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顕謗法抄 06 第5章 教を知って弘経する
第5章 教を知って弘経する
【第四に行者仏法を弘むる用心を明かさば、】
第四に、末法の行者が、仏法を弘める為の心構えを明らかにすれば、
【夫〔それ〕仏法をひろ〔弘〕めんとをも〔思〕はんものは】
まずもって、仏法を弘めようと思う者は、
【必ず五義を存じて正法をひろむべし。五義とは、】
必ず、五義を心得て、正法を弘めるべきなのです。その五義とは、
【一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。】
教、機、時、国、仏法流布の前後の五つの義です。
【第一に教とは、如来一代五十年の説教は】
第一の教とは、釈尊一代五十年の説教には、
【大小・権実〔ごんじつ〕・顕密〔けんみつ〕の差別あり。】
大乗経と小乗経、権教と実教、顕教と密教の差別があります。
【華厳宗には五教を立て一代ををさめ、】
華厳宗では、五教を理論立て、釈尊一代の説法を区分して、ひとつに納め、
【其の中には華厳・法華を最勝とし、】
その中では、華厳教と法華経を最も優れているとし、
【華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす。】
華厳経と法華経の中では、華厳経をもって第一としています。
【南三北七並びに華厳宗の祖師・】
中国の南北朝時代の南三、北七の十宗派と華厳宗の祖師、
【日本国の東寺の弘法〔こうぼう〕大師此の義なり。】
日本の東寺の弘法〔こうぼう〕大師は、この理論を立てています。
【法相宗は三時に一代ををさめ、】
法相宗では、三時教判に釈尊一代の説法を区分して理論立て、ひとつに納め、
【其の中に深密〔じんみつ〕・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす。】
その中で深密経、法華経を一代の聖教の中で最も優れているとしています。
【深密・法華の中、法華経は了義経〔りょうぎきょう〕の中の不了義経、】
深密経、法華経の中では、法華経は、了義経の中の不了義経、
【深密経は了義経の中の了義経なり。】
深密経は、了義経の中の了義経であるとしています。
【三論宗に又二蔵三時を立つ。】
三論宗では、また二蔵と三時教判を理論立てています。
【三時の中の第三、中道教〔ちゅうどうきょう〕とは、般若・法華なり。】
三時教判の中の第三、中道教とは、般若経と法華経であり、
【般若・法華の中には般若最第一なり。】
その般若経と法華経の中では、般若経が最第一であるとしています。
【真言宗には日本国に二の流あり。】
真言宗には、日本国に二つの流れがあります。
【東寺流は弘法大師十住心〔じゅうじゅうしん〕を立て、】
東寺流では、弘法大師が十住心〔じゅうじゅうしん〕を理論立てて、
【第八法華・第九華厳・第十真言。】
第八に法華、第九に華厳、第十に真言として、
【法華経は大日〔だいにち〕経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり。】
法華経は、大日経に劣るばかりか、なお華厳経にも劣るとしています。
【天台の真言は慈覚〔じかく〕大師等、】
天台の真言では、慈覚大師などが、
【大日経と法華経とは広略〔こうりゃく〕の異なりなり。】
大日経と法華経とは、広と略の違いがあり、
【法華経は理秘密〔りひみつ〕、大日経は事理倶密〔じりぐみつ〕なり。】
法華経は、理秘密、大日経は、事理倶密で法華経よりも優れているとしています。
【浄土宗には聖道〔しょうどう〕・浄土、難行〔なんぎょう〕・】
浄土宗では、聖道〔しょうどう〕門、浄土門、難行道、
【易行〔いぎょう〕、雑行〔ぞうぎょう〕・正行〔しょうぎょう〕を立てたり。】
易行〔いぎょう〕道、雑〔ぞう〕行、正〔しょう〕行を理論立てています。
【浄土の三部経より外の法華経等の一切経は】
その浄土三部経以外の法華経などの一切経は、
【難行・聖道・雑行なり。】
難行道、聖道〔しょうどう〕門、雑〔ぞう〕行であると誹謗しています。
【禅宗には二の流あり。一流は一切経、一切の宗の】
禅宗には、二つの流れがあり、その一つは、一切経、一切の宗派の
【深義〔じんぎ〕は禅宗なり。】
深義は、禅宗にあるとしています。
【一流は如来一代の聖教は皆言説〔ごんせつ〕、】
もう一つは、釈尊一代の聖教は、すべて言説に出でたものであり、
【如来の口輪〔くりん〕の方便なり。禅宗は如来の意密〔いみつ〕、】
それは、釈尊の口を通して示された方便であり、禅宗は、釈尊の秘密の本意であり、
【言説にをよばず、教外〔きょうげ〕の別伝なり。】
それは、言説に説きあらわさず、教外別伝されたものであるとしています。
【倶舎〔くしゃ〕宗・成実〔じょうじつ〕宗・律〔りつ〕宗は小乗宗なり。】
倶舎〔くしゃ〕宗、成実〔じょうじつ〕宗、律〔りつ〕宗は、小乗経の宗派です。
【天竺〔てんじく〕・震旦〔しんだん〕には小乗宗の者、】
インド、中国においては、小乗経の宗派の者が、
【大乗を破する事これ多し。日本国には其の義なし。】
大乗を謗〔そし〕る事が、多いのですが、日本では、そのような事はありません。
【問うて云はく、諸宗の異義区〔まちまち〕なり。】
それでは、このように諸宗派の異なる意見は、まちまちですが、
【一々に其の謂〔いわ〕れありて得道〔とくどう〕をなるべきか。】
それぞれに、その根拠があって、はたして、これらで得道できるのでしょうか。
【又諸宗皆謗法となりて一宗計〔ばか〕り正義となるべきか。】
それとも、諸宗派は、皆、謗法であって、ただ一宗だけが、正義なのでしょうか。
【答へて云はく、異論相違ありといえども皆得道なるか。】
それは、異論や相違は、ありますが、すべて得道できると言えます。
【仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国〔けんだらこく〕の】
仏の滅後四百年に健駄羅〔けんだら〕国の
【迦弐色迦王〔かにしかおう〕、仏法を貴み、一夏〔いちげ〕、僧を供し】
迦弐色迦〔かにしか〕王は、仏法を貴んで、一夏の間、僧に供養し
【仏法をと〔問〕いしに一々の僧異義多し。】
仏法について、質問しましたが、一人一人の僧の答えに違いが多かったので、
【此の王不審して云はく、仏説は定〔さだ〕んで一ならん、】
この王は、不審に思って、仏説は、必ず一つであろうと、
【終に脇尊者〔きょうそんじゃ〕に問ふ。】
最後に脇〔きょう〕尊者に尋ねたのです。
【尊者答へて云はく、金杖〔こんじょう〕を折って種々の物につくるに、】
脇〔きょう〕尊者が、答えて言うのには、金の延べ棒を折って物を作ると、
【形は別なれども金杖は一なり。】
その形は、別々であるけれども、本の金の延べ棒は、一つである。
【形の異なるをば諍〔あらそ〕ふといへども、金〔こがね〕たる事をあらそはず。】
形の異なることを争ったとしても、それが金であることを争う必要はない。
【門々不同なれば、いりかどをば諍へども、】
教える法門が不同であるので、その入口の是非は、争っても、
【入理〔にゅうり〕は一なり等云云。又】
入って得る真理は、一であると説明しました。また、罽賓〔けいひん〕国の
【求那跋摩〔ぐなばつま〕云はく、諸論各〔おのおの〕異端なれども】
求那跋摩〔ぐなばつま〕は、諸論には、違いがあっても、
【修行の理は二無し。偏執〔へんしゅう〕に是非有りとも】
修行の理論には、二つはなく、ただ一つである。偏執によって、是非があるとも、
【達者は違諍〔いじょう〕なし等云云。】
実際に目的を達した者は、それを争うなどと言うことは、ないと言っています。
【又五百羅漢〔ごひゃくらかん〕の】
また、涅槃経第35巻によると五百羅漢〔らかん〕が、阿羅漢になった、
【真因〔しんいん〕各異なれども同じく聖理をえ〔得〕たり。】
ほんとう原因は、それぞれ異なったのですが同じく聖理を得る事ができたのです。
【大論〔だいろん〕の四悉檀〔ししつだん〕の中の対治〔たいじ〕悉檀、】
大智度論の四悉檀〔ししつだん〕の中の対治〔たいじ〕悉檀や、
【摂論〔しょうろん〕の四意趣〔しいしゅ〕の中の】
摂大乗論の四つの意趣〔いしゅ〕の中の
【衆生〔しゅじょう〕意楽〔いぎょう〕意趣〔いしゅ〕、】
衆生〔しゅじょう〕意楽〔いぎょう〕意趣〔いしゅ〕の言葉によって、
【此等は此の善を嫌〔きら〕ひ、此の善をほ〔誉〕む。】
あるときは、この善を否定し、また、あるときは、この善を誉〔ほ〕めるのです。
【檀戒進〔だんかいしん〕等】
すなわち、檀(布施)波羅蜜、持戒波羅蜜、精進波羅蜜などの六波羅蜜の修行の
【一々にそし〔謗〕り、一々にほむる、皆得道をなる。】
一つ一つを、ある時は、謗〔そし〕り、ある時は、褒めて、皆、得道できるのです。
【此等を以てこれを思ふに、護法〔ごほう〕・清弁〔しょうべん〕のあらそい、】
これらから思うのには、護法〔ごほう〕や清弁〔しょうべん〕の争いや、
【智光〔ちこう〕・戒賢〔かいげん〕の空・中、】
智光〔ちこう〕と戒賢〔かいげん〕の空理と中道の争い、
【南三北七の頓漸〔とんぜん〕不定〔ふじょう〕、】
南三北七の頓〔とん〕、漸〔ぜん〕、不定〔ふじょう〕、
【一時・二時・三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、】
一時、二時、三時、四時、五時、四宗、五宗、六宗の教判、
【天台の五時、華厳の五教、】
天台の五時、華厳宗の五教、
【真言教〔しんごんきょう〕の東寺〔とうじ〕・天台の諍〔じょう〕、】
東寺の真言密教である東密と比叡山の天台宗の密教、台密の争い、
【浄土宗の聖道〔しょうどう〕・浄土、禅宗〔ぜんしゅう〕の教外・教内、】
浄土宗の聖道門と浄土門、禅宗の教外と教内、
【入門は差別せりといふとも】
これらは、入る門は、異なっていても、
【実理に入る事は但一なるべきか。】
実理に達することについては、ただ一つであると言えるでしょう。
【難じて云はく、華厳の五教、法相・三論の三時、】
今の主張に反論したいと思いますが、華厳宗の五教判、法相、三論宗の三時教判、
【禅宗の教外、浄土宗の難行〔なんぎょう〕・易行〔いぎょう〕、】
禅宗の教外別伝、浄土宗の難行道、易行道、
【南三北七の五時等、門はこと〔異〕なりといへども】
南三北七の五時教判など、法門は、それぞれ異なると言っても、
【入理一にして、皆仏意に叶〔かな〕ひ謗法とならずとい〔言〕はゞ、】
真理は、一つであって、すべて仏意にかない謗法には、ならないのであれば、
【謗法といふ事あるべからざるか。】
そもそも謗法と言うものは、有り得ない事になるのではないでしょうか。
【謗法とは法に背〔そむ〕くという事なり。】
謗法とは、法に背くと言うことです。
【法に背くと申すは、小乗は小乗経に背き、】
法に背くと言うのは、小乗の立場で言えば、小乗経に背き、
【大乗は大乗経に背く。】
大乗の立場で言えば、大乗経に背くことです。
【法に背かばあに〔豈〕謗法とならざらん。】
法に背けば、どうして謗法にならないことがあるでしょうか。
【謗法とならばなんぞ苦果をまねかざらん。】
さらに、謗法であれば、どうして苦悩の結果を招かないはずがあるでしょうか。
【此の道理にそむ〔背〕くこれひとつ。大般若〔だいはんにゃ〕経に云はく】
今の答えは、道理に背いており、これが第一です。大般若〔だいはんにゃ〕経に
【「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻〔だいあび〕地獄に堕〔お〕つべし」と。】
「般若を謗〔そし〕る者は、十方の大阿鼻〔あび〕地獄に堕ちる」と説かれ、
【法華経に云はく「若〔も〕し人信ぜず乃至其の人命終〔みょうじゅう〕して】
法華経譬喩品には「もし人が信ぜずして(中略)その人は、命を終えて
【阿鼻獄に入らん」と。涅槃〔ねはん〕経に云はく「世に難治〔なんじ〕の】
阿鼻〔あび〕地獄に入る」と説かれ、涅槃経には「世に治しがたい
【病〔やまい〕三あり。一には四重〔しじゅう〕、二には五逆〔ごぎゃく〕、】
病が三つある。一には、四重禁を犯す事であり、二には、五逆罪を犯す事であり、
【三には謗大乗〔ぼうだいじょう〕なり」と。】
三には、大乗を謗〔そし〕ることである」と説かれています。
【此等の経文あに〔豈〕むな〔虚〕しかるべき。此等は証文なり。】
これらの経文が、どうして、無意味なことがあるでしょうか。これらは、証文です。
【されば無垢〔むく〕論師・大慢〔だいまん〕婆羅門〔ばらもん〕・】
それ故に、無垢〔むく〕論師、大慢〔だいまん〕婆羅門〔ばらもん〕、
【熈連〔きれん〕禅師〔ぜんじ〕・】
熈連〔きれん〕禅師〔ぜんじ〕、
【嵩霊〔すうりょう〕法師〔ほっし〕等は正法を謗じて、】
嵩霊〔すうりょう〕法師〔ほっし〕などは、正法を誹謗〔ひぼう〕して、
【現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌口中に爛〔ただ〕れたり。これは現証なり。】
現身のまま大阿鼻〔あび〕地獄に堕ち、舌がただれたのです。これが現証です。
【天親〔てんじん〕菩薩は小乗の論を作って諸大乗経をは〔破〕しき。】
天親菩薩は、小乗の論を作って、諸大乗経を謗〔そし〕りました。
【後に無著〔むじゃく〕菩薩に対して此の罪を懺悔〔さんげ〕せんがために】
後に兄の無著〔むじゃく〕菩薩に対して、この罪をつぐなう為に
【舌を切らんとく〔悔〕い給ひき。】
舌を切ろうとするほど悔〔く〕いたのです。
【謗法もし罪とならずんば、いかんが千部の論師懺悔をいたすべき。】
謗法が、もし、罪にならなければ、どうして千部の論師が後悔するでしょうか。
【闡提〔せんだい〕とは天竺〔てんじく〕の語、】
闡提〔せんだい〕とは、インドの言葉であり、
【此〔ここ〕には不信と翻〔ほん〕ず。】
漢語では、不信と翻訳します。
【不信とは、一切衆生悉有仏性〔しつうぶっしょう〕を信ぜざるは】
不信とは、一切衆生、すべてに仏性がそなわると言う事を信じないことであり、
【闡提の人と見へたり。不信とは謗法の者なり。】
これを闡提〔せんだい〕の人と言うのです。不信とは、謗法の者です。
【恒河〔ごうが〕の七種の衆生の第一は】
涅槃経の第三十六巻の恒河の七種の衆生の第一は、この解而不信の者のことであり
【一闡提】
一闡提〔いっせんだい〕が生死の恒河において、
【謗法〔ほうぼう〕常没〔じょうもつ〕の者なり。】
すぐに沈んで二度と浮かんでこない謗法常没の者であると説かれているのです。
【第二には五逆】
第二は、五逆罪の者であり、生死の恒河において、浮かんでは、沈む、
【謗法常没等の者なり。あに謗法ををそ〔恐〕れざらん。】
謗法常没の者と説かれています。どうして謗法を恐れずにいられましょうか。
【答へて云はく、謗法とは、只由〔よし〕なく仏法を謗ずるを謗法というか。】
それに対して諸宗派が、謗法とは、ただ理由もなく仏法を謗る事を言うのであり、
【我が宗をた〔建〕てんがために余法〔よほう〕を謗ずるは謗法にあらざるか。】
自宗を立てる為に他を謗〔そし〕るのは、謗法とは、ならないと主張するのです。
【摂論〔しょうろん〕の四意趣〔しいしゅ〕の中の】
摂〔しょう〕大乗論に説かれる四意趣〔しいしゅ〕の中の
【衆生〔しゅじょう〕意楽〔いぎょう〕意趣〔いしゅ〕とは、】
衆生〔しゅじょう〕意楽〔いぎょう〕意趣〔いしゅ〕とは、
【仮令〔たとい〕人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり。】
もし、ある人が一生の間に一つの善も行わず、ただ、悪事のみを行って、
【而〔しか〕るに小縁にあ〔会〕ひて何れの善にてもあれ一善を修せんと申す。】
小さな縁によって、どんな小さな善でも、一つの善を行うと言うのであれば、
【これは随喜〔ずいき〕讃歎〔さんだん〕すべし。】
これは、喜んで、褒〔ほ〕め称〔たた〕えるべきなのです。
【又善人あり、一生の間たゞ一善を修す。】
また、ある善人がいて、一生の間に、ただ一つの善を行ったが、
【而るを他の善へうつ〔移〕さんがためにそのぜん〔善〕をそし〔毀〕る。】
他の善を行わせる為に、その善を、大したことではないと謗ることもあります。
【一事の中に於て或は呵〔か〕し或は讃〔さん〕ずというこれなり。】
一つの事について、あるいは、叱り、あるいは、褒めると言うのは、これなのです。
【大論〔だいろん〕の四悉檀〔ししつだん〕の中の対治〔たいじ〕悉檀】
大智度論に、説かれている四悉檀〔ししつだん〕の中の対治〔たいじ〕悉檀も
【又これおなじ。浄名経〔じょうみょうきょう〕の】
また、これと同じなのです。浄名〔じょうみょう〕経における
【弾呵〔だんか〕と申すは】
小乗経の灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗への糾弾と言うのは、小乗経の
【阿含〔あごん〕経の時ほめし法をそし〔毀〕るなり。】
阿含〔あごん〕経を説く時に、褒めた法を浄名経で謗〔そし〕る事なのです。
【此等を以ておもふに、或は衆生多く小乗の機あれば、】
これらの事から、わかるのは、衆生の多くが小乗の理解力しかない者であれば、
【大乗を謗〔そし〕りて小乗経に信心をま〔増〕し、】
大乗を謗〔そし〕って、小乗経の信心を増すようにさせ、
【或は衆生多く大乗の機なれば、】
あるいは、衆生の多くが大乗の理解力しかないのであれば、
【小乗経をそし〔毀〕りて大乗経に信心をあつ〔篤〕くす。】
小乗経を謗〔そし〕って、大乗経の信心を厚くさせるのです。
【或は衆生弥陀仏に縁あれば、】
あるいは、衆生が阿弥陀仏に縁があれば、
【諸仏をそし〔毀〕りて弥陀に信心をま〔増〕さしめ、】
他の諸仏を謗〔そし〕って、阿弥陀仏の信心を増すようにさせ、
【或は衆生多く地蔵に縁あれば、諸菩薩をそし〔毀〕りて】
あるいは、衆生の多くが地蔵菩薩に縁があれば、他の諸菩薩を謗〔そし〕って
【地蔵をほ〔誉〕む。或は衆生多く華厳〔けごん〕経に縁あれば、】
地蔵を讃め、あるいは、衆生の多くが華厳経に縁があれば、
【諸経をそし〔毀〕りて華厳経をほ〔誉〕む。】
他の諸経を謗〔そし〕って華厳経を誉めるのです。
【或は衆生大般若〔だいはんにゃ〕経に縁あれば、】
あるいは、衆生が大般若〔だいはんにゃ〕経に縁があれば、
【諸経をそし〔毀〕りて大般若経をほ〔誉〕む。】
他の諸経を謗〔そし〕って大般若経を誉めるのです。
【或は衆生法華経、或は衆生大日〔だいにち〕経等、】
あるいは、衆生が法華経に、あるいは、衆生が大日経などに縁がある場合も、
【同じく心う〔得〕べし。機を見て或は】
同じように心得るべきです。衆生の理解力をみて、
【讃〔ほ〕め或は毀〔そし〕る、共に謗法とならず。】
経文を、あるいは、褒め、あるいは、謗るのは、ともに謗法とは、なりません。
【而るを機をし〔知〕らざる者、】
しかし、衆生の理解力を知らない者が、
【みだ〔濫〕りに或は讃め或は呰〔そし〕るは謗法となるべきか。】
みだりに経文を、褒め、あるいは、謗るのは、謗法となるのです。
【例せば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の】
たとえば、華厳宗、三論宗、法相宗、天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗などの諸師が
【諸経をは〔破〕して我が宗を立つるは謗法とならざるか。】
他の経文を謗〔そし〕って、自分の宗派を立てるのは、謗法とは、ならないのです。
【難じて云はく、宗を立てんに諸経諸宗を破し、】
それに反論して言いますが、一宗派を立てる為に、諸経、諸宗派を謗〔そし〕って、
【仏・菩薩を讃むるに仏・菩薩を破し、】
自分の宗派の仏、菩薩を誉める為に、他の仏、菩薩を謗〔そし〕り、
【他の善根を修せしめんがためにこの善根をは〔破〕する、】
他の善根を修めさせる為に、この善根を謗〔そし〕るのが、
【くる〔苦〕しからずば、阿含等の諸の小乗経に】
問題ないのであれば、阿含などの小乗経に
【華厳経等の諸大乗経をは〔破〕したる文ありや。】
華厳経などの諸大乗経を謗〔そし〕った文章があるのでしょうか。
【華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をは〔破〕したる文これありや。】
華厳経に法華経、大日経などの諸大乗経を謗〔そし〕った文章があるでしょうか。
【答へて云はく、阿含小乗経に諸大乗経をは〔破〕したる文はなけれども、】
諸宗派が答えるのには、阿含、小乗経に諸大乗経を謗〔そし〕った文章はないが、
【華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をは〔破〕し、】
華厳経には、二乗、大乗、一乗を挙げて、二乗、大乗を謗〔そし〕り、
【涅槃〔ねはん〕経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをは〔破〕す。】
涅槃経には、諸大乗経を挙げて、涅槃経に対して、これらを謗〔そし〕っています。
【密厳〔みつごん〕経には一切経中王と説き、無量義〔むりょうぎ〕経には】
密厳〔みつごん〕経には、一切経中王と説き、無量義経には
【四十余年〔よねん〕未顕〔みけん〕真実〔しんじつ〕ととかれ、】
四十余年未顕〔みけん〕真実〔しんじつ〕と説かれ、
【阿弥陀経〔あみだきょう〕には念仏に対して諸経を小善根ととかる。】
阿弥陀経には、念仏に対して、他の経文を小善根と説かれています。
【これらの例一にあらず。】
これらの例は、数多くあり、一つではありません。
【故に又彼の経々による人師、】
それ故に、また、それぞれの経文を依拠として、宗派を立てている人師は、
【皆此の義を存ぜり。】
すべて、この義を知っているのです。
【此等をもて思ふに、宗を立つる方は】
これをもって考えると、宗派を立てる者が、
【我が宗に対して諸経を破るはくる〔苦〕しからざるか。】
自宗に対して、他の経文を謗〔そし〕ることは、問題ないのではないでしょうか。