石をな〔投〕ぐるにあらそ〔争〕うことなきがごとし。】
譬えば、水に石を投げても、争うことがないようなものです。
【又しなじなの説教はんべれども九界の衆生の心を出でず。】
また、いろいろな説法がありますが、九界の衆生の心を出ては、いないのです。
【衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか。】
衆生の心は、善につけ、悪につけ、迷いを根本とする故に仏に成れないのです。