日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


法華初心成仏抄 01 背景と大意

本抄は、御真筆が存在しない為、偽書とされたり、また日持の作とする説もあり、さらに御述作の年月日が欠けていて、弘安元年(西暦1278年)、五十七歳、御作との説にも多くの異説があります。
また、本抄を頂いた駿河国、岡宮(静岡県沼津市)に住んでいた妙法尼についても詳しいことはわかっていませんが、弘安元年九月に与えられた「妙法比丘尼御返事」(御書1256頁)によると夫や兄に先立たれながらも大聖人の信仰を貫いていたことが判ります。
法華初心成仏抄という題名については、その内容から後に付けられたものと考えられています。
この「法華」とは、一往は、法華経の意味ですが、本抄には「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。」(御書1320頁)とあり、大聖人御在世の鎌倉時代以降、末法においては、すでに釈迦仏法である法華経二十八品には、何の力もなく、日蓮大聖人己心の妙法蓮華経を本尊とし、南無妙法蓮華経と呼び顕わさなければ、ならないとされており、最終的には、この後、弘安二年に顕わされた三大秘法の大御本尊こそ、この「法華」にあたるのです。
それを本抄では、簡潔に「法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経」(御書1312頁)とされています。
また「初心」とは、初めて信仰心をおこす発心のことを言いますが、本抄の後半で「無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべきか」 (御書1316頁)との質問を設けられて、末法の初心の行者が、妙法によってのみ成仏できることを明かされています。
末法の衆生は、過去に釈尊から下種結縁されていない本未有善〔ほんみうぜん〕の衆生であり、本因妙の教主たる日蓮大聖人によって、初めて下種結縁されるという意味では、ことごとく初心の者と言えるのです。
つまりは、末法で初めて日蓮大聖人の真実の仏法に触れた衆生は、ことごとく「初心」と言えるのです。
この日蓮大聖人を信じ、三大秘法の大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることで、すべての衆生は、成仏することを「法華初心成仏」と明かされているのが、この本抄であるのです。
まず最初に、多くの仏教の宗派の中で、釈迦牟尼仏が立てられた宗派は、法華宗であり、それ故に仏立宗とも天台宗とも呼ぶことを述べられ、日本こそ、この法華経が弘まるべき謗法の衆生の国であることを示されています。
その証拠として日本の諸宗派は、数々の法華誹謗を繰り返し、それを問いただした天台宗の伝教大師に反して念仏、真言、禅、律などの邪宗邪義を信じて疑わない現実を指摘されています。
さらに、仏滅後2千年の後の五百歳にあたる末法では、まさに釈迦仏法が力をなくす闘諍堅固、白法隠没の時代であり、まさに日蓮大聖人御在世の鎌倉時代の日本は、その通りの有様であり、その時には、「法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経」(御書1312頁)のみが衆生を救うことができる法華経であり、その法華経を信じ弘める日蓮大聖人こそ末法の御本仏であり、その日蓮大聖人が顕わされた御本尊に題目を唱えることが末法の衆生が成仏できる唯一の方法であることを御教示されています。
そのことについて、法華経薬王菩薩本事品の「後五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」(御書1312頁)の文章、法華経の如来神力品の「要を以て之を云はゞ、如来の一切の所〔しょ〕有〔う〕の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、」(御書1313頁)の文章を挙げられ、末法においては、この日蓮大聖人が顕わされた御本尊に題目を唱えることを強いて説くべきであると強調されています。
なぜならば、それ以外に成仏の方途がなく、また、この御本尊を信じないならば、その人は、必ず臨終に於いて無間地獄に堕ちるからなのです。
逆に信じる者は、たとえ五障三従の無智な女人であっても、容易〔たやす〕く成仏できるのです。
それ故に、日蓮大聖人の己心の妙法蓮華経を書き顕された御本尊を信じて題目を唱えることを一切衆生皆成仏道の妙法というと述べられ、最後に「是等の趣〔おもむき〕を能く能く心得て、仏になる道には我慢〔がまん〕偏執〔へんしゅう〕の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」(御書1321頁)と諭されて、本抄を終えられています。
このように本抄では、問答形式によって諸宗の正邪を論じ、三大秘法の御本尊こそ、初心の末法の衆生を成仏させる大法であることを明かされて、末法の初心の行者が成仏できる深義を述べられています。


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