日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


法蓮抄 04 第3章 三十二相の無見頂相


第3章 三十二相の無見頂相

【かゝる仏なれば木像・画〔え〕像にうつし奉るに、】
このような仏であるから、木像や画像にすると、

【優塡〔うでん〕大王の木像は歩みをなし、】
優塡〔うでん〕大王の木像は、歩きだし、

【摩騰〔まとう〕の画像は一切経を説き給ふ。】
摩騰〔まとう〕の描いた画像は、一切経を説いたのです。

【是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、】
このように貴い教主、釈尊を一時二時ではなく、一日二日ではなく、

【一劫が間掌を合はせ両眼を仏の御顔にあて、】
一劫の間、手を合わせ、両眼で仏の顔を見つめ、

【頭〔こうべ〕を低〔た〕れて他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、】
頭を垂れ、他事を捨てて、頭についた火を消したいと願うように、

【渇して水ををもひ飢ゑて食を思ふがごとく、】
渇いて水を得ようと思うように、飢えて食を得ようと思うように、

【間〔ひま〕無く供養し奉る功徳よりも、】
絶えまなく供養する功徳よりも、

【戯論〔けろん〕に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも】
戯〔たわむ〕れに一言でも、継母が継子を口先だけで褒めるように、

【末代の法華経の行者を讃〔ほ〕め供養せん功徳は、】
末代の法華経の行者を褒〔ほ〕め、供養する功徳は、

【彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、】
かの三業相応の信心によって、一劫の間、生身の仏を供養するよりも、

【百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。】
百千万億倍、優れていると説かれているのです。

【これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり。】
これを妙楽大師は「福十号に過〔す〕ぐ」と書かれたのです。

【十号と申すは仏の十の御名〔みな〕なり。十号を供養せんよりも、】
十号と言うのは、仏の十の名前です。十号の名前を持つ仏に供養するよりも、

【末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかゝれたり。】
末代の法華経の行者を供養する功徳は、優れていると書かれたのです。この文章は、

【妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。】
妙楽大師が法華経が一切経に優れている事を二十集めた中の一つなのです。

【已上。上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり。】
以上、この二つの法門は、仏説ではありますが、本当に信じられない事なのです。

【争〔いか〕でか仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさ〔勝〕るべきや。】
仏を供養するよりも凡夫を供養する事が優れているなどと言う事があるでしょうか。

【而れども此を妄語といはんとすれば釈迦如来の金言を疑ひ、】
しかしながら、これを妄語と言うとすれば、釈迦如来の金言を疑い、

【多宝仏の証明を軽〔かろ〕しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。】
多宝仏の証明を軽んじ、十方の諸仏の舌相を破る事になるのです。

【若し爾〔しか〕らば現身に阿鼻地獄に堕つべし。】
もし、そうであるならば、生きながらに阿鼻地獄に堕ちる事でしょう。

【巌石〔がんせき〕にのぼりてあら馬を走らするが如し。】
巌石〔がんせき〕の上に登って、荒馬を走らせるようなもので、

【心肝しづかならず。】
とても、心、穏やかでは、おられません。

【又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。】
しかし、また、これを信じるならば、妙覚の仏になる事ができるのです。

【如何〔いか〕にしてか今度法華経に信心をとるべき。】
どのように、今度、法華経に対して信心をするべきなのでしょうか。

【信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、】
信なくして、この経文を行ずる事は、手がなくて宝の山に入り、

【足なくして千里の道を企〔くわだ〕つるがごとし。】
足がなくて、千里の道を歩こうとするようなものなのです。

【但し近き現証を引いて遠き信を取るべし。】
ただし、より身近な現証によって、遠くの信仰の心得を理解すべきなのです。

【仏の御歳八十の正月一日、法華経を説きおはらせ給ひて御物語あり。】
仏は、御歳八十の正月一日に法華経を説き終えられて、物語を述べられました。

【阿難〔あなん〕・弥勒〔みろく〕・迦葉〔かしょう〕、】
それは、「阿難〔あなん〕、弥勒〔みろく〕、迦葉〔かしょう〕よ、

【我〔われ〕世に出でし事は法華経を説かんがためなり。】
我、この世に出〔い〕でし事は、法華経を説く為なり。

【我既〔すで〕に本懐をとげぬ。今は世にありて詮なし。】
すでに本懐を遂げ、この世にありて詮なし。

【今三月ありて二月十五日に涅槃すべし云云。】
今から三月の後、二月十五日に涅槃すべし」と言うものだったのです。

【一切内外の人々疑ひをなせしかども、仏語むなしからざれば、】
すべての内外の人々は、それに疑いを起こしたのですが、仏語に嘘は、ないので、

【ついに二月十五日に御涅槃ありき。】
ついに言葉通りに仏は、二月十五日に涅槃に入られたのです。

【されば仏の金言は実なりけるかと少し信心はとられて候。】
それ故に、仏の金言は、真実であったのかと、少しは、信じるようになったのです。

【又仏記し給ふ。我が滅度の後一百年と申さんに阿育大王と申す王出現して、】
また、仏は「我が滅度の後、百年と言う時に、阿育大王と言う王が出現して、

【一閻浮提〔いちえんぶだい〕三分の一分が主となりて、】
一閻浮提の三分の一の主となりて、

【八万四千の塔を立て我が舎利を供養すべしと云云。】
八万四千の塔を立てて、我が舎利を供養すべし」と予言されたのです。

【人疑ひ申さんほどに案の如くに出現して候ひき。】
人は、これも疑っていましたが、予言の通りに出現したのです。

【是よりしてこそ信心をばとりて候ひつれ。】
この事からして、更に仏教を信じるようになったのです。

【又云はく、我が滅後に四百年と申さんに】
また「我が滅後四百年と言う時に、

【迦弐色迦〔かにしか〕王と申す大王あるべし。】
迦弐色迦〔かにしか〕王と言う大王が出現して、

【五百の阿羅漢を集めて婆沙論〔ばしゃろん〕を造るべしと。】
五百人の阿羅漢を集めて大毘婆沙〔ばしゃ〕論を造るべし」と予言されましたが、

【是又仏記のごとくなりき。】
これまた、仏の記〔しる〕された通りになったのです。

【是等をもてこそ仏の記文は信ぜられて候へ。】
これらの現証があり初めて、仏の記〔しる〕されたものは、深く信じられたのです。

【若し上に挙ぐる所の二つの法門妄語〔もうご〕ならば】
もし、前に述べたところの二つの法門が虚構であったならば、

【此の一経は皆妄語なるべし。】
この法華経一経は、皆、妄語となる事でしょう。

【寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみ〔当初〕の仏なりと説き給ふ。】
寿量品に「我は、過去五百塵点劫の当初〔そのかみ〕の仏なり」と説かれています。

【我等は凡夫なり、過ぎにし方は生まれてより】
我らは、凡夫です。過ぎ去った事は、生まれてからの事さえ、

【已来〔このかた〕すらなをおぼへず。況んや一生・二生をや。】
なお覚えていません。まして一生、二生、前の事などは、なおさらです。

【況んや五百塵点劫の事をば争〔いか〕でか信ずべきや。】
まして五百塵点劫の過去の事を、どうして信ずる事が出来るでしょうか。

【又舎利弗等に記して云はく】
また、舎利弗などに授記して

【「汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎ乃至】
「汝は、未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、(中略)

【当〔まさ〕に作仏することを得べし。】
当に成仏するであろう。

【号〔な〕を華光如来と曰〔いわ〕ん」云云。】
名前を華光如来と言う」と説かれました。

【又々摩訶迦葉〔まかかしょう〕に記して云はく】
また、摩訶迦葉〔まかかしょう〕に授記して

【「未来世に於て乃至最後身に於て仏に成為〔な〕ることを得ん。】
「未来世において最後の身として仏となるであろう。

【名を光明如来と曰ん」云云。此等の経文は】
名づけて光明如来と言う」と説かれました。これらの経文は、

【又未来の事なれば、我等凡夫は信ずべしともおぼえず。】
また未来の事ですから、我ら凡夫に信じられるとは、思えません。

【されば過去未来を知らざらん】
そうであれば、我々には、過去、未来を知る事など出来ないのです。

【凡夫は此の経は信じがたし。】
このように凡夫にとっては、この経文を信ずることは、難しいのです。

【又修行しても何の詮かあるべき。】
また修行しても、何の意味があるのでしょうか。

【是を以て之を思ふに、現在に眼前の証拠あらんずる人、】
この事をもって思うのには、現実に眼の前で、その証拠を現〔あらわ〕す人がいて、

【此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。】
この経文を説かれる時にこそ、人は、信じることも出来ると思われるのです。

【今法蓮上人の送り給へる諷誦〔ふじゅ〕の状に云はく】
今、法蓮上人から送られた、法要の時に導師が読む追悼文には、

【「慈父幽霊第十三年の忌辰〔きしん〕に相当たり】
「慈父の聖霊の第十三年の忌日に当たり、

【一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云。】
一乗、妙法蓮華経、五部を読誦し奉〔たてまつ〕る」とありました。

【夫〔それ〕教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる。】
さて、教主釈尊を別に大覚世尊と申し上げますが、

【世尊と申す尊の一字を高と申す。高と申す一字は又孝と訓ずるなり。】
世尊の中の尊の一字を高と言います。高と言う一字は、また孝と発音するのです。

【一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊とは号し奉る。】
一切の孝行の人の中で、第一の孝行の人なので、世尊と申し上げるのです。

【釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備へ給ふ。】
釈迦如来の御身は、金色であって、三十二相を備えています。

【彼の三十二相の中に無見頂相〔むけんちょうそう〕と申すは、】
その三十二相の中の無見頂相〔むけんちょうそう〕と言うのは、

【仏は丈六の御身なれども、】
仏は、丈六(約4メートル80センチ)の御身でありますが、

【竹杖〔ちくじょう〕外道も其の御長〔みたけ〕をはからず、】
竹杖〔ちくじょう〕外道も、その長さを計る事ができず、

【梵天も其の頂を見ず。故に無見頂相と申す。】
梵天も、その頂を見る事ができないので、無見頂相と言うのです。

【是〔これ〕孝養第一の大人なればかゝる相を備へまします。】
これは、孝行第一の素晴らしい人なので、このような相を備えているのです。

【孝経と申すに二あり。】
孝経と言うのに二つあります。

【一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり。二には内典今の法華経是なり。】
一は、外典の聖人、孔子の書に孝経があり、二は、内典の、この法華経なのです。

【内外異なれども其の意は是同じ。】
内典、外典の違いは、あっても、その意味するところは、同じなのです。

【釈尊塵点劫の間修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ、】
釈尊が塵点劫の間、修行して仏になろうとされたのは、何の為でしょうか。

【孝養の事なり。然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり。】
それは、孝行の為なのです。つまり六道四生の一切衆生は、皆、我が父母なのです。

【孝養おへざりしかば仏にならせ給はず。】
孝行を終えられない間は、仏になられなかったのです。

【今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。】
今、法華経と言うのは、一切衆生を仏にする秘術が具〔そな〕わる経文なのです。

【所謂〔いわゆる〕地獄の一人・餓鬼の一人乃至九界の一人を仏になせば、】
いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、及び、九界の中の一人を仏にする事で、

【一切衆生皆仏になるべきことは〔理〕り顕はる。】
一切衆生が皆、仏になる事ができると言う道理が顕れたのです。

【譬へば竹の節を一つ破〔わ〕りぬれば余の節亦〔また〕破るゝが如し。】
譬えば、竹の節を一つ割れれば、他の節も、それに従って割れるようなものです。

【囲碁と申すあそびにしちや〔征〕うと云ふ事あり。】
また囲碁と言う遊びに四丁〔しちょう〕と言うものがあります。

【一つの石死ぬれば多くの石死ぬ。】
一つの石が死ねば、多くの石が死んでしまうのです。

【法華経も又此くの如し。】
法華経の道理も、また、これと同じなのです。

【金〔かね〕と申すものは木草を失ふ用を備へ、水は一切の火をけす徳あり。】
金属は、木草を切る力用を備え、水は、一切の火を消す徳があります。

【法華経も又一切衆生を仏になす用おはします。】
法華経も、また一切衆生を仏にする力用があるのです。

【六道四生の衆生に男女あり。】
六道の衆生に男女がいて、残りの声聞、縁覚、菩薩、仏にも、男女がいます。

【此の男女は皆我等が先生〔せんじょう〕の父母なり。】
この男女は、皆、我等の先の世の父母なのです。

【一人もも〔漏〕れば仏になるべからず。】
一人でも成仏に漏れるならば、自分も仏になることは、できないのです。

【故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏〔ようふじょうぶつ〕と説かせ給ふ。】
それ故に二乗を不知恩の者と定めて、長く成仏できないなどと説かれたのです。

【孝養の心あまねからざる故なり。仏は法華経をさとらせ給ひて、】
孝行の心が全体に行き渡らないからなのです。仏は、法華経を悟られて、

【六道四生の父母孝養の功徳を身に備へ給へり。】
六道、四生の父母への孝行の功徳を身に備えられています。

【此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給ふ。】
この仏の功徳を法華経を信ずる人に譲られているのです。

【例せば悲母の食ふ物の乳となりて赤子を養ふが如し。】
例えば、悲母の食べる物が乳となって、赤子を養うようなものです。

【「今此三界皆是我有、】
「今、この三界は、皆、我が有、

【其中衆生悉是吾子」等云云。】
その中の衆生は、皆、吾が子」と説かれているとおりです。

【教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして】
教主釈尊は、この功徳を法華経の文字にして、

【一切衆生の口になめさせ給ふ。】
一切衆生の口に入れられているのです。

【赤子の水火をわきまへず毒薬を知らざれども、】
赤ん坊が水と火を理解できなくても、また、毒と薬を知る事ができなくても、

【乳を含めば身命をつぐが如し。】
乳を飲めば、身命を繋ぐ事が出来るようなものなのです。

【阿含経を習ふ事は舎利弗等の如くならざれども、】
阿含経を習う事が舎利弗と同じようにできなくても、

【華厳経をさとる事解脱月〔げだつがつ〕等の如くならざれども、乃至】
華厳経を悟る事が解脱月〔げだつがつ〕菩薩と同じようにできなくても、

【一代聖教を胸に浮かべたる事文殊の如くならざれども、】
一代聖教を胸に浮かべる事が文殊菩薩と同じようにできなくても、

【一字一句をも之を聞きし人仏にならざるはなし。】
一字一句でも法華経を聞いた人は、仏にならない者は、いないのです。

【彼の五千の上慢は聞きてさとらず、】
彼の五千人の増上慢の僧侶は、法華経を聞いても悟る事ができなかった、

【不信の人なり。然れども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき。】
不信の人なのです。しかし、誹謗は、しなかったので三ヶ月後に仏になったのです。

【「若信若不信則生不動国」と】
「もしは、信じ、もしは、信じなくとも、皆、不動国に生まれ」と

【涅槃経に説かるゝは此の人の事なり。】
涅槃経に説かれるのは、この人々の事なのです。

【法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが】
法華経は、不信の者ですら、誹謗さえなければ、一度、聞くだけで、

【不思議にて仏になるなり。所謂七歩蛇〔しちぶじゃ〕に食〔か〕まれたる人、】
不思議にも仏になるのです。あたかも、猛毒の蛇に噛まれた人が、

【一歩〔ひとあし〕乃至七歩をすぎず。】
一歩、二歩と歩いて、七歩と歩かないうちに

【毒の用の不思議にて八歩をすごさぬなり。】
不思議にも毒の作用によって倒れ、八歩と歩けないようなものなのです。 

【又胎内の子の七日の如し。必ず七日の内に転じて余の形となる、】
また、胎内の子の七日と同じで、必ず七日の内に形を転じて、他の形となるのです。

【八日をすごさず。今の法蓮上人も又此くの如し。】
八日を同じ形で過ごす事はないのです。今の法蓮上人もまた同じです。

【教主釈尊の御功徳御身に入りかはらせ給ひぬ。】
教主釈尊の功徳が御身に入り替わっているのです。

【法蓮上人の御身は過去聖霊〔しょうりょう〕の】
法蓮上人の御身は、亡くなられた聖霊の

【御容貌〔ごようみょう〕を残しおかれたるなり。】
御姿を残しておられます。

【たとへば種の苗となり、華の菓となるが如し。】
例えば、種が苗となり、花が実となるようなものです。

【其の華は落ちて菓はあり、種はかくれて苗は現に見ゆ。】
その花は、落ちて実が、残り、種は、隠れて苗が現れるのです。

【法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財〔みたから〕なり、】
法蓮上人の功徳は、亡くなられた聖霊の財〔たから〕であるのです。

【松さかふれば柏〔かしわ〕よろこぶ、芝かるれば蘭なく。】
松が栄えれば、柏が喜び、芝が枯れれば、蘭が泣くのです。

【情〔こころ〕なき草木すら此くの如し。何に況んや情あらんをや、】
心のない草木ですら、こうであり、まして心のある者は、言うまでもありません。

【又父子の契りをや。】
また、父と子の関係では、なおさらのことです。


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