日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


法蓮抄 01 背景と大意

法蓮抄・背景と大意

法蓮抄とは、曾谷〔そや〕教信〔きょうしん〕の法名、法蓮上人から付けられたものです。
建冶元年(西暦1275年)4月、日蓮大聖人が54歳の時に身延山において認〔したた〕められました。
本文中にあるように父親の十三回忌の法要の際に送られたものと思われます。
その内容から別名を「父子成仏抄」「烏竜〔おりゅう〕遺竜〔いりゅう〕御書」とも呼ばれています。
御真筆は、現存していません。
日蓮大聖人は、本抄において、まず最初に法華経の行者を賛嘆する功徳と誹謗する大罪とをあげられ、法華経の行者を供養する功徳を讃〔たた〕えられています。
法華経、法師品では、もし、人が一劫と言う長大な時間、仏を面前で罵〔ののし〕り続けても、まだ、その罪は、軽く、もし、人が、ただの一言でも法華経を読誦する在家、出家の者を謗〔そし〕る罪は、それよりも、はるかに重いと説かれています。
その理由について妙楽大師は「此の経の功高く理絶えたる」からであると説明され、法華経の功徳が高く、その教理が絶している故であると述べられています。
しかし、法華経、法師品には「猶多怨嫉〔ゆたおんしつ〕・況滅度後〔きょうめつどご〕」とも説かれており、釈迦牟尼仏がいる現在であっても、怨みや嫉妬で大難が起こっており、まして、釈迦滅後の末法においては、もっと大きな怨みや嫉妬が巻き起こり、前代未聞の大難が起こるであろうと説かれており、それ故に妙楽大師は「此の経の功高く理絶えたる」と述べられているのです。 つまり、これは、末法の法華経の行者である法師、つまり日蓮大聖人が末法において、釈迦牟尼仏でさえ、遭わなかった大難に遭う末法の御本仏であり、その大聖人を信じるならば、その功徳が莫大〔ばくだい〕であると述べられているのです。
次に曾谷教信が法要で法華経を読まれたことや、父親が亡くなってから、十三回忌まで、自ら自我偈を読誦し続けたことをあげられて、その功徳がいかに大きいかを烏竜〔おりゅう〕遺竜〔いりゅう〕の故事を引いて述べられています。
さらに法華経は、一つ一つの文字が皆、生身〔しょうしん〕の仏である故に曾谷教信が読んだ経文が仏と現れて父親の聖霊を救うであろうと、その孝養の尊さを讃〔たた〕えられています。
さらに末法における法華経の根本は、折伏にあることを示され、最後に、それを実際に身をもって行じられた日蓮大聖人を迫害した為に国をあげて現罰を受けていることを指摘されて本抄を終わられています。
実は、この曾谷教信は、観心本尊抄の「一品二半よりの外は小乗教・邪教〔じゃきょう〕・末得道教〔みとくどうきょう〕・覆相教〔ふそうきょう〕と名づく」(御書656頁)などの文章から、曾谷教信が迹門である方便品を読まないと言い出したことが本抄と同じ建治元年(西暦1275年)の11月の富木常忍あての観心本尊得意抄に「教信の御房、観心本尊抄の未得等の文字に付いて迹門をよまじと疑心の候なる事、不相伝の僻見〔びゃっけん〕にて候か」(御書914頁)の文章でわかります。
また、およそ3年後の弘安2年(西暦1279年)5月の四菩薩造立抄にも「一、御状に云はく、太田方の人々、一向に迹門に得道あるべからずと申され候由、其の聞こえ候と。是は以ての外の謬〔あやま〕りなり」(御書1370頁)と同じく太田乗明の一族の中からも、同じ事を言い出した者がいることがわかり、本抄では、曾谷教信が父親の回向の為に法華経、如来寿量品の自我偈を欠かさず読んでいたことを称賛されていますが、迹門方便品の不読がこの後も大きな問題になっていたことがわかります。
これは、観心本尊得意抄にあるように「不相伝の僻見〔びゃっけん〕」であり、四菩薩造立抄にあるように「以ての外の謬〔あやま〕り」なのです。
観心本尊得意抄には、その理由として「在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は、今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり」(御書914頁)とあるように日本の天台宗、比叡山は、伝教大師の法華経、最第一の相伝を忘れて、第三祖の慈覚大師以降、真言密教を取り入れ、理同事勝の邪義を構えて大謗法と化していました。
しかし、日蓮大聖人御在世の、この時代は、すでに末法に入っており、釈迦牟尼仏の法華経も白法隠没して、何の力もなくなっていたのです。
従って、前述の観心本尊抄の文章は、文底下種の南無妙法蓮華経を顕示するにあたり、五重三段に分けて詳説した中の第五重である文底下種三段を説いた一節であって、ここで述べられている一品二半とは、末法の本門である一品二半のことであり、その文の底に秘し沈められた御本尊のことなのです。
曾谷教信は、その日蓮大聖人の深意がわからず、単純に迹門方便品の不読を主張したものとも思われるのです。
つまり、日蓮大聖人の文底下種の南無妙法蓮華経からみれば、大聖人を信じて唱えるところの方便品、寿量品であり、すべて得道の手段(方便)、糧〔かて〕とすべきものなのです。
それ故に日蓮大聖人は、こうした己義に対して四菩薩造立抄で「今の時は正には本門、傍には迹門なり。迹門無得道と云ひて、迹門を捨てゝ一向本門に心を入れさせ給ふ人々は、いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ、以ての外の僻見〔びゃっけん〕なり。私ならざる法門を僻案せん人は、偏〔ひとえ〕に天魔波旬〔はじゅん〕の其の身に入り替はりて、人をして自身ともに無間〔むけん〕大城に墜つべきにて候」(御書1370頁)と述べられて「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書1370頁)と御教示されているのです。
これこそが、法華経、法師品の真実の理〔ことわり〕であり、これを理解しない者を不相伝の者と述べられているのです。
末法の御本仏、日蓮大聖人の教えは、日蓮大聖人の教えの通りに、正しく理解して信じなければなりません。
御義口伝の「法界三千を秘妙とは云ふなり。秘とはきびしきなり、三千羅列〔られつ〕なり。是より外に不思議之〔これ〕無し。大謗法の人たりと云へども妙法蓮華経を受持し奉る処を妙法蓮華経方便品とは云ふなり。今末法に入って正しく日蓮等の類の事なり。妙法蓮華経の体内に爾前〔にぜん〕の人法を入るゝを妙法蓮華経方便品とは云ふなり」(御書1726頁)とあり、同じく御義口伝に「此の仏意を信ずるを信心と云ふなり」(御書1789頁)とあり、それが、日蓮大聖人の御金言である「日蓮が如くにし候へ」なのです。
また日寛上人は「我等が読む所の迹門」に所破、借文の両意を含むとして「当流行事抄」で詳しく論じられています。
その日蓮大聖人の御入滅後において、その弟子、日昭、日朗などの五老僧が日蓮大聖人を末法の御本仏と正しく拝することが出来ず、釈迦本仏を立てる天台沙門を名乗り、本迹二門を教相では、勝劣があるが、観心では、同じであると本迹一致・迹門有得道を唱え、また逆に本迹勝劣派の天目が迹門不読を唱えましたが、第二祖、日興上人は、それらの邪義を五人所破抄(御書1882頁)で破折されています。
これも、日蓮大聖人の御書を正しく理解することができなかったが故であり、今なお身延を中心とする日蓮宗や新興宗教が、その流れを汲んで、御書を曲解し、また御書を否定し、無視している姿は、まさに不相伝の邪義そのものであると言えるのです。


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