御書研鑚の集い 御書研鑽資料
曾谷入道殿許御書 06 第5章 弘法大師による正法誹謗
第5章 弘法大師による正法誹謗
【伝教大師は仏の滅後一千八百年、像法の末に相当たって日本国に生まれ、】
伝教大師は、仏滅後一千八百年の像法時代の末に日本に生まれて、
【小乗・大乗・一乗の諸戒一々に之を分別し、】
小乗経と大乗経と一乗経の戒律を一々に分別して、
【梵網〔ぼんもう〕・瓔珞〔ようらく〕の別受戒〔べつじゅかい〕を以て】
梵網〔ぼんもう〕、瓔珞〔ようらく〕の十重禁戒、四十八軽戒の別受戒をもって、
【小乗の二百五十戒を破失〔はしつ〕し、】
小乗の二百五十戒を破り、
【又法華・普賢〔ふげん〕の円頓〔えんどん〕の大王の戒を以て】
また、法華経と普賢経で立てた法華円頓〔えんどん〕の大王の戒をもって、
【諸大乗経の臣民〔しんみん〕の戒を責め下〔お〕とす。】
諸大乗経の臣民の戒を責め落としたのです。
【此の大戒は霊山〔りょうぜん〕八年を除いて、】
この法華円頓〔えんどん〕の大戒は、霊鷲山の八年間を除いて、
【一閻浮提の内に未だ有らざる所の大戒場を叡山〔えいざん〕に建立す。】
一閻浮提の中に未だなかった大戒壇を比叡山に建立したのです。
【然る間八宗共に偏執〔へんしゅう〕を倒し、】
そこで八宗の人々は、自分の偏〔かたよ〕った執着を改めて、
【一国を挙げて弟子と為〔な〕る。】
日本一国を挙げて伝教大師の弟子となったのです。
【観勒〔かんろく〕の流れの三論・成実〔じょうじつ〕、】
観勒〔かんろく〕菩薩の流れをくむ三論〔さんろん〕宗と成実〔じょうじつ〕宗、
【道昭〔どうしょう〕の渡せる法相〔ほっそう〕・倶舎〔くしゃ〕、】
道昭〔どうしょう〕がもたらした法相〔ほっそう〕宗と倶舎〔くしゃ〕宗、
【良弁〔ろうべん〕の伝ふる所の華厳宗、鑑真〔がんじん〕和尚の渡す所の律宗、】
良弁〔ろうべん〕の伝えた華厳宗、鑑真〔がんじん〕和尚のもたらした律宗、
【弘法〔こうぼう〕大師の門弟等、誰か円頓の大戒を持〔たも〕たざらん。】
弘法大師の門弟も、だれが円頓の大戒を持たない者がいたでしょうか。
【此の義に違背するは逆路〔ぎゃくろ〕の人なり。】
この義に違背する者は、師敵対の者なのです。
【此の戒を信仰するは伝教〔でんぎょう〕大師の門徒なり。】
この戒を信仰する人は、伝教〔でんぎょう〕大師の門弟なのです。
【「日本一州円機純一、朝野〔ちょうや〕遠近〔おんごん〕】
慧心僧都〔えしんそうず〕源信の著、一乗要結の「日本一州、円機純一、朝野遠近、
【同帰〔どうき〕一乗」とは是の謂〔いい〕か。】
同帰〔どうき〕一乗」と言うのは、この事を言ったのでしょうか。
【此の外は漢土の三論宗の吉蔵〔きちぞう〕大師並びに一百人、】
この他の中国の三論〔さんろん〕宗の吉蔵〔きちぞう〕大師などの百余人、
【法相宗の慈恩〔じおん〕大師、華厳宗の法蔵〔ほうぞう〕・】
法相〔ほっそう〕宗の慈恩大師、華厳宗の法蔵〔ほうぞう〕、
【澄観〔ちょうかん〕・真言宗の善無畏〔ぜんむい〕・金剛智〔こんごうち〕・】
澄観〔ちょうかん〕、真言宗の善無畏〔ぜんむい〕三蔵、金剛智三蔵、
【不空〔ふくう〕・恵果〔けいか〕、日本の弘法・慈覚〔じかく〕等の】
不空〔ふくう〕三蔵、慧果〔けいか〕和尚、日本の弘法大師、慈覚大師などの
【三蔵諸師は四依〔しえ〕の大士に非ざる暗師なり、愚人なり。】
三蔵の諸師は、見思惑を断じた菩薩などではなく、仏法の道理に暗い愚人なのです。
【経に於ては大小・権実の旨〔むね〕を弁へず、】
経においては、大乗、小乗、権教、実経の区別があることも、わきまえず、
【顕・密両道の趣を知らず。】
顕教、密教の二道の意義も知らず、三論宗の吉蔵〔きちぞう〕大師が菩薩の
【論に於ては通申と別申とを糾〔ただ〕さず、】
論蔵を二種類に分類した通申論と別申論の違いがある事も糾〔ただ〕さず、
【申と不申とを暁〔あき〕らめず。然りと雖も彼の宗々の末学等、】
申と不申との差別も知らないのです。そうであるのに、これらの宗派の学僧などは、
【此の諸師を崇敬〔すうぎょう〕して之を聖人と号し、】
このような諸師を崇〔あが〕め敬〔うやま〕い、
【之を国師と尊ぶ。】
聖人と号し、国師と尊〔とうと〕んでいるのです。
【今先づ一を挙げんに万を察せよ。】
今、まず一例を挙げたので、これで、すべてを推察してください。
【弘法大師の十住心論〔じゅうじゅうしんろん〕・秘蔵宝鑰〔ひぞうほうやく〕・】
弘法大師の十住心論〔じゅうじゅうしんろん〕、秘蔵宝鑰〔ひぞうほうやく〕・
【二教論〔にきょうろん〕等に云はく】
弁〔べん〕顕密二教論などには、それらの事が、よく顕れています。
【「此くの如き乗々〔じょうじょう〕は自乗〔じじょう〕に名を得れども】
秘蔵宝鑰〔ひぞうほうやく〕に「菩薩乗、仏乗などに仏、菩薩の名を付けているが、
【後に望めば戯論〔けろん〕と作〔な〕す」と。】
密教からすれば、戯論〔けろん〕となす」とあり、
【又云はく】
また、同じく秘蔵宝鑰〔ひぞうほうやく〕に
【「無明〔むみょう〕の辺域」と。】
「顕教の釈尊は、密教の大日如来に対すれば、無明の辺域である」と述べ、
【又云はく「震旦〔しんだん〕の人師等、争って醍醐〔だいご〕を盗み、】
また顕密二教論には、六波羅密経を引いて「中国の人師が争って密教の奥義を盗み、
【各〔おのおの〕自宗に名づく」等云云。】
各々、自宗に取り入れている」などと言っているのです。
【釈の心は法華の大法を華厳と大日経とに対して】
この解釈の意味は、法華経の大法を華厳経と大日経に対して
【戯論の法と蔑〔あなず〕り、無明の辺域と下し、】
戯論〔けろん〕の法と蔑〔あなず〕り、無明の辺域と下〔くだ〕し、その上に
【剰〔あまつさ〕へ震旦一国の諸師を盗人と罵〔ののし〕る。】
天台大師、妙楽大師などの中国の諸師を盗人〔ぬすっと〕と罵〔ののし〕ったのです。
【此等の謗法〔ほうぼう〕・謗人は】
このように正法を謗〔そし〕り、正師を謗〔そし〕るのは、
【慈恩・得一〔とくいち〕の三乗真実・一乗方便の狂言〔おうごん〕にも超過し、】
慈恩大師や法相宗の僧、得一の「三乗真実、一乗方便」の狂った物言いにも超え、
【善導〔ぜんどう〕・法然〔ほうねん〕の】
中国浄土教の善導が往生礼讃第四巻で
【千中無一・】
「浄土経以外で成仏する者は、千中無一」と述べ、法然が選択本願念仏集において
【捨閉〔しゃへい〕閣抛〔かくほう〕の】
「念仏以外の一切経を、捨てよ、閉じよ、閣〔さしお〕け、抛〔なげう〕て」と
【過言〔かごん〕にも雲泥せるなり。】
言った事よりも、さらに雲泥の差のひどい暴言であるのです。
【六波羅蜜〔ろくはらみつ〕経をば唐の末に不空三蔵、】
そもそも、醍醐と言う文字がある六波羅蜜経は、唐代の末に不空〔ふくう〕三蔵が
【月氏〔がっし〕より之を渡す。】
インドから持って来たものです。
【後漢より唐の始めに至るまで未だ此の経有らず。】
後漢から唐の初めに至るまで、未だ、この経文は、中国になかったのです。
【南三北七の碩徳〔せきとく〕、未だ此の経を見ず。】
中国、南北朝時代の南三北七の徳の高い僧も、この経文を見たことがないのです。
【三論・天台・法相・華厳の人師、】
それなのに、三論〔さんろん〕宗、天台宗、法相宗、華厳宗の人師の
【誰人〔たれびと〕か彼の経の醍醐を盗まんや。又彼の経の中に】
誰が六波羅蜜の醍醐を盗むことが出来るでしょうか。また、この経の中に
【法華経は醍醐に非ずといふの文、之〔これ〕有りや不〔いな〕や。】
「法華経は、醍醐に非ず」と言う文章は、あるのでしょうか。
【而るに日本国東寺の門人等、堅く之を信じて】
そうであるのに日本の東寺の門弟などは、堅く、これを信じて、
【種々に僻見〔びゃっけん〕を起こし、非より非を増し、】
様々な自分勝手な考えを起こして、非から更に非を増し、
【暗〔やみ〕より暗に入る。不便〔ふびん〕の次第なり。】
暗〔やみ〕から暗〔やみ〕に入っているのです。まことに哀れなことです。
【彼の門家の伝法院の本願たる正覚〔しょうかく〕の】
弘法大師の門弟の伝法院の開基である正覚房覚鑁〔しょうがくぼうかくばん〕の著、
【舎利講式〔しゃりこうしき〕に云はく】
仏舎利供養の要法の際の表白〔ひょうびゃく〕文などを、まとめた舎利講式に
【「尊高なる者は不二摩訶衍〔ふにまかえん〕の仏、】
「尊高なるは、不二摩訶衍〔ふにまかえん〕之仏、すなわち大日如来であり、
【驢牛〔ろご〕の三身〔さんじん〕は】
牛飼いである法身、報身、応身の仏は、
【車を扶〔たす〕くること能〔あた〕はず。】
大日如来の乗る車を牽〔ひ〕く事すらできず、
【秘奥〔ひおう〕なる者は両部曼陀羅〔まんだら〕の教、】
秘奥なるは、胎蔵界、金剛界の両部、曼陀羅〔まんだら〕の密教であり、
【顕乗の四法の人は履〔はきもの〕をも取る能はず」云云。】
顕教の四法の人は、その履物取りにも及ばない」と言っています。
【三論・天台・法相・華厳等の元祖等を】
これは、四法の人、つまり三論〔さんろん〕宗、天台宗、法相宗、華厳宗の開祖を
【真言の師に相対するに、】
真言の師に比較して、法華経を驢馬〔ろば〕や牛に譬え、
【牛飼〔うしか〕ひにも及ばず、】
顕教の法身、報身、応身の仏を、その牛飼いにも及ばないと罵〔ののし〕り、
【力者〔りきしゃ〕にも足らずと書ける筆なり。】
牛の口取りにも足らないと書いているのです。
【乞〔こ〕ひ願はくば彼の門徒等、心在らん人は之を案ぜよ。】
願わくは、弘法の門弟の中で、心ある人は、これを深く考えてみてください。
【大悪口〔あっく〕に非ずや。大謗法に非ずや。】
これは、釈尊、法華経に対する大暴言、大謗法ではないでしょうか。
【所詮〔しょせん〕此等の狂言は、弘法〔こうぼう〕大師の】
結局は、これらの狂った物言いは、弘法大師の
【「望後作〔もうごさ〕戯論〔けろん〕」の悪口より起こるか。】
「後に望めば、戯論となす」と言う悪口から起こっているのです。
【教主釈尊・多宝・十方の諸仏は、法華経を以て已・今・当の諸説に相対して】
教主釈尊、多宝仏、十方の諸仏は、法華経を過去、現在、未来の諸説に相対し、
【「皆是〔かいぜ〕真実〔しんじつ〕」と定め、】
法華経を「皆是れ真実なり」と定め、
【然る後〔のち〕世尊は霊山〔りょうぜん〕に隠居し、】
その後、世尊は、霊山〔りょうぜん〕に隠居し、
【多宝・諸仏は各〔おのおの〕本土に還りたまひぬ。】
多宝仏、十方の諸仏は、それぞれ本土に帰られたのです。
【三仏を除くの外、誰か之を破失せん。】
この三仏以外に誰が、この法華経を破〔やぶ〕る事ができると言うのでしょうか。
【就中〔なかんずく〕、弘法所覧の真言経の中に、三説を】
中でも弘法が見た真言の経文の中に、法華経が過去、現在、未来に説かれた中で
【悔〔く〕ひ還すの文、之有りや不や。】
最第一であるとした事を悔いている文章があるのでしょうか。
【弘法既に之を出ださず。末学の智〔ち〕、如何〔いかん〕せん。】
弘法大師は、この経文の文章を出しておらず、その弟子たちは、どうでしょうか。
【而るに弘法大師一人のみ、法華経を華厳・大日の二経に相対して】
それなのに弘法大師一人のみが、法華経を華厳経、大日経の二経に比較して、
【戯論・盗人と為す。所詮釈尊・多宝・】
「戯論〔けろん〕」「盗人〔ぬすっと〕」としているのです。これは、釈尊、多宝、
【十方の諸仏を以て盗人と称するか。】
十方の諸仏を盗人〔ぬすっと〕と言っているのと同じなのです。
【末学等、眼〔まなこ〕を閉ぢて之を案ぜよ。】
弘法大師を信じている者は、眼を閉じて、この事を真剣に考えてください。
【問うて曰く、昔より已来〔このかた〕、】
それでは、お尋ねしますが、過去から現在に至るまで、
【未だ會〔かつ〕て此くの如き謗言〔ぼうごん〕を聞かず。】
このような弘法大師に対する暴言を、未だかつて聞いた事がありません。
【何ぞ上古清代〔せいだい〕の貴僧に違背して、】
どうして過去の清浄な貴い僧が弘法大師を非難などしていないのに、
【寧〔むし〕ろ当今濁世〔じょくせ〕の愚侶を帰仰〔きごう〕せんや。】
濁悪な現世で愚かな僧の、このような非難の言葉を信じる事ができるでしょうか。
【答へて曰く、汝が所言〔しょごん〕の如くんば、】
それに答えると、あなたの言っている事は、
【愚人は定んで理運〔りうん〕と思はんか。】
愚かな人は、道理と思うことでしょうが、
【然れども此等は皆人〔ひと〕の偽言に因〔よ〕って】
しかし、これらは、人師の妄言を正しいと思っているのであって
【如来の金言を知らず。】
如来の金言を理解していないからなのです。
【大覚世尊、涅槃経に滅後を警〔いまし〕めて言はく「善男子、我が所説に於て】
大覚世尊は、涅槃経に釈迦滅後を「善男子、我が所説において、
【若し疑ひを生ずる者は尚〔なお〕受くべからず」云云。】
もし、疑いを生じる者あらば、なお、信受すべからず」と警告されているのです。
【然るに仏、尚我が所説と雖も】
仏ですら、自分の説法であっても、
【不審有らば之を叙用〔じょよう〕せざれと。】
不審がある場合は、信用しては、ならないと説かれているのです。
【今予を諸師に比〔くら〕べて謗難〔ぼうなん〕を加ふ。】
今、あなたは、私を他宗の諸師と比べて、非難していますが、
【然りと雖も敢へて私曲〔しきょく〕を構へず。】
私は、自分勝手な考えを言っているのではなく、
【専ら釈尊の遺誡〔ゆいかい〕に順〔したが〕って、】
釈尊の誡めの遺言に従って、
【諸人の謬釈〔みょうしゃく〕を糺〔ただ〕すなり。】
人々の間違いを糾〔ただ〕しているのです。