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法蓮抄 06 第5章 自我偈最勝の理由
第5章 自我偈最勝の理由
【夫〔それ〕法華経は一代聖教の骨髄なり。】
そもそも、法華経は、一代聖教の骨髄〔こつずい〕であり、
【自我偈は二十八品のたましひなり。】
自我偈は、法華経二十八品の魂〔たましい〕なのです。
【三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。】
三世の諸仏は、寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目としているのです。
【自我偈の功徳をば私に申すべからず。】
自我偈の功徳については、自分勝手な解釈をするべきではなく、
【次下に分別功徳品に載せられたり。】
次の分別功徳品に説かれています。
【此の自我偈を聴聞〔ちょうもん〕して仏になりたる人々の数をあげて候には、】
この自我偈を聞いて仏になった人々の数を挙げるならば、
【小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候へ。】
小千世界や大千世界の三千大千世界を微塵にした数と説かれており、
【其の上薬王品己下の六品得道のもの自我偈の余残なり。】
その上、薬王菩薩本事品以下の六品で得道した者は、自我偈の功徳の残りであり、
【涅槃経四十巻の中に集まりて候ひし五十二類にも、】
涅槃経、四十巻の中に集まって来た五十二類の衆生にも、
【自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給ひしか。】
再び自我偈の功徳を仏は、説かれたのです。
【されば初め寂滅道場に】
したがって最初の華厳経が説かれた寂滅道場に
【十方世界微塵数の大菩薩・天人等雲の如くに集まりて候ひし】
十方世界の微塵〔みじん〕の数ほどの大菩薩や天人などが、雲のように集まり、
【大集・大品の諸聖も、大日経・金剛頂経等の千二百余尊も、】
大集経や大品般若経の諸聖も、大日経や金剛頂経などの千二百余尊も、
【過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人々、】
過去に法華経の自我偈を聴いた事がある人々が、
【信力よはくして三五の塵点を経しかども、】
信心の力が弱くて、三千塵点劫、五百塵点劫の時を経たけれども、
【今度釈迦仏に値ひ奉りて】
今世において、釈迦牟尼仏に会って、話を聞いている内に
【法華経の功徳すゝむ故に、霊山をまたずして】
過去の法華経の自我偈の事を想い出し、霊鷲山での法華経の説法を待たずに、
【爾前の経々を縁として得道なると見えたり。】
爾前経を縁として得道したものと思われるのです。
【されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給ふ。】
それ故に十方世界の諸仏は、自我偈を師として仏に成られたのです。
【世界の人の父母の如し。】
世界の人々の父母のような存在なのです。
【今法華経寿量品を持〔たも〕つ人は諸仏の命を続〔つ〕ぐ人なり。】
現在、法華経の寿量品を持〔たも〕つ人は、諸仏の命を継〔つ〕ぐ人なのです。
【我が得道なりし経を】
自らが法華経によって得道したのに、
【持つ人を捨て給ふ仏あるべしや。】
法華経を持〔たも〕つ人を、捨てる仏などあるでしょうか。
【若し此を捨て給はゞ仏還って我が身を捨て給ふなるべし。】
もし、この人を捨てるならば、仏は、返って自分の身を捨てる事になるのです。
【これを以て思ふに、田村】
この事から考えて見ると、平安時代の武将、坂上〔さかのうえの〕田村麻呂や
【利仁〔としひと〕なんどの様なる兵〔つわもの〕を】
藤原利仁〔としひと〕などのような強い将軍を、
【三千人生みたらん女人あるべし。】
三千人、産んだ女性がいたとして、
【此の女人を敵とせん人は、此の三千人の将軍をかたきにうくるにあらずや。】
この女性を敵とする人は、この三千人の将軍を敵にまわすのと同じ事になるのです。
【法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは、】
法華経の自我偈を持〔たも〕つ人を敵とすれば、
【三世の諸仏を敵とするになるべし。】
三世諸仏、すべてを敵にする事になるのです。
【今の法華経の文字は皆生身の仏なり。】
つまり、現在の法華経の文字は、すべて生身の仏なのです。
【我等は肉眼〔にくげん〕なれば文字と見るなり。】
私たちは、肉眼なので、実は、すべて生身の仏なのに文字と見えているのです。
【たとへば餓鬼は恒河〔ごうが〕を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。】
例えば、餓鬼は、大河を火と見え、人は、水と見え、天人は、甘露と見るのです。
【水は一なれども果報にしたが〔随〕て見るところ各別なり。】
水は、ひとつなのですが、果報によって、その見え方は、それぞれ、異なるのです。
【此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず、肉眼は黒色と見る。】
この法華経の文字は、盲目の者には、これが見えず、肉眼では、黒い文字に見え、
【二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は】
二乗には、虚空と見え、菩薩には、種々の色と見え、仏種が具〔そな〕わる人には、
【仏と見奉る。されば経文に云はく「若し能く持つこと有らば】
仏と見えるのです。それ故に経文には「もし、よく持〔たも〕つこと有らば、
【即ち仏身を持つなり」等云云。】
仏身を持〔たも〕つなり」などとあり、
【天台の云はく「稽首〔けいしゅ〕妙法蓮華経、一帙〔ちつ〕八軸四七品、】
天台大師は「稽首〔けいしゅ〕妙法蓮華経、一帙〔ちつ〕、八巻、二十八品、
【六万九千三八四、一々文々是真仏、】
6万9384字の一文字一文字が真実の仏であり、
【真仏説法利衆生」等と書かれて候。】
真実の仏が法を説いて衆生を利するのである」などと書かれているのです。
【之を以て之を案ずるに、】
この事から、あなたが自我偈を読誦して来た事を考えると、
【法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す。】
法蓮法師は、毎朝、口から金色の文字を出されたのです。
【此の文字の数は五百十字なり。一々の文字変じて日輪となり、】
この文字の数は、五百十字であり、一文字一文字は、変じて太陽となり、
【日輪変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地をつきとをし、】
太陽は、変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地を突き通し、
【三悪道無間大城を照らし、乃至東西南北、】
三悪道や無間地獄を照らし、また東西南北、
【上方に向かっては非想非非想へものぼり、】
上方に向かっては、三界の最頂である非想非非想〔ひそうひひそう〕天へも昇り、
【いかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給ひて、】
いかなる所であっても、過去聖霊の居られる所まで尋ねて行かれて、
【彼の聖霊に語り給ふらん。我をば誰とか思〔おぼ〕し食〔め〕す。】
彼の聖霊に語られる事でしょう。私を誰だと思われますか。
【我は是汝が子息法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり。】
私は、あなたの子息の法蓮が毎朝、読誦するところの法華経の自我偈の文字である。
【此の文字は汝が眼とならん、耳とならん、足とならん、】
この文字は、あなたの眼となり、耳となり、足となり、
【手とならんとこそ、ねんごろに語らせ給ふらめ。】
手となるであろうと親しく語られることでしょう。
【其の時過去聖霊は我が子息法蓮は子にはあらず善知識なりとて、】
その時、亡き聖霊は、我が息子の法蓮は、子供ではない、善知識であると言って
【娑婆世界に向かっておがませ給ふらん。是こそ実の孝養にては候なれ。】
娑婆世界に向かって、拝まれることでしょう。これこそ真実の孝行なのです。
【抑〔そもそも〕法華経を持つと申すは、】
さて、そもそも法華経を持〔たも〕つと言うことは、
【経は一なれども持つ事は時に随って色々なるべし。】
経文は、ひとつであっても持〔たも〕ち方は、時に従って色々なのです。
【或は身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり、】
ある時は、身体の肉を裂いて、師に供養して仏に成る時もあり、
【又身を床〔ゆか〕として師に供養し、】
または、身体を床として師に供養し、
【又身を薪〔たきぎ〕となし、又此の経のために杖木をかほり、】
または、身体を薪〔たきぎ〕とし、または、この法華経の為に杖や木で打たれ、
【又精進し、又持戒し、】
または、精進し、または、戒を持〔たも〕てと言う時もあり、
【上の如くすれども仏にならぬ時もあり。時に依って不定なるべし。】
また、以上のような事をしても、仏に成らない時もあり、一定ではないのです。
【されば天台大師は適時〔ちゃくじ〕而已〔にい〕と書かれ、】
それ故に天台大師は「時に適〔かな〕うのみ」と書かれ、
【章安大師は「取捨得宜不可一向」等云云。】
章安大師は「取捨、宜〔よろ〕しきを得て一向にすべからず」と述べられています。
【問うて云はく、何〔いか〕なる時か身肉を供養し、】
それでは、どのような時に身体の肉を供養し、
【何なる時か持戒なるべき。】
どのような時に戒を持〔たも〕つべきなのでしょうか。
【答へて云はく、智者と申すは此くの如き時を知りて】
それは、智者と言うのは、その時を知って
【法華経を弘通するが第一の秘事なり。】
法華経を弘通することが、第一の秘訣なのです。
【たとへば渇〔かわ〕ける者は水こそ用ふる事なれ。】
例えば、喉〔のど〕が渇いた者には、水こそが重要であり、
【弓箭〔きゅうせん〕兵杖〔ひょうじょう〕はよしなし。】
弓矢や武器は、意味がありません。
【裸なる者は衣を求む、水は用なし。】
裸の者は、衣を求めているのであり、水は、意味をなさないのです。
【一をもて万を察すべし。】
この一事をもって、万事を察してください。
【大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし、】
もし、大鬼神がいて、法華経を弘通するならば、身を布施とすべきであり、
【余の衣食は詮なし。】
他の衣食は、意味をなさないでしょう。
【悪王あて法華経を失はゞ身命をほろぼすとも随ふべからず。】
悪王がいて、法華経を滅ぼそうとする時には、命を捨てても、従ってはなりません。
【持戒精進の大僧等法華経を弘通するやうにて】
持戒、精進の大僧正などが、法華経を弘通するかのように見せて
【而も失ふならば是を知って責むべし。】
実は、滅ぼしているのであれば、これを知って責めるべきです。
【法華経に云はく「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」云云。】
法華経、勧持品に「我が身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」と説かれており、
【涅槃経に云はく「寧〔むし〕ろ身命を喪〔うしな〕ふとも】
涅槃経に「むしろ身命を失うとも、
【終に王の所説の言教を匿〔かく〕さゞれ」等云云。】
終〔つい〕に王の説いた教えを隠さざれ」などと説かれています。
【章安大師の云はく「寧喪〔にょうそう〕身命〔しんみょう〕】
章安大師は「むしろ身命を失うとも
【不匿教〔ふのくきょう〕とは身は軽く法は重し】
教えを隠さざれとは、身は、軽く、法は、重い。
【身を死〔ころ〕して法を弘む」等云云。】
身を捨てて法を弘めよと言う意味である」と述べられています。