日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


如説修行抄 1 背景と大意


如説修行抄(御書670頁)

本抄は、文永10年(西暦1273年)五月、日蓮大聖人が52歳のときに佐渡一谷〔いちのさわ〕において認〔したた〕められた御書です。
竜の口の法難以後、佐渡に流されたことにより、日蓮大聖人が数々の難に遭〔あ〕われていくことに不信を懐いた者たちの中で退転していく者が後を絶ちませんでした。
そのような状況の中で門下一同に対して、不惜身命の不退転の信心を促〔うなが〕されたのが本抄です。
如説修行についての御教示が主であることから「如説修行抄」とされていますが、本抄の追伸に、この書を身から離さず常に読むようにと御指南されていることから「随身不離抄」とも称されています。
なお、御真筆は、現存しませんが、日尊〔にちぞん〕の写本が残っています。日尊は、日興上人の弟子で太夫阿闍梨と称しました。日興上人は、重須〔現在の北山本門寺〕で弟子の育成に努められていましたが、正安元年(西暦1299年)の秋、講義の最中に窓の外を舞い落ちる梨の葉に気をとられた日尊を破門にしました。破門された日尊は、その後、一念発起して諸国を巡り数多くの寺を建立したと伝えられています。また破門された後も、毎年、重須の御会式に必ず参詣しましたが、本堂に入ることが許されないため、門の外の石に腰掛けました。それが今の北山本門寺境内にある日尊上人腰掛石です。その後、破門を許されて、日興上人の滅後、元弘3年(1333年)10月、日目上人とともに京の朝廷への申状提出(天奏)に向かいましたが、11月15日、中山道の宿場町美濃垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)で日目上人が滅せられると、その遺志を継いで京都にむかい、そこで布教を行い法華堂を建立したのが、現在の京都の要法寺の始まりとなっています。
まず、はじめに日蓮大聖人が普段から教えられているとおり、真実の法華経の行者であれば、三類の敵人が現れることは必定〔ひつじょう〕であり、大小の難が競い起こったときに、それに驚いて退転してはならないと誡〔いまし〕められています。
次に如説修行の行者は、現世安穏であるはずなのに、なぜ三類の強敵が現れるのかとの疑問に過去の法華経の行者の姿を通して答えられています。
続いて、この如説修行の正意に迷い、法華経以外の諸経にとらわれている諸宗の誤りを指摘され、さらに仏法を修行する者は、摂受と折伏があることを知らなければならないとされ、末法、現在においては、折伏を行ずる時であることを御教示されています。そして、折伏を行じていくところには、必ず三類の強敵が現れることをお示しになっているのです。
次いで末法においては、その三類の強敵によって数々の大難に遭われている日蓮大聖人並びに弟子檀那こそ、如説修行の人であり、法華経の行者であることを述べられています。
最後に、どのような迫害を受けようとも、命が尽きるまで題目を唱えていくように勧められて本抄を結ばれています。
このように釈迦滅後の末法悪世において法華経を弘通する者には、必ず三類の強敵が現れて迫害を加えると法華経勧持品第十三に説かれています。
この三類の強敵を妙楽大師湛然は、法華文句記巻八の四で三種に分類しました。
その中の俗衆増上慢とは、仏法に無智な在家の者で如説修行の者に悪口罵詈を浴びせ、刀や杖で危害を加えるとあります。次に道門増上慢とは、僧であり、邪智で心が曲がっているために真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに固執し、自身が優れていると思いこみ、正法を実践する者を迫害してくるのです。最後の僭聖増上慢とは、世間では、聖者のように仰がれているが、実際には、自分の利益のみを貪り、悪心を抱き、讒言〔ざんげん〕によって権力者を動かし、法華経の行者に弾圧を加えるのです。妙楽大師は、この三類の強敵のうち僭聖増上慢は、見破り難いため、最も悪質であるとされています。
日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を呼び起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされました。
開目抄では、具体的に日蓮大聖人を竜の口の法難、佐渡流罪をもって迫害した張本人の極楽寺良観らを僭聖増上慢として糾弾されています。
また、大石寺二十六世、日寛上人は、如説修行抄筆記において、本抄の題号には、三大秘法が含まれていることを御教示されています。
題号の「如説」とは、能説と所説のことであり、所説とは、妙法蓮華経であり、能説の教主とは、日蓮大聖人のことであり、そうであるならば、説の一字は、人法の本門本尊となります。
また、題号の「修行」とは題目であり、信ずる故に行ずるのですから、これは、信行の題目のことであり、故に修行の二字は、本門の題目となります。
さらには、この本尊を信じて題目を唱うるが故に、非を防ぎ悪を止めることが出来るので、これは、戒壇の義であり、この本尊所住の処がそのまま本門の戒壇となると仰せです。
そして本抄の「夫〔それ〕以〔おもんみ〕れば末法流布の時、生を此の土に受け此の経を信ぜん人は、」の文章は、宗教の五箇(宗教の五綱)に約すれば「此の経」とは第一の教であり、「信ぜん人」とは第二の機であり、「末法」とは第三の時であり、「此の土」とは第四の国であり、「流布の時」とは、教法流布の前後であり、また宗旨の三箇に約すると「此の土」とは本門の戒壇であり、「此の経」とは本門の本尊であり、「信」とは本門の題目となります。
さらに「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候。」の最後の言葉について、たとえ常にこの書を首にかけ、懐中に入れていたとしても、この書の意を忘れて折伏しなければ「離さず」とは言わない。折伏を忘れて四箇の名言を思わなければ、心が謗法と同じになり、口で折伏を言わざれば、口が謗法と同じになり、手に数珠を持って御本尊に向わなければ、身が謗法と同じになってしまうのです。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底下種、事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者となって、これこそ、身口意の三業に法華を信ずる人であると訓戒されています。
ようするに如説修行とは、所詮〔しょせん〕、三大秘法の大御本尊に題目を唱えることであるとの御教示なのです。

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