日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


如説修行抄 6 摂受と折伏


第五章 摂受と折伏

【難じて云はく、左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを】
方便権教である諸経、諸仏を信ずることを指して

【法華経と云はゞこそ、】
法華経と言うならば、それはたしかに間違いであろう。

【只一経に限りて経文の如く】
それならば、ただ法華経一経だけに限って経文どおりに

【五種の修行をこらし、】
受持、読、誦、解説、書写の五種の修行に励んで、他を批判せず、

【安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云はれ候まじきか如何。】
安楽行品のように修行する者は、如説修行の者と言うのではないでしょうか。

【答へて云はく、凡〔およ〕そ仏法を修行せん者は】
それは、およそ仏道修行をする者は、

【摂折〔しょうしゃく〕二門を知るべきなり。】
摂受と折伏の二つの修行法を知るべきなのです。

【一切の経論此の二を出でざるなり。】
一切の経論も、摂折二門を出ることはないのです。

【されば国中の諸学者等、仏法をあらあらまな〔学〕ぶと云へども、】
そうしてみると、国中の多くの学者たちは、仏法をおおよそ学んだと云うけれども、

【時刻相応の道理を知らず。】
時節に合致する、肝心な修行の道を知らないのです。

【四節四季取り取りに替はれり。】
例えて言えば、一年の春夏秋冬の四季も、その都度、働きが変わるものなのです。

【夏はあたゝかに冬はつめたく、春は花さき秋は菓成る。】
つまり、夏は暑く、冬は寒く、春は花が咲き、秋には果実がなるのです。

【春種子を下して秋菓を取るべし。】
ですから、季節の働きに合わせ、春に種子をまき、秋に果実を取るべきなのです。

【秋種子を下して】
それを逆にして、秋に種子をまき、

【春菓実を取らんに豈取らるべけんや。】
春に菓を取ろうとするならば、どうして取ることができるでしょうか。

【極寒の時は厚き衣は用なり、極熱の夏はなにかせん。】
極寒の時には、厚い着物が役にたち、極熱の夏には、何の必要があるでしょうか。

【涼風は夏の用なり、冬はなにかせん。】
また涼風は、夏には、ありがたいものですが、冬には、何の役に立つでしょうか。

【仏法も亦是くの如し。小乗の法流布して得益あるべき時もあり、】
仏法もまた、このようなものなのです。小乗教が流布して功徳のある時もあり、

【権大乗の流布して得益あるべき時もあり、】
権大乗教が広まって功徳のある時もあり、

【実教の流布して仏果を得べき時もあり。】
実教である法華経が広まって、成仏できる時もあるのです。

【然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。】
正法と像法の二千年間は、小乗教や権大乗教が流布する時であるのです。

【末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。】
末法の始めの五百年は、完全な円教である法華経だけが広宣流布する時なのです。

【此の時は闘諍堅固・】
この時は、争いが絶えない闘諍堅固の時であり、

【白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり。】
しかも、釈尊の白法が隠没して、権教と実教とが入り乱れてしまう時なのです。

【敵有る時は刀杖弓箭〔とうじょうきゅうせん〕を持つべし、】
敵がいて戦わなければならない時には、刀や杖や弓を持って戦うべきなのです。

【敵無き時は弓箭兵杖〔きゅうせんひょうじょう〕なにかせん。】
敵がいない時に、こうした武器が何の役にたつでしょうか。

【今の時は権教即実教の敵と成る。】
今、末法においては、権教が正法である実教の敵となっているのです。

【一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。】
一乗法たる法華経が流布されていく時には、権教がすべて敵となって、

【まぎ〔紛〕らはしくば実教より之を責むべし。】
権実の区別がはっきりしなくなれば、実教の立場から、これを責めるべきなのです。

【是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり。】
これを摂受、折伏二門のなかでは、法華経の折伏と言うのです。

【天台云はく「法華折伏破権門理」と、】
天台大師が、法華玄義巻九の上に「法華は折伏にして権門の理を破す」とあるのは、

【良〔まこと〕に故あるかな。】
まことに理由のあることでなのです。

【然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、】
それなのに摂受である身、口、意、誓願の四安楽の修行を、今の時に行なうならば、

【冬種子を下して益を求むる者にあらずや。】
それは、冬に種子をまいて、春に菓を取ろうとするようなものではないでしょうか。

【鶏〔にわとり〕の暁に鳴くは用〔ゆう〕なり、】
ニワトリが暁〔あかつき〕に鳴くのは当然のことですが、

【よい〔宵〕に鳴くは物怪〔もっけ〕なり。権実雑乱の時、】
夜中に鳴くのは、物の怪〔け〕なのです。権教と実教とが乱れているときに、

【法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、】
法華経の敵を折伏しないで、世間を離れ、山林にとじこもって摂受を修行するのは、

【豈法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや。】
まさしく、法華経修行の時を失った、物の怪〔け〕ではないでしょうか。

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