日蓮正宗法華講 開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


諫暁八幡抄 背景と大意


本抄は、弘安3年(西暦1280年)12月に大聖人が59歳の時に身延において著〔あら〕わされました。
この年の10月28日、鎌倉の下馬〔げば〕橋付近から起きた火事が燃え広がり、鶴岡〔つるがおか〕八幡宮の東側の源頼朝〔よりとも〕の屋敷や、そこから東に少し離れた所にあった北条義時の墓所まで類焼し、鎌倉の町の中心部が灰塵に帰しました。
このとき鶴岡八幡宮も、その境内にあった神宮寺と千体堂が焼けてしまい、さらに11月14日、相次いで鶴岡八幡宮が炎上し、上宮、下宮をはじめ、境内の建物が、ことごとく焼け落ちて、この当時は、鎌倉幕府は、蒙古の二度目の来襲に備え、防備を固めている最中であっただけに、こうした八幡宮の炎上が人々に対して、武士も庶民も言い知れぬ不安を募らせたことは、想像に難くありません。
この鶴岡八幡宮の焼失については、同じ弘安3年12月御述作の四条金吾許御文〔もとごもん〕に「八幡大菩薩の御誓ひは月氏にては法華経を説いて正直〔しょうじき〕捨方便〔しゃほうべん〕となのらせ給ひ、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓ひ給ふ。而るに去ぬる十一月十四日の子〔ね〕の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひ」(御書1524頁)とあり、また、智妙房御返事にも「八幡大菩薩宅をやいてこそ天へはのぼり給ひぬらめ」(御書1527頁)と、このことに触れられており、両抄で一国謗法の故に八幡大菩薩が国を捨て去った証拠であると指摘されており、蒙古の日本侵攻の真の意味についても、正法の行者である日蓮大聖人を迫害する日本一国を梵天、帝釈などの諸天が責めているのであると述べられています。
御真筆は、日蓮正宗富士大石寺に現存しており、毎年、春の御霊宝虫払〔むしばらい〕大法会の御真翰〔ごしんかん〕巻返しの儀において、御法主〔ごほっす〕上人猊下〔げいか〕より御披露される長編の御書です。
全体は、47紙からなっており、第16紙から末尾までが現存していますが、第46紙の後半11行は、欠損しています。
日顕上人は、昭和57年の御霊宝虫払〔むしばらい〕大法会の折に、御真筆の末尾に「建武〔けんむ〕第三丙子〔ひのえね〕六月六日読誦し奉〔たてまつ〕り畢〔おわ〕んぬ日道〔にちどう〕判」と、日道上人の御筆跡が認められていることを示され「この書き入れは、御書を心肝に染めよ、との日興上人の指南を基として御書の拝読が種々の形で行われたことを知る証左となる」と御指南されています。
また、この御書は、特定の人に与えられたものではなく「各々我が弟子等はげませ給へ」(御書1543頁)と最後で述べられているように門下の弟子、檀那一同に対して、神天上の法門を示され、また、大聖人の久遠の本地を著されたものと拝されます。
なお、別名が「諫暁書〔かんぎょうしょ〕」とされており、「諫」とは、目上の者に対して礼をもって過ちを正すことを言い、「暁」とは、諭〔さと〕し明かすということで、目を覚まさせるという意味です。
本抄では、まず最初の段で、天神の威光、勢力を消す諸宗派の迷妄について述べられています。
この天神にも盛衰〔せいすい〕があり、その威光が次第に衰えていくと三災七難が起こるのですが、この勢力を増して、それを防ぐのが仏教なのです。
しかし、仏の滅後、正像二千年が過ぎて末法になると、小乗や権大乗の仏教では、天神の威光、勢力を増大させることができなくなったのです。
中国の天台大師は、涅槃経第十四巻で説かれた五味を釈尊一代聖教の華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃の五時に配当し、法華涅槃時を最も優れているとされました。
しかし経典がインドから中国へ伝えられる翻訳の段階で、種々の歪みや我見が入り込み、さらに各宗派の祖が、涅槃経の「是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん。乃至前を抄〔と〕りて後に著〔つ〕け、後を抄りて前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし、是くの如きの諸の悪比丘は是魔の伴侶なり」(御書1532頁)の文章の通りに、邪見をもとにして宗義を立てたのです。
次の段において、伝教以前に法華の実義がないことを明かされています。
八幡大菩薩は、もともとは、農耕の神として、豊前〔ぶぜんの〕国(大分県)に宇佐神宮として祀〔まつ〕られていましたが、奈良時代の東大寺、大仏建立〔こんりゅう〕の時に、この宇佐地方で銅が産出したことから、銅製の大仏を作るのを助けたとされ、天応元年(西暦781年)に朝廷から鎮護国家、仏教守護の神として八幡〔はちまん〕大菩薩の神号を贈られ、さらに大安寺の僧、行教が貞観〔じょうがん〕元年(西暦859年)に宇佐八幡宮で八幡大菩薩の神託を受け、それを朝廷に報告したことにより、翌年、清和天皇の命を受けて、京都守護神として、京都の男山に石清水〔いわしみず〕八幡宮が造営されたと言われています。
その後、清和源氏などから、氏神として崇〔あが〕められ、とくに源氏の信仰を集め、さらに石清水八幡宮の分霊が鎌倉の由比若宮にあり、それを、また源頼朝〔よりとも〕が鎌倉の鶴岡に移して鶴岡八幡宮として鎌倉幕府の守護神としたことから、なお一層、武家の間に広がりました。
日蓮大聖人は、文永8年(西暦1271年)9月、処刑場である竜の口に連行される途中、若宮小路で馬を降り、鶴岡八幡宮の前から、この八幡大菩薩に対して日本第一の法華経の行者を守護する誓いを今こそ果たすべきであると厳しく責められました。
この時、本来は、法華経の行者をあだむ国主や国民を退治して、法華経の行者を守護すべきであるのに、八幡大菩薩が、それを放置しているので、さらに上の法華経の守護神である梵天、帝釈に罰せられると叱責されたのです。
日蓮大聖人は、「此の事は一大事なり。秘すべし秘すべし」(御書1532頁)と述べられています。
ある時、伝教大師が神宮寺において、法華経を講義し、八幡大菩薩は、それを聞いた感謝の験〔しるし〕として、前から持っていた紫の袈裟を伝教大師に贈り、この袈裟は、今も比叡山、延暦寺の山王院にあるというのですが、世間の人々が言うように人王十五代の応神天皇が八幡大菩薩であるとすれば、その時代には、まだ仏教が渡来していないので、八幡が前から、この袈裟を持っているわけがないのです。
また、八幡大菩薩が欽明天皇の治世に神として尊重されるようになって以来、宝殿を守護している者は、この八幡の袈裟を「元来、見ず聞かず」と言っており、どの天皇の時代に、この袈裟が納められたかわからず、この故事について、大聖人は「不思議なり」(御書1533頁)と述べられ、さらに、仏教伝来以来、聖徳太子が法華義疏〔ほっけぎしょ〕を著したように当初から尊重されてきたのに、なぜ紫の袈裟を贈られなかったのかと疑問を呈されています。
それは、「伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども、その義はいまだ顕はれざりけるか」(御書1533頁)と述べられているように、法華経の実義を明らかにした人が、伝教大師以外にいなかったからなのです。
伝教大師は、南都、六宗、七大寺の高僧たちに対し、経文に照らして理路整然と破折したため、これをもって、伝教大師が法華経の正義を、始めて事実の上で説き明かしたとされているのです。
これが、この袈裟を、どうして伝教大師に贈ったかの答えとなっており、それは「如来則ち衣を以て之れを覆ひたまふべし」(御書1534頁)とあるように、如来の使いとして法華経の講義をし、邪宗邪義を退けた伝教大師に対して、同じく如来の使いとして八幡大菩薩が、この法論において、伝教大師を外護する袈裟となったという意味なのです。
第三段に法華経の行者への受難に対する傍観を破折されています。
八幡大菩薩は、応神天皇であるとの伝承に基づいて、せっかく過去の善根によって天皇として生まれたのに、法華経最勝の法門を捨てて、真言密教化した比叡山の座主〔ざす〕の袈裟を剝ぎ取らないのは、八幡大菩薩の第一の大罪であると叱責されています。
そして、過去にも仏敵を守護した神が罰を被〔こうむ〕った先例を示されています。
その一には、日本に仏教が渡来した当時、日本古来の神を崇〔あが〕める守屋〔もりや〕が崇仏派の蘇我氏の寺に火を放ち、僧侶の袈裟を剥ぎ、鞭をもって責めた為に、天皇の住む内裏〔だいり〕が焼失し、そのうえ国中に悪瘡が流行して、死者が大半を超え、結局、排仏派の守屋と、崇仏派の蘇我馬子〔そがのうまこ〕、聖徳太子との間で四度にわたり戦いが行われ、最終的に崇仏派が勝利を収めたのです。
しかし、その間に百八十の宝殿がすべて焼失したのであり、これは、釈尊に敵対する者を守護した神の罪に依るのです。
その二に京都の三井にある園城寺は、白鳳〔はくほう〕時代に建立され、その歴史は、延暦寺より古いのですが、結局は、延暦寺の末寺であり、それにも関わらず、独自の戒壇の勅許〔ちょっきょ〕を朝廷に請願し、叡山の大乗戒壇に対抗しようとしたのです。
それ故に園城寺の守護神である新羅大明神の宝殿が何度も焼失したのです。
その三に現在の八幡大菩薩も日蓮大聖人を迫害する法華経の大怨敵たる謗法の者を守護した為に天火によって宝殿を焼失し、中国の秦も日本の平氏も、その氏神がなくなった後に滅亡しているので、おそらくは、鎌倉北条氏も、八幡宮が焼けたことから、ほどなく滅びるであろうと予言されています。
第四段に真言による開眼供養を破折されています。
日蓮大聖人が法華経の肝心である南無妙法蓮華経を弘通しているのは、天人世間の眼目としてなのです。
それ故に、この法華経の行者を怨み、迫害する者は、人天の眼目を抉〔えぐ〕る者であり、それらを治罰しない神は、一切の人天の眼を抉〔えぐ〕る者の味方をし、助けているのと同じであると述べられています。
それにも関わらず、大聖人が何の罪もなく、ただ、この南無妙法蓮華経を弘めているだけであるのに、鶴岡八幡宮の前を引き回し、嘲笑するのを許したのは、まさに、この八幡大菩薩の大罪でなくてなんであろうかと厳しく糾〔ただ〕されています。
まさに真言密教の弘法大師などが、その元凶であり、日本全国一万一千三十七の寺々は、いずれも真言の邪法をもって開眼している故に「仏を死〔ころ〕し、眼をくじり、寿命〔いのち〕を断ち、喉〔のんど〕をさ〔裂〕きなんどする人々なり」(御書1537頁)と破折を加えられるとともに、蒙古襲来の際、蒙古軍に日本軍が蹂躪され、あげくに八幡宮の宝殿が焼かれたにも関わらず、日本の守護神である八幡大菩薩が蒙古軍を罰しなかったのは、その為なのです。
奈良時代末期、東大寺の僧侶、弓削道鏡〔ゆげのどうきょう〕は、女帝、称徳天皇の病いを癒〔いや〕して信任を得、太政大臣に任じられ、法王の位を授けられて、政治の実権を握ったのですが、さらに宇佐八幡大神の虚偽の神託を奏上し、皇位を狙ったのです。
しかし、天皇は、伝教大師を敬う和気清麻呂〔わけのきよまろ〕を宇佐八幡宮へと遣わし、八幡大菩薩の神託〔しんたく〕を受けることによって、王法の正義を守り得たのです。
また、承久の乱では、朝廷側は、比叡山、東寺、仁和寺、園城寺などの諸大寺院に真言の邪法をもって鎌倉幕府、調伏の祈祷をさせましたが、あっけなく幕府に敗れ去り、後鳥羽上皇は、隠岐、順徳上皇は、佐渡、土御門上皇は、土佐へと配流されたのです。
これらは、法華経、観世音菩薩普門品に還著於本人と説かれているとおりであり、全国にある各寺社は、いずれも国家安穏を祈っていますが、その寺社の僧侶や神主などが、いずれも法華経に敵対する真言師、念仏者、禅僧、律僧であり、そのため、法華経の守護神である八幡大菩薩や梵天、帝釈などの諸天の罰を受けたのであると述べられています。
第五段に諸宗破折に対する疑難を破折されています。
当時、日蓮大聖人の門下の中に幕府の氏神である八幡大菩薩を諫暁されることについて、非難する者がおり、それに対し、大聖人は、守護されるべき道理があるのに守護もせず、正しい祈りが成就しない場合は、祈りの対象であるその本尊を責めてよいとの道理があることを、付法蔵経に説かれる尼倶律陀〔にくりだ〕長者の故事を通して明らかにされています。
この故事を踏まえ、大聖人は「瞋恚は善悪に通ずる」(御書1539頁)と述べられ、今、大聖人が八幡大菩薩に対して叱責しているのは、それ相応の道理があるからであると述べられています。
そして、蘇悉地〔そしっじ〕経下巻の成就具支品にある「本尊を治罰すること鬼魅〔きみ〕を治するが如し」(御書1539頁)の文を挙げ、その文意について、経文のように所願成就のために、数年の間、法を修行しても、成就しない場合には、その本尊を縛り、打つなどして責めよということであると解釈されています。
平安初期の天台宗の僧、相応〔そうおう〕和尚〔かしょう〕は、比叡山に不動明王像を安置した無動寺の創建者で、貞観〔じょうがん〕8年(西暦866年)に上奏して、伝教大師、慈覚大師に日本初の大師号を贈ったとされていますが、その相応〔そうおう〕和尚〔かしょう〕の「不動明王をしばりける」という元亨釈書〔げんこうしゃくしょ〕第十巻による逸話では、清和天皇の母、皇太后、藤原明子が狂い病にかかり、この相応〔そうおう〕和尚〔かしょう〕が二日間、祈禱しても験〔しるし〕がなく、やむなく、比叡山に帰って不動明王像の前で祈っていると、その不動明王が「弘法大師の弟子である今は、亡き真済僧正が一目惚れした皇太后を悩ませているのである。我は、不動明王呪を受持している者を守護する誓いを立てているので彼を縛ることはできないが、あなたが大威徳明王の呪をもって加持すれば、彼を縛ることができる」と述べ、そのとおりにすると、皇后の病は、直ちに治ったと言います。
しかし、大聖人は「此は他事にはにるべからず」と、大聖人の八幡諫暁は、尼倶律陀〔にくりだ〕長者や相応和尚〔そうおうかしょう〕とは、根本的に異なると述べられています。
日本の一切の善人は、父母などの孝養の為、また、自らの成仏、得道の為に供養していますが、諸宗派の僧侶は、いずれも謗法の者であるので、今生には、災難を招き、後生には、悪道に堕すことになるのです。
大聖人は、こうした仏法に無知な衆生を哀れんで、救済しようとされているのですが、八幡大菩薩を始め、国を守護すべき善神等が、謗法の諸宗派の僧侶に味方しているので叱責しているのであり、したがって、経文の道理にかなったものであると仰せになっています。
日蓮大聖人の弟子門下の中には、大聖人が四箇の格言をもって諸宗派を厳しく破折するから、このような大難に遭うのだと疑問を抱く者があったのですが、それらの者は、どうやって法華経を非難する謗法の者に南無妙法蓮華経と唱えさせることができるのかと反論されています。
第六段では、八幡大菩薩は、正直な人を守護するのであると御教示されています。
釈迦牟尼仏は、最初、小乗教を説いたのですが、維摩〔ゆいま〕経では、二乗の善根について「設ひ五逆罪は造るとも、五逆の者をば供養すとも、罪は仏の種とはなるとも、彼等が善根は仏種とならじ」(御書1540頁)と説かれ、さらに無量義経においては、法華経以前の諸経を「未顕真実」(御書1541)と説かれており、また法華経、方便品では、「此の事は為〔さだ〕めて不可なり」(御書1541頁)とあり、これは、「もし小乗を以って一人をも化せば、我則ち慳貪に堕す」と言う文章の続きで、つまり、仏自身が法華経を説かずに入滅したならば、慳貪〔けんどん〕の罪で堕地獄の因となり、それで、このことを「不可」と説かれたのです。
また、同時に、法華経を謗〔そし〕らずとも、爾前の経文を誉めることは、それ自体、法華経を誹謗していることになると、妙楽大師の法華文句記第三巻下にある「若し昔を称歎〔しょうたん〕せば豈〔あに〕今を毀〔そし〕るに非ずや」(御書1541頁)の文を挙げて、この「昔」とは、爾前の諸経であり、「今」とは、法華経の意味であり、同じく法華文句記第四巻下の「発心せんと欲〔ほっ〕すと雖も偏円を簡〔えら〕ばず、誓ひの境を解〔さと〕らざれば未来の法を聞くとも何ぞ能く謗〔そしり〕を免れん」(御書1541頁)も同趣旨の文章で、「偏円」の「偏」とは、爾前のことで「円」とは、円融円満の意味で法華経をさすのです。
また、この文章の「誓ひの境」とは、菩薩の誓願を成就せしめる対境のことで、妙法蓮華経を意味します。
諸宗の中でも特に真言宗は、法華経の行者を大日経に賺〔すか〕し入れており、弘法大師、慈覚大師、智証大師などによって、誑惑された日本の一切衆生が、皆、謗法に堕していることを指摘されています。
これを破折するのは、一切衆生を無間地獄から救う為であり、涅槃経第三十八巻の「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」(御書1541頁)の文を受けて、この涅槃経の「異の苦」とは、衆生がそれぞれの因縁によって受ける種々の異なった苦しみを差しており、それに対して、大聖人は「一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なり」(御書1541頁)と述べられ、この「同一の苦」とは、この謗法によって起こる無間地獄の苦を差しておられるのです。
王という文字は、天、人、地の三つの横線を一つの縦線で貫〔つらぬ〕くような正直な人を王であるとしています。
世間の正直においても、後鳥羽上皇が策を弄し、人を欺〔あざむ〕くことが多く、それに対し、北条義時は、正直な人であったので、八幡大菩薩もそちらに宿ったのです。
仏教上の正直についても正直とは、法華経のことであり、八幡の本地は、その不妄語の経を説いた釈迦牟尼仏であり、その釈迦仏の垂迹が八幡大菩薩として日本に生まれ、正直な人に宿ることを明かされています。
そして八幡大菩薩が釈尊の垂迹とされる根拠として、密教の胎蔵界曼荼羅の八葉九尊の姿を模して、中央の中台に教主、釈尊を配し、八枚の花弁の蓮華である八葉に、八幡大菩薩を位置づけられています。また、ともに四月八日に生まれ、二月十五日に滅したとされている生没の月日の一致を挙げられ、また、鹿児島県大隅半島の正八幡宮にあったとされる石の銘文を挙げられ、この石は、一つの石が割れて二つになったもので、片方には、八幡と記され、もう一方には「昔は霊鷲山に在って妙法華経を説き、今は正宮の中に在って大菩薩と示現す」(御書1542)と記されていたというものです。
このように八幡の本地は、釈迦如来で正直の法華経を説き、また、その釈迦如来が日本に垂迹して八幡大菩薩と生まれ、「正直の頂き」に栖むのであると述べられ、一切の菩薩や諸神などの権化の衆生の本地は、法華経の一実相であることを御教示され、垂迹示現の権化の人々の例として、跋倶羅〔はくら〕尊者、鴦崛摩羅〔おうくつまら〕、舎利弗を挙げられています。
このように垂迹の化他門が種々に異なるのは、仏となった後で、衆生を教化する化他に向かうにあたって、初心の凡夫の状態を示す為であるというのです。
その為に妙楽大師は、本地に従って説くならば、殺生等の悪業の因縁によって、よく出離生死したのであるから、垂迹の場合においても、同じく殺生等の悪業を示して、化他の法門とすると釈されています。
結論として、この通りであれば、南無妙法蓮華経と唱える人を諸天が守護すると述べられており、御義口伝上巻に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天の守護之〔これ〕有るべし。常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(御書1763頁)とあるように、末法の今時においては、八幡の本地は、三大秘法の御本尊をさすのです。
また、法華経第六巻の如来寿量品に「或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」(御書1543頁)の文を挙げられていますが、これは、天台大師の法華文句九巻下で己身を仏自身・法身・仏界に、他身を他仏・応身もしくは垂迹、九界と解釈していることを示されています。
また、法華経、観世音菩薩普門品に、観音菩薩が衆生のあらゆる苦を救うために、機根に応じて三十三種の変化身を現ずることが説かれており、日蓮大聖人は、御義口伝下巻で、この三十三種の変化について「三十とは三千の法門なり、三身とは三諦の法門なり。(中略)所詮三とは三業なり、十とは十界なり、三とは三毒なり、身とは一切衆生の身なり」(御書1790頁)と述べられ、また同じく「妙音菩薩とは十界の衆生なり。妙とは不思議なり、音とは一切衆生の吐く処の語言音声、妙法の音声なり、三世常住の妙音なり。所用に随って諸事を弁ずるは慈悲なり、是を菩薩と云ふなり」(御書1787頁)と述べられて、観音や妙音においても、三十三身、三十四身を現じるのであるから、教主、釈尊が八幡大菩薩と現じないわけがあろうかと述べられています。
天台大師も法華玄義の中で「即ち是形を十界に垂れて種々の像を作す」(御書1543頁)と述べて、仏は、十界のさまざまな形をとって現れると述べられています。
本抄の最後の段に、末法の聖人出現と仏法西遷〔せいかん〕を示されています。
つまり、日蓮大聖人の仏法を太陽に、釈尊の仏法を月にたとえて、その違いを明らかにされるとともに、大聖人の仏法が日本から東洋、全世界へ広宣流布していくことを予言されているのです。
それは、月は、その輝き始める位置が、一夜毎に西の空から東の空に移っていきますが、これと同じように、西のインドに出現した釈尊の仏法が、しだいに東へと移り、日本に伝えられました。
これを仏法東漸〔とうぜん〕と言います。
これに対し、太陽が東から出て西に向かっていくように、日蓮大聖人の仏法は、東の日本に出現してインドに還っていくと述べられているのです。
これを仏法西遷〔せいかん〕と言います。
また、太陽と月の光の強弱にたとえられ、釈尊の法華経が釈尊在世のうちのわずか八年間であったのに対し、日蓮大聖人の仏法は、末法万年の長きにわたり、その闇を照らし続けていくことを断言されています。
日寛上人は、このことについて、当流行事抄において、明確に種脱相対を明かしていると仰せになっています。
また、釈迦牟尼仏が法華経誹謗の者を治さなかったのは、在世に、この謗法の者がいなかったからであり、それに対して末法では、一仏乗の法華経に敵対する強敵が充満しており、それは、不軽菩薩の御陰であり、弟子に、この一仏乗である御本尊への信心を励むよう促〔うなが〕されて、本抄を終えられています。
以上、本抄では、次の三点が著わされています。
第一に、神天上の法門を示されています。
立正安国論に「世皆〔みな〕正に背〔そむ〕き人悉〔ことごと〕く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相〔あい〕去り、聖人所を辞して還らず。是〔ここ〕を以て魔来たり鬼〔き〕来たり、災〔さい〕起こり難〔なん〕起こる」(御書234頁)と述べられている通り、仏法が乱れ、正法が衰えるとき、善神は、法味に飢えて、守護の本土を捨てて、天界の本地へ去ってしまい、後には悪鬼、魔神が入れ替わり、国中に数々の災難が起こるのです。
では、諸天善神は、どこにも居ないのかと言えば、本抄に「正直の人の頂を以て栖〔すみか〕と為し、諂曲〔てんごく〕の人の心を以て亭〔やど〕らず」(御書1542頁)とあるように、正直な人の心に宿るのです。
正直とは、もちろん、大聖人が仰せのように爾前、迹門の謗法を捨てて、法華本門の三大秘法の御本尊を信ずることです。
一般の日蓮宗では、ただ、神が天上に還〔かえ〕っていても、その祠〔ほこら〕に向かって、法華経を読めば、そこへ神が帰って来るという邪義を立てていますが、それは、立正安国論や本抄を読めば、明らかに間違いであることが判ります。
本門戒壇の大御本尊を信じ、本門の題目を唱え奉るときに、はじめて諸天の加護があるのです。
第二は、大聖人が末法の御本仏であることを示されています。
諸御書に八幡大菩薩の本地は、教主、釈尊であるとされていますが、本抄においても「本地は釈迦如来にして、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹〔すいじゃく〕は日本国に生まれては正直の頂にすみ給ふ」(御書1542頁)と八幡大菩薩の本地が釈迦牟尼仏であると御示しですが、その後に「此の大菩薩は宝殿をや〔焼〕きて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし」(御書1543頁)と述べられ、八幡大菩薩は、末法の法華経の行者である日蓮大聖人の居られる場所に在〔あ〕るのです。
第三に本抄の最後に真の広宣流布の意義を説かれています。
本抄に「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国〔ふそうこく〕をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向かへり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は、東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相〔ずいそう〕なり」(御書1543頁)とあり、この文章の意味は、天竺国を月氏と言うのは、釈迦牟尼仏が出現された故であり、また、我が国を日本というのは、必ず、聖人が出現せられる故に付けられた名前なのです。
また、釈迦牟尼仏の仏法を月に譬え、大聖人の仏法を太陽に譬えて、月が西から東に移っていくように、インドで説かれた仏法が、月氏より東の中国、日本に渡り、また、太陽が東より現れ、それが西に移っていくように、日本に出現した大仏法が、やがては、インドヘと弘まっていくのです。


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