御書研鑚の集い 御書研鑽資料
諫暁八幡抄 第四章 真言による開眼供養を破す
【法華経の第四に云はく「仏滅度の後に能く其の義を解せんは】
法華経の第四巻に「仏の滅度の後に、よく、その義を解する人は、
【是諸の天人世間の眼〔まなこ〕なり」云云。】
諸の天人世間の眼である」などと説かれています。
【日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は、】
日蓮が法華経の肝心である題目を日本に弘通しているのは、
【諸天世間の眼にあらずや。眼には五あり。】
諸天世間の眼であると言えないでしょうか。眼には、五つの種類があります。
【所謂肉眼〔にくげん〕・天眼・慧眼〔えげん〕・法眼・仏眼なり。】
いわゆる肉眼、天眼、慧眼、法眼〔ほうげん〕、仏眼〔ぶつげん〕の五つです。
【此の五眼は法華経より出生せさせ給ふ。】
この五眼〔ごげん〕は、すべて法華経から出ているのです。
【故に普賢経に云はく】
それ故に観普賢菩薩〔かんふげんぼさつ〕行法経〔ぎょうほうきょう〕に
【「此の方等経は是諸仏の眼なり。諸仏は是に因って】
「この方等経〔ほうどうきょう〕は、これ諸仏の眼である。諸仏は、これによって、
【五眼を具することを得たまえり」等云云。】
五眼〔ごげん〕を具〔そな〕えたまえる」などと説かれています。
【此の方等経と申すは法華経を申すなり。又此の経に云はく】
この中で方等経とあるのは、法華経をいうのです。また、同じ観普賢菩薩行法経に
【「人天の福田、応供〔おうぐ〕の中の最なり」等云云。】
「人天の福田であり、応供〔おうぐ〕の中の最たるもの」などと説かれています。
【此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼、】
これらの経文の通りであれば、妙法蓮華経は、人、天の眼であり、
【二乗・菩薩の眼、諸仏の御眼なり。】
二乗や菩薩の眼であり、諸仏の眼目なのです。
【而るに法華経の行者を怨む人は人天の眼をくじ〔扶〕る者なり。】
それ故に、法華経の行者を怨〔うら〕む人は、人天の眼を奪う者であり、
【其の人を罰せざる守護神は、一切の人天の眼をくじる者を結構し給ふ神なり。】
その人を罰しない守護神は、一切の人天の眼を奪う者と結託している神なのです。
【而るに弘法・慈覚・智証等は正しく書を作るや、】
それ故に、弘法、慈覚、智証などは、間違いなく「その著書に、
【法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず、】
法華経は、無明の分際で、明の分位に非ず。
【後に望むれば戯論〔けろん〕と作〔な〕る、力者に及ばず、】
後の優れた経文に比べれば、戯論〔けろん〕である、力者に及ばず、
【履者とりにたらずとかきつけて四百余年、】
履物取りにも及ばない」と書きつけているのです。それ以来、四百余年、
【日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあなづ〔蔑〕らせ、】
日本中の上一人から下万民に至るまで、法華経を侮〔あなど〕らせ、
【一切衆生の眼をくじる者を守護し給ふは、あに八幡大菩薩の結構にあらずや。】
一切衆生の眼を奪う者を守護しているのは、八幡大菩薩では、ないでしょうか。
【去ぬる弘長と又去ぬる文永八年九月の十二日に】
去る弘長元年と文永8年9月12日に、
【日蓮一分の失〔とが〕なくして、南無妙法蓮華経と申す大科に、】
日蓮には、まったく罪がないのに、ただ南無妙法蓮華経と唱えたことを罪として、
【国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひ〔引〕きは〔張〕らせて、】
国主の命令で八幡大菩薩の前に引き出され、
【一国の謗法の者どもにわらわせ給ひしは、】
国中の謗法の者どもに日蓮を笑わせたのは、
【あに八幡大菩薩の大科にあらずや。】
八幡大菩薩の大罪でなくて、なんでしょうか。
【其のいましめとをぼしきは、】
八幡大菩薩が謗法者を戒〔いまし〕められたのは、
【たゞどしう〔同志討〕ちばかりなり。日本国の賢王たりし上、】
ただ北条一門の同士討ちぐらいのものなのです。日本の賢王であった上に、
【第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神はよもをはせじ、】
第一、第二を争う神であり、八幡大菩薩より優れた神は、よもやいません。
【又偏頗〔へんぱ〕はよも有らじとわをもへども、】
また、不平等であることなどは、よもや、ないと思いますが、
【一切経並びに法華経のをきて〔掟〕のごときんば、】
一切経ならびに法華経の文章に照らせば、
【この神は大科の神なり。日本六十六箇国二つの島、】
この神は、大罪の神なのです。日本六十六か国と二つの島にある、
【一万一千三十七の寺々の仏は皆或は画像、或は木像、】
一万一千三十七の寺々の仏は、皆、画像であれ、木像であれ、
【或は真言已前の寺もあり、或は已後の寺もあり。】
また真言宗以前からの寺であれ、それ以後の寺であれ、
【此等の仏は皆法華経より出生せり。法華経をもって眼とすべし。】
すべて法華経から出生した仏であって、法華経をもって眼目とするのです。
【所謂「此の方等経は是諸仏の眼なり」等云云。】
このことは「この方等経は、これ諸仏の眼なり」と観普賢菩薩行法経に説かれ、
【妙楽云はく「然も此の経は常住仏性を以て咽喉〔のんど〕と為〔な〕し、】
妙楽大師も「しかも、この経は、常住仏性をもって喉〔のど〕となし、
【一乗の妙行を以て眼目と為し、】
一乗の妙行をもって眼目〔がんもく〕となし、
【再生〔さいしょう〕敗種〔はいしゅ〕を以て】
敗種〔はいしゅ〕である二乗の再生〔さいしょう〕つまり蘇生〔そせい〕をもって
【心腑〔しんぷ〕と為し、】
心の拠り所とし、
【顕本〔けんぽん〕遠寿〔おんじゅ〕を以て】
本〔もと〕の遠寿〔おんじゅ〕を顕すこと、つまり発迹顕本、開近顕遠をもって
【其の命と為す」等云云。】
その命となす」などと述べられています。
【而るを日本国の習ひ、真言師にもかぎらず諸宗一同に仏眼の印をもって開眼し、】
それなのに、日本で、真言師だけでなく諸宗そろって、仏眼の印をもって開眼し、
【大日の真言をもって】
大日の真言によって、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の
【五智を具足すと云云。此等は法華経にして仏になれる衆生を】
五智を具〔そな〕えるとしているのは、法華経によって仏になった衆生を、
【真言の権経にて供養すれば、還って仏を死〔ころ〕し、眼をくじり、】
真言の方便権経をもって供養し、かえって仏を殺し、眼を奪い、
【寿命〔いのち〕を断ち、喉〔のんど〕をさ〔裂〕きなんどする人々なり。】
命を断ち、喉〔のど〕を裂〔さ〕いたりしている人々であるのです。
【提婆が教主釈尊の身より血を出だし、】
このことは、提婆達多が教主釈尊の身から血を出〔い〕だし、
【阿闍世〔あじゃせ〕王の彼の人を師として】
阿闍世〔あじゃせ〕王が提婆達多を師として
【現罰に値ひしに、いかでかをとり候べき。】
現罰を受けたのに比べても劣らない行為でしょう。
【八幡大菩薩は応神天皇小国の王なり。】
八幡大菩薩は、応神天皇であり小国の王なのです。
【阿闍世王は摩竭〔まかつ〕大国の大主なり。】
阿闍世〔あじゃせ〕王は、摩竭陀〔まかつ〕国という大国の大王であり、
【天と人と、王と民との勝劣なり。而れども阿闍世王、】
天と人、王と民ほどの優劣があるのです。それなのに阿闍世〔あじゃせ〕王でさえ、
【猶釈迦仏に敵をなして悪瘡身に付き給ひぬ。】
釈迦牟尼仏に敵対し悪瘡で苦しんだのです。
【八幡大菩薩いかでか其の科〔とが〕を脱るべき。】
八幡大菩薩が、どうして、その罪を免〔まぬが〕れることができるでしょうか。
【去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて、】
去る文永11年に大蒙古国が攻めて来て、
【日本国の兵を多くほろぼすのみならず、八幡の宮殿すでにやかれぬ。】
日本の兵を多数、滅ぼしただけでなく、八幡大菩薩の宮殿も焼かれてしまいました。
【其の時何ぞ彼の国の兵を罰し給はざるや。】
そのときに、なぜ蒙古国の兵を罰しなかったのでしょうか。
【まさに知るべし、彼の国の大王は】
これらのことから、彼の国の大王が、
【此の国の神に勝れたる事あき〔明〕らけし。】
日本の神の力に勝〔まさ〕っていたことは、明らかなのです。
【襄王〔じょうおう〕と申せし神は漢土の第一の神なれども、】
襄王〔じょうおう〕という神は、漢土第一の神でしたが、
【沛公〔はいこう〕が利剣に切られ給ひぬ。】
沛〔はい〕県出身の高祖劉邦の利剣によって、切られてしまいました。
【此をもってをも〔思〕うべし。】
このことをもって考えるべきです。
【道鏡法師、称徳天皇の心よせと成りて国王と成らんとせし時、】
道鏡法師が、称徳天皇の寵愛を得て天皇になろうとしたとき、
【清丸〔きよまろ〕、八幡大菩薩に祈請せし時、八幡の御託宣に云はく】
和気清丸〔わけのきよまろ〕が祈請しましたが、そのときの八幡大菩薩の御託宣に
【「夫〔それ〕神に大小好悪有り乃至彼は衆〔おお〕く我は寡〔すく〕なし。】
「神にも大小好悪がある。(中略)敵は、多く、味方は、少ない。
【邪は強く正は弱し。乃ち当に仏力の加護を仰いで】
邪悪は、強く、正義は、弱い。それ故に仏力の加護を仰いで、
【為に皇緒〔こうしょ〕を紹隆すべし」等云云。当に知るべし、】
皇位を継承すべし」等とあります。このことからも、
【八幡大菩薩は正法を力として王法をも守護し給ひけるなり。】
八幡大菩薩は、正法を力として王法を守護されたことが明らかなのです。
【叡山・東寺等の真言の邪法をもって】
承久の乱において朝廷方は、比叡山や東寺などの真言の邪法をもって、
【権〔ごん〕の大夫殿を調伏〔じょうぶく〕せし程に、】
権大夫〔ごんのだいぶ〕である北条義時殿の調伏〔ちょうぶく〕を祈祷したので、
【権の大夫殿はか〔勝〕たせ給ひ、隠岐の法皇ま〔負〕けさせ給ひぬ。】
かえって北条義時殿が勝ち、隠岐の法皇は、負けてしまったのです。
【還著〔げんじゃく〕於本人〔おほんにん〕とは此なり。】
法華経の観世音菩薩普門品に説かれている「還著於本人」とは、このことなのです。
【今又日本国一万一千三十七の寺並びに三千一百三十二社の神は】
今、また日本の一万一千三十七の寺、ならびに三千百三十二社の神は、
【国家安穏のためにあが〔崇〕められて候。】
国家安穏の為に崇〔あが〕められていますが、
【而るに其の寺々の別当〔べっとう〕等、其の社々の神主〔かんぬし〕等は、】
それらの寺々の長官や、それらの神社の神主などは、
【みなみなあがむるところの本尊と神との御心に相違せり。】
皆々、彼らが崇〔あが〕めている本尊や神の心に相違しているのです。
【彼々の仏と神とは其の身異体なれども、】
その仏と神とは、さまざまで、その身は、異体ではありますが、
【其の心同心に法華経の守護神なり。】
心は、同一で、皆、法華経の守護神なのです。
【別当〔べっとう〕と社主等は、或は真言師或は念仏者、】
ところが寺の長官や社主は、あるいは、真言師であったり、念仏者であったり、
【或は禅僧或は律僧なり。】
禅僧であったり、律僧であったりして、
【皆一同に八幡等の御かたき〔敵〕なり。】
皆、一同に八幡大菩薩の敵〔かたき〕となっているのです。
【謗法不孝の者を守護し給ひて、】
それなのに、八幡は、謗法や不孝の者を守護され、
【正法の者を或は流罪、】
正法の法華経を持〔たも〕つ行者を流罪にし、
【或は死罪等に行はするゆへに、天のせ〔責〕めを被り給ひぬるなり。】
また、死罪などにした為に、天の責めを被〔こうむ〕られたのです。