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顕謗法抄 07 第6章 信而不信と解而不信
第6章 信而不信と解而不信
【難じて云はく、華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ、】
それに反論して言いますが、華厳経には、小乗、大乗、一乗と挙げ、
【密厳経には一切経中の王ととかれ、】
密厳〔みつごん〕経には、一切経中王と説かれており、
【涅槃経には是諸大乗〔ぜしょだいじょう〕とあげ、】
涅槃経には、是諸大乗〔ぜしょだいじょう〕と挙げられており、
【阿弥陀経には念仏に対して諸経小善根とはとかれたれども、】
阿弥陀経には、念仏に対して、諸経を小善根と説かれては、いますが、
【無量義経のごとく四十余年と年限を指して、其の間の大部の諸経を、】
無量義経のように四十余年と年限を区切って、その間のすべての諸経を、
【阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて】
阿含、方等、般若、華厳などと、その名を呼び上げて、
【勝劣をと〔説〕ける事これなし。涅槃経の是諸大乗の文計〔ばか〕りこそ、】
優劣を説いたものは他にありません。涅槃経の是諸大乗の文章だけは、
【双林〔そうりん〕最後の経として是諸大乗とと〔説〕かれたれば、】
双林〔そうりん〕で説かれた釈尊の最後の経として、是諸大乗と説かれているので、
【涅槃経には一切経は嫌はるかとおぼ〔覚〕うれども、】
涅槃経では、一切経は、否定しているかと思われますが、
【是諸大乗経と挙〔あ〕げて、次下〔つぎしも〕に諸大乗経を列ねたるに、】
是諸大乗経と挙げて、その次に、その諸大乗経を列記したところには、
【十二部修多羅〔しゅたら〕・方等・般若等とあ〔挙〕げたり。】
十二部、修多羅、方等、般若などと挙げられています。
【無量義経・法華経をば載〔の〕せず。】
しかし、この中には、無量義経と法華経は、載せられていないのです。
【但し無量義経に挙ぐるところは】
ただ、無量義経に挙げているのは、
【四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあ〔挙〕げたり。】
四十余年に説かれた阿含、方等、般若、華厳経を挙げているのです。
【いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみ〔見〕へず。】
未だに法華経と涅槃経の優劣は、見えません。
【密厳に一切経中王とはあ〔挙〕げたれども、】
また、密厳〔みつごん〕経に一切経中王とは、挙げられていますが、
【一切経をあ〔挙〕ぐる中に華厳・勝鬘〔しょうまん〕等の諸経の名をあげて】
一切経を挙げる中で、華厳、勝鬘〔しょうまん〕などの諸経の名を挙げて、
【一切経中王ととく。故に法華経等とはみへず。】
一切経中王と説かれており、それ故に、その中に法華経の名前は、見えないのです。
【阿弥陀経の小善根は時節もなし小善根の相貌〔そうみょう〕もみへず。】
阿弥陀経に説かれる小善根は、その時期や内容も明らかではなく、
【たれ〔誰〕かしる、小乗経を小善根というか。】
それを、いったい誰が知るのでしょうか。小乗経を小善根と言うのでしょうか。
【又人天の善根を小善根というか。又観経〔かんぎょう〕・】
また、人天の二界の善根を小善根と言うのでしょうか、また観無量寿経、
【双観経〔そうかんぎょう〕の所説の諸善を小善根というか。】
双観経〔そうかんぎょう〕に説かれている諸善を小善根と言うのでしょうか。
【いまだ一代を念仏に対して小善根というとはき〔聞〕こえず。】
未だ一代聖教を念仏に対して、小善根と言う事は、どこにも説かれていないのです。
【又大日経・六波羅蜜経〔ろくはらみつきょう〕等の】
また、大日経、六波羅蜜経などの、
【諸の秘教〔ひきょう〕の中にも、】
数々の真言宗で立てる秘密教の中にも、
【一代の一切経を嫌ふてその経をほめたる文はなし。】
釈尊一代の一切経を否定して、その経を讃嘆している文章は、ありません。
【但し無量義経計〔ばか〕りこそ前四十余年の諸経を嫌ひ、法華経一経に限りて、】
ただ無量義経だけは、それ以前の四十余年の諸経を否定し、法華経一経に限って、
【已説〔いせつ〕の四十余年・今説〔こんせつ〕の無量義経・】
已説の四十余年の諸経、今説の無量義経、
【当説〔とうせつ〕の未来にとくべき涅槃経を嫌ふて】
当説の未来に説くべき涅槃経を否定し、
【法華経計りをほ〔誉〕めたり。釈迦如来・過去現在未来の三世の諸仏、】
法華経だけを讃嘆しているのです。釈迦如来や過去、現在、未来の三世の諸仏が
【世にいで給ひて各々一切経を説き給ふに、】
世に出現されて、おのおの一切経を説かれるのに際して、
【いずれの仏も法華経第一なり。】
いずれの仏も法華経を第一とされているのです。
【例せば上郎・下郎不定〔ふじょう〕なり。】
たとえば、何を上とし、何を下とするかは、一定ではありません。
【田舎にしては、百姓・郎従〔ろうじゅう〕等は侍〔さむらい〕を上郎といふ。】
田舎では、百姓や庶民などは、侍を上とします。
【洛陽にして、源平等已下を下郎といふ。三家を上郎といふ。】
都では、源氏、平家などの一門を下と言い、公家の三家を上と言います。
【又主を王といはゞ百姓も宅中の王なり。】
また、主人を王と言うのであれば、百姓も家の中では、王なのです。
【地頭・領家等も又村・郷・郡・国の王なり。しかれども大王にはあらず。】
地頭、領主なども、また、村、郷、郡、国では、王ですが、大王では、ありません。
【小乗経には無為〔むい〕涅槃〔ねはん〕の理が王なり。】
小乗経では、無為〔むい〕涅槃の理が王であり、
【小乗の戒定〔かいじょう〕等に対して智慧〔ちえ〕は王なり。】
小乗の戒定〔かいじょう〕などに対しては、智慧が王なのです。
【諸大乗経には中道の理が王なり。】
諸大乗経では、中道の理が王です。
【又華厳〔けごん〕経は円融〔えんゆう〕相即〔そうそく〕の王、】
また華厳経では、円融相即が王であり、
【般若〔はんにゃ〕経は空理〔くうり〕の王、大集経は守護正法の王、】
般若経では、空理が王であり、大集経では、守護正法が王であり、
【薬師経〔やくしきょう〕は薬師如来の別願を説く経の中の王、】
薬師経では、薬師如来の十二の大願を説く経文の中の王であり、
【双観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王、】
双観経では、阿弥陀仏の四十八願を説く経文の中の王であり、
【大日経は印〔いん〕・真言〔しんごん〕を説く経の中の王、】
大日経では、印、真言を説く経文の中での王ですが、
【一代一切経の王にはあらず。法華経は】
いずれも釈尊一代の一切経の中の王ではないのです。法華経は、
【真諦〔しんたい〕俗諦〔ぞくたい〕・空〔くう〕仮〔け〕中〔ちゅう〕・】
真諦、俗諦、空仮中の三諦、
【印真言・無為〔むい〕の理・十二大願・四十八願、】
印、真言、無為の理、十二大願、四十八願などの
【一切諸経の所説の所詮〔しょせん〕の法門の大王なり。】
一切の諸経が説くところの究極の法門の大王なのです。
【これ教をし〔知〕れる者なり。】
こうしたことを知ることが、教を知る者なのです。
【而〔しか〕るを善無畏〔ぜんむい〕・】
しかしながら、真言宗の善無畏〔ぜんむい〕三蔵、
【金剛智〔こんごうち〕・不空〔ふくう〕・】
金剛智〔こんごうち〕三蔵、不空〔ふくう〕三蔵、
【法蔵〔ほうぞう〕・澄観〔ちょうかん〕・】
華厳宗の法蔵〔ほうぞう〕、澄観〔ちょうかん〕、
【慈恩〔じおん〕・嘉祥〔かじょう〕・】
法相宗の慈恩〔じおん〕、三論宗の嘉祥〔かじょう〕、
【南三北七・】
中国の南北朝時代の長江流域の南地三師と黄河流域の北地の七師、
【曇鸞〔どんらん〕・道綽〔どうしゃく〕・善導〔ぜんどう〕・】
浄土宗の曇鸞〔どんらん〕、道綽〔どうしゃく〕、善導〔ぜんどう〕、
【達磨〔だるま〕等の、我が所立の依経〔えきょう〕を】
禅宗の達磨〔だるま〕などが、自分の立てた宗派の依経を
【一代第一といえるは教をしらざる者なり。】
釈尊一代の諸経の中で第一と主張しているのは、教を知らない者なのです。
【但し一切の人師の中には天台智者大師一人教をし〔知〕れる人なり。】
ただ、すべての人師の中では、天台智者大師一人だけが教を知る人なのです。
【曇鸞・道綽等の聖道〔しょうどう〕浄土〔じょうど〕・難行〔なんぎょう〕】
曇鸞〔どんらん〕、道綽〔どうしゃく〕などが説く、聖道門と浄土門、難行道と
【易行〔いぎょう〕・正行〔しょうぎょう〕雑行〔ぞうぎょう〕は、】
易行道、正行と雑行の説は、
【源〔みなもと〕十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙論〔びばしゃろん〕に依る。】
もともとは、十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論を根拠にしているのです。
【彼の本論に難行の内に法華・真言等を入れると謂へるは】
しかし、彼らの論に説かれる難行の中に、法華、真言などを入れる考えは、
【僻案〔びゃくあん〕なり。論主の心と】
とんでもない間違った見解なのです。それは、つまり論文を書いた著作者の心と
【論の始中終をしらざる失〔とが〕あり。】
論文の序論と本論と結論を理解せず、内容を間違って理解する過失があるのです。
【慈恩が深密経〔じんみつきょう〕の三時に】
慈恩〔じおん〕は、解深密〔げじんみつ〕経に基づいて立てた三時教判に
【一代ををさ〔納〕めたる事、又本経の三時に】
一代聖教を入れていますが、この経文に説いている三時教判に
【一切経の摂〔と〕らざる事をしらざる失あり。】
すべての経文が含まれないことを知らない重大な過失があるのです。
【法蔵・澄観等が五教に一代ををさ〔納〕むる中に、】
法蔵〔ほうぞう〕、澄観〔ちょうかん〕などが五教に一代聖教を分類した中で、
【法華経・華厳経を円教〔えんぎょう〕と立て、】
法華経と華厳経を円教〔えんぎょう〕と立て、
【又華厳経は法華経に勝れたりとをも〔思〕へるは、所依〔しょえ〕の華厳経に】
また、華厳経は、法華経より優れていると思ったのは、依り処の経文である華厳経に
【二乗〔にじょう〕作仏〔さぶつ〕・久遠〔くおん〕実成〔じつじょう〕を】
二乗作仏、久遠実成が
【あか〔明〕さざるに記小〔きしょう〕・久成〔くじょう〕ありとをも〔思〕ひ、】
明かされていないのに、これらの法門に二乗作仏、久遠実成が説かれていると信じ、
【華厳超過〔ちょうか〕の法華経を我が経に劣ると謂ふは】
はるかに優れている法華経を、自ら信じる華厳経よりも劣っていると思うのは、
【僻見〔びゃっけん〕なり。三論の嘉祥の二蔵等、】
完全に間違った見解なのです。三論宗の嘉祥〔かじょう〕が二蔵などの義を立てて、
【又法華経に般若経すぐれたりとをも〔思〕ふ事は僻案なり。】
また法華経よりも般若経が優れていると思うのも、とんでもない間違いです。
【善無畏等が大日経は法華経に勝れたりといふ。】
善無畏〔ぜんむい〕三蔵などが大日経は、法華経よりも優れていると言うのは、
【法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもし〔知〕らざる者なり。】
法華経の心を知らないばかりか、大日経をも知らない者なのです。
【問うて云はく、此等皆謗法ならば】
それでは、これらの人々の主張が、すべて謗法と言うのであれば、
【悪道に堕〔お〕ちたるか如何〔いかん〕。】
悪道にでも堕ちたと言うのでしょうか。
【答へて云はく、謗法に上中下雑〔ぞう〕の謗法あり。】
それは、謗法には、上、中、下、雑の四種の謗法があるのです。
【慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は】
慈恩〔じおん〕、嘉祥〔かじょう〕、澄観〔ちょうかん〕などの謗法は、
【上中の謗法か。其の上自身も謗法とし〔知〕れるかの間、】
上か中くらいの謗法でしょう。なぜなら、自分でも、謗法とわかったからなのか、
【悔〔く〕い還〔かえ〕す筆これあるか。】
悔い改めた筆を残しているからです。
【又他師をは〔破〕するに二あり。能破〔のうは〕・】
また、他師を論破するのに、二つの種類があります。それは、能破〔のうは〕と
【似破〔じは〕これなり。教はまさ〔勝〕れりとしれども、】
似破〔じは〕です。その教えが優れていると知っていても、
【是非をあら〔表〕はさんがために法をは〔破〕す。これは似破なり。】
是非を明らかにする為に、その法門を謗〔そし〕るのは、似破〔じは〕です。
【能破〔のうは〕とは、実にまされる経を劣とをも〔思〕うて】
実際には、優れている経文を劣ると思って、
【これをは〔破〕す、これは悪能破なり。】
これを謗〔そし〕る悪能破〔のうは〕と、
【又現にをと〔劣〕れるをは〔破〕す、これ善能破なり。】
また、現実に劣っているのを謗〔そし〕る善能破〔のうは〕とがあります。
【但し脇尊者〔きょうそんじゃ〕の】
ただし脇〔きょう〕尊者の金の延べ棒は、どのような形にも変化すると言う
【金杖〔こんじょう〕の譬へは、小乗経は多しといへども】
金杖〔こんじょう〕の譬えは、小乗経典は、多いと言っても
【同じ苦〔く〕・空〔くう〕・無常〔むじょう〕・無我〔むが〕の理なり。】
すべて同じ、苦、空、無常、無我の理を説いていると言う意味なのです。
【諸人同じく此の義を存じて、】
小乗経の人々は、一同に、この義を知っているので、
【十八部・二十部・相ひ諍論〔じょうろん〕あれども、】
十八部、二十部の間で互いに言い争っても、
【但門の諍〔あらそ〕ひにて理の諍ひにはあらず。】
それは、ただ入門の違いによる争いであって、最終的な理論の争いではないのです。
【故に共に謗法とならず。】
それ故に、ともに謗法とは、ならないのです。
【外道〔げどう〕が小乗経を破するは、外道の理は常住〔じょうじゅう〕なり、】
外道が小乗経を謗〔そし〕るのは、外道の理は、常住であり、
【小乗経の理は無常なり空なり。故に外道が小乗経をは〔破〕するは】
小乗の理は、無常であり、空なのです。それ故に外道が小乗経を謗〔そし〕るのは、
【謗法となる。大乗経の理は中道なり。小乗経は空なり。】
謗法なのです。大乗経の理は、中道であり、小乗経の理は、空なのです。
【小乗経の者が大乗経をは〔破〕するは謗法となる。】
それ故に小乗経の者が大乗経を謗〔そし〕るのは、謗法となるのです。
【大乗経の者が小乗経をは〔破〕するは破法〔はほう〕とならず。】
逆に大乗経の者が小乗経を謗〔そし〕るのは、破法とはならないのです。
【諸大乗経の中の理は未開会〔みかいえ〕の理、】
諸大乗経の中の理は、未開会〔みかいえ〕の理であり、
【いまだ記小〔きしょう〕久成〔くじょう〕これなし。】
未だ、二乗作仏、久遠実成が明かされていないのです。
【法華経の理は開会の理、記小久成これあり。】
法華経の理は、開会の理であり、二乗作仏、久遠実成が明かされています。
【諸大乗経の者が法華経をは〔破〕するは謗法となるべし。】
それ故に諸大乗経の者が、法華経を謗〔そし〕るのは、謗法となるのです。
【法華経の者の諸大乗経を謗ずるは謗法となるべからず。】
しかし、法華経の者が諸大乗経を謗〔そし〕るのは、謗法とは、ならないのです。
【大日経・真言宗は未開会、】
たとえば、真言宗の依経である大日経は、未開会〔みかいえ〕であり、
【記小久成なくば法華経已前なり。】
二乗作仏、久遠実成を説かないので、法華経以前の方便権経なのです。
【開会・記小・久成を許さば涅槃〔ねはん〕経とおなじ。】
開会〔かいえ〕、二乗作仏、久遠実成を許したとしても、涅槃経と同じなのです。
【但し善無畏〔ぜんむい〕三蔵〔さんぞう〕・金剛智〔こんごうち〕・】
ただし、善無畏〔ぜんむい〕三蔵、金剛智〔こんごうち〕三蔵、
【不空〔ふくう〕・一行〔いちぎょう〕等の性悪の法門・】
不空〔ふくう〕三蔵、一行〔いちぎょう〕阿闍梨〔あじゃり〕などの性悪の法門と
【一念三千の法門は天台智者の法門をぬす〔盗〕めるか、】
一念三千の法門は、天台智者大師の立てた法門を盗み入れたものなのです。
【若〔も〕し爾〔しか〕らば、善無畏等の謗法は似破か】
もし、そうであるならば、善無畏〔ぜんむい〕三蔵などの謗法は、似破〔じは〕か、
【又雑〔ぞう〕謗法〔ほうぼう〕か。】
または、雑〔ぞう〕謗法の、いずれなのでしょうか。
【五百羅漢〔ごひゃくらかん〕の真因〔しんいん〕は小乗十二因縁の事なり。】
五百羅漢〔らかん〕の真因(身因)は、小乗の十二因縁の事であり、その十二因縁の
【無明〔むみょう〕・行〔ぎょう〕等を縁として】
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死などを縁として、
【空理〔くうり〕に入ると見へたり。門は諍へども謗法とならず。】
空理に入ったと見え、その空理に入る門を争っても、謗法とは、ならないのです。
【摂論〔しょうろん〕の四意趣〔しいしゅ〕・大論〔だいろん〕の】
摂〔しょう〕大乗論の四意趣〔しいしゅ〕や大智度論の
【四悉檀〔ししつだん〕等は、無著〔むじゃく〕菩薩・竜樹菩薩】
四悉檀〔ししつだん〕などは、無著〔むじゃく〕菩薩や竜樹菩薩が
【滅後の論師として、法華経を以て一切経の心をえ〔得〕て四悉・】
仏滅後の論師として、法華経によって一切経の心を知り、四悉檀〔ししつだん〕、
【四意趣等を用ひて爾前〔にぜん〕の経々の意を判ずるなり。】
四意趣〔しいしゅ〕などを用いて、爾前の経々の意義を判定したのです。
【未開会の四意趣・四悉檀と】
未開会の四意趣〔しいしゅ〕と四悉檀〔ししつだん〕と
【開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、】
開会の四意趣〔しいしゅ〕と四悉檀〔ししつだん〕とを、混同すれば、
【あに〔豈〕謗法にあらずや。】
それは、まさに謗法ではないでしょうか。
【此等をよくよくしるは教をしれる者なり。】
これらの事を、よく理解している者が、教を知る者なのです。
【四句あり。】
また、信と解については、四つの言葉があります。
【一に信而〔しんに〕不解〔ふげ〕、二に解而〔げに〕不信〔ふしん〕、】
一に信は、あるが、解がない信而不解。二に解は、あるが、信がない解而不信。
【三に亦信〔やくしん〕亦解〔やくげ〕、四に非信〔ひしん〕非解〔ひげ〕。】
三に信も解もある亦信亦解。四に信も解もない非信非解。
【問うて云はく、信而不解の者は謗法なるか。】
それでは、信は、あるが、解がない信而不解の者は、謗法なのでしょうか。
【答へて云はく、法華経に云はく】
それは、法華経譬喩品に
【「信を以て入ることを得」等云云。】
「信を以って入ることを得」とあるので、解は、なくても信があるので、
【涅槃経の九に云はく。】
謗法とは、ならず、また涅槃経第九巻にも、この経を聞き終わって、
【難じて云はく、涅槃経三十六に云はく】
すべて菩提の因縁となるとあります。しかしながら、涅槃経第36巻には、
【「我契経〔かいきょう〕の中に於て説く、二種の人有り仏法僧を謗ずと。】
「仏は、経の中で二種類の人があって、仏法僧を謗〔そし〕ると説いた。
【一には不信にして瞋恚〔しんに〕の心あるが故に、】
一には、信じないで怒りの心があるからであり、
【二には信ずと雖〔いえど〕も義を解〔げ〕せざるが故に。】
二には、信じるけれども、教義を理解できないからである。
【善男子〔ぜんなんし〕、若し人信心あって智慧有ること無き、】
善男子よ、もし、その人に信心があっても、智慧がなければ、
【是の人は則〔すなわ〕ち能〔よ〕く無明〔むみょう〕を増長〔ぞうちょう〕す。】
この人は、迷いの心である無明を増し、
【若し智慧有って信心有ること無き、】
もし、智慧があって、信心のない人は、
【是の人は則ち能く邪見〔じゃけん〕を増長す。】
即ち、よく邪見を増すのである。
【善男子、不信の人は瞋恚〔しんに〕の心あるが故に説いて】
善男子よ、不信の人は、怒りの心があるから、
【仏法僧宝有ること無しと言はん。】
仏法僧の三宝は、ないと言う。
【信ずる者にして慧〔え〕無くば顚倒〔てんどう〕して義を解〔げ〕するが故に、】
信心は、あっても、智慧のない者は、間違って教義を解釈するから、
【法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ」等云云。】
法を聞く者に仏法僧を謗〔そし〕らせるであろう」と説かれています。
【此の二人の中には信じて而〔しか〕も解せざる者を】
この二種類の人を説く中で、信じて解のない者を
【謗法と説く如何。】
謗法と説いているが、この点はどうでしょうか。
【答へて云はく、此の信而〔しんに〕不解〔ふげ〕の者は】
それは、ここで言う、信は、あるが、解がない信而不解の者は、
【涅槃経の三十六に恒河〔ごうが〕の七種の衆生の第二の者を説くなり。】
涅槃経第36巻に説かれた恒河の七種の衆生の第二の出已復没の者を言うのです。
【此の第二の者は涅槃経の一切衆生悉有仏性〔しつうぶっしょう〕の説を聞いて】
この第二の者は、涅槃経にある一切衆生すべてに仏性があると言う説を聞いて、
【之を信ずと雖も】
これを信じるといえども、
【而も又不信の者なり。】
実際には、信じない者で、これは、信而不解とは、違い謗法不信の者なのです。
【問うて云はく、如何ぞ信ずと雖も而も不信なるや。】
それでは、どうして信ずるといえども、不信と言うのでしょうか。
【答へて云はく、一切衆生悉有仏性の説を聞いて之を信ずと雖も、】
それは、一切衆生すべてに仏性があると言う説を聞いて、一往は、信じるのですが、
【又心を爾前〔にぜん〕の経に寄〔よ〕する一類の衆生をば】
爾前の諸経で説く、二乗不作仏などに心を寄せる同類の衆生を、
【無仏性〔むぶっしょう〕の者と云ふなり。此〔これ〕信而不信の者なり。】
仏性が無い者と言うのです。これが信而不信の者です。
【問うて云はく、証文如何。】
それでは、その証文は、ありますか。
【答へて云はく、恒河第二の衆生を説いて云はく、経に云はく】
それは、涅槃経に、この恒河の七種の衆生の第二の出已復没の者を説いて、
【「是〔か〕くの如き大涅槃経を聞くことを得て信心を生ず。】
「是〔か〕くの如き大涅槃経を聞く事ができ、信心を生ず。
【是を名づけて出と為す」と。】
これを恒河を出るとなす」とあります。
【又云はく「仏性は是衆生に有りと信ずと雖も】
また「仏性は、衆生に有ると信じるといえども、
【必ずしも一切皆悉〔ことごと〕く之有らず。】
必ずしも、すべての衆生が、みな、ことごとく、それが有るわけではない。
【是の故に名づけて信〔しん〕不具足〔ふぐそく〕と為す」文。、】
この故に信、不具足〔ふぐそく〕と名づける」とあります。
【此の文の如くんば、口には涅槃を信ずと雖も】
この経文の通りであるならば、口では、涅槃経を信じると言っていても、
【心に爾前の義を存する者なり。】
心では、爾前の教義がある者であり、
【又此の第二の人を説いて云はく「信ずる者にして慧無くば】
また、この恒河の第二の出已復没の人を説いて「信じる者でも、智慧がなければ、
【顚倒して義を解するが故に」等云云。】
まったく真逆に仏法の教義を解釈するが故に」と説かれています。
【顚倒〔てんどう〕解義〔げぎ〕とは、】
この真逆に仏法の教義を解釈すると言うのは、
【実経〔じっきょう〕の文を得て権経〔ごんきょう〕の義と覚〔さと〕る者なり。】
実経の文章を得て、それを権経の教義であると間違って覚る者の事を言うのです。
【問うて云はく、信而不解】
それでは、信は、あるが、解がない信而不解の者でも、
【得道〔とくどう〕の文如何。答へて云はく、涅槃経の三十二に云はく】
得道ができるという文章は、あるでしょうか。それは、涅槃経第32巻に
【「此の菩提〔ぼだい〕の因は復〔また〕無量なりと雖も、】
「菩提を得る因は、無量であるけれども、
【若し信心を説けば已〔すで〕に摂尽す」文。】
もし信心を説くならば、すでに、その中に全ての因を納め尽くす」とあります。
【九に云はく「此の経を聞き已〔お〕はって悉く皆菩提の因縁と作〔な〕る。】
また、涅槃経の第9巻に「この経を聞き終わって、すべてが菩提の因縁となる。
【法声〔ほうしょう〕光明〔こうみょう〕毛孔に入る者は必ず定〔さだ〕んで】
仏の説法の声や光明が、毛孔から入る者は、必ずや
【当〔まさ〕に阿耨多羅〔あのくたら〕三藐三菩提〔さんみゃくさんぼだい〕を】
無上の悟りである阿耨多羅〔あのくたら〕三藐三菩提〔さんみゃくさんぼだい〕を
【得〔う〕べし」等云云。法華経に云はく】
得ることができる」などと説かれています。さらに、法華経譬喩品に
【「信を以て入ることを得」等云云。】
「信によって、仏道に入ることを得る」などと説かれています。
【問うて云はく、解而〔げに〕不信〔ふしん〕の者は如何〔いかん〕。】
それでは、解は、あるが、信がない解而不信の者は、謗法になるのでしょうか。
【答ふ、恒河〔ごうが〕の第一の者なり。】
それは、恒河の七種の衆生の中の第一の入水則没の常没の者なのです。
【問うて云はく、証文如何。】
それでは、その証文は、あるのでしょうか。
【答へて云はく、涅槃経の三十六に第一を説いて云はく】
それは、涅槃経第36巻に恒河第一の衆生を説いて
【「人有りて是の大涅槃経の如来〔にょらい〕常住〔じょうじゅう〕】
「たとえば、ある人が、この大涅槃経の如来常住
【無有〔むう〕変易〔へんにゃく〕常楽我浄〔じょうらくがじょう〕を聞くとも、】
無有〔むう〕変易〔へんにゃく〕常楽我浄の三大秘法の大御本尊の名を聞くとも、
【終〔つい〕に畢竟〔ひっきょう〕して涅槃の一切衆生悉有仏性に入らざるは】
最終的に涅槃経の一切衆生悉有仏性の仏意を信じなければ、
【一闡提〔いっせんだい〕の人なり。】
一闡提〔いっせんだい〕であり、逆に三大秘法の大御本尊を信じる者は、
【方等〔ほうどう〕経を謗じ五逆罪を作り四重禁を犯すとも、】
方等経を謗〔そし〕り、五逆罪を作り、四重禁戒を犯す者でも、
【必ず当に菩提〔ぼだい〕の道を成ずることを得べし。】
必ず、菩提の道を成就することができる。
【須陀洹〔しゅだおん〕の人・】
また、小乗経の声聞の四沙門果〔ししゃもんか〕である須陀洹〔しゅだおん〕の人、
【斯陀含〔しだごん〕の人・阿那含〔あなごん〕の人・阿羅漢〔あらかん〕の人・】
斯陀含〔しだごん〕の人、阿那含〔あなごん〕の人、阿羅漢〔あらかん〕の人、
【辟支仏〔びゃくしぶつ〕等必ず当に阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得べし。】
また辟支仏〔びゃくしぶつ〕も、必ず三大秘法の大御本尊を信じる事ができる。
【是の語〔ことば〕を聞き已〔お〕はって不信の心を生ず」等云云。】
しかし、一闡堤の人は、これらの説を聞いて、不信の心を生ず」などとあります。
【問うて云はく、此の文不信とは見えたり。】
それでは、この経文は、三大秘法の大御本尊への不信だけで、あって
【解而〔げに〕不信〔ふしん〕とは見えず如何。】
解は、あるが、信がない解而不信とは、思えませんが、どうでしょうか。
【答へて云はく、第一の結文〔けつもん〕に云はく】
それは、涅槃経第36巻の恒河第一の衆生を説いた結文に
【「若し智慧有りて信心有ること無くんば、是の人は則〔すなわ〕ち能〔よ〕く】
「もし、智慧があっても、信心のない者は、即ち、よく
【邪見〔じゃけん〕を増長〔ぞうちょう〕す」文。】
邪見を増長する」とあり、これは、解而不信〔げにふしん〕と言う意味なのです。