御書研鑚の集い 御書研鑚資料
背景と大意
善無畏三蔵抄 背景と大意
本抄が文永7年(西暦1270年)に著わされたことは、本文中に「建長五年より今年文永七年に至るまで、十七年が間是を責めたるに」(御書438頁)「殊には建長五年の比〔これ〕より今文永七年に至るまで、此の十六七年の間」(御書443頁)とあるので間違いないようです。
しかし、具体的な月日については、不明です。
また、本抄の御真筆は、現存しません。
題名の「善無畏」については、仏法史上、密教である真言を語るうえで、どうしても必要であり、金剛智三蔵、不空三蔵とともに、御書においても、本抄並びに善無畏抄、撰時抄、報恩抄、開目抄、破良観等〔はりょうかんとう〕御書など五十数編の記述におよびます。
さらに、清澄寺時代の師匠である「道善房」についても、本抄、さらには、報恩抄を始めとして、華果〔けか〕成就御書、富士一跡門徒存知事に、その名が出てきます。
また、本抄の最後において、道善房が法華経を受持し、釈迦像を造立〔ぞうりゅう〕したことを殊〔こと〕の他、喜ばれているところから、それを知らせた清澄寺の兄弟子の義浄房、浄顕房に対し、師への報恩の誠意が通じたことに対しての思いを率直に述べられたのでしょう。
それ故に本抄の別名を「師恩報酬抄」と呼ばれています。
ここで道善房の釈迦仏造立〔ぞうりゅう〕については、本抄で日蓮大聖人は、道善房が法華経を持〔たも〕ったのみならず、釈迦の仏像を造ったことに対して称賛されていますが、他の門下についても、例えば、本抄と同じく文永7年(西暦1270年)9月の真間〔まま〕釈迦仏御供養逐状〔ついじょう〕に「釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか」(御書426頁)、また、建治2年(西暦1276年)7月の四条金吾釈迦仏供養事では「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云」(御書992頁)、さらには、弘安2年(西暦1279年)2月の日眼女釈迦仏供養事に「教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし」(御書1353頁)などとあるように、いずれも、釈迦仏造立を讃嘆されています。
しかし、また船守弥三郎許〔もと〕御書に「ことに当地頭の病悩について、祈せい〔請〕申すべきよし仰せ候ひし間、案にあつか〔扱〕ひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出だし給へば、法華経へそせう〔訴訟〕とこそおもひ候へ。(中略)ついに病悩なを〔治〕り、海中いろ〔鱗〕くづの中より出現の仏体を日蓮にたまはる事、此の病悩のゆへなり」(御書262頁)と記されているように、伊豆の流罪の折に地頭の伊東朝高〔ともたか〕が病気平癒の礼として、海中より現れ出た釈迦立像を差し上げたのを、それ以後、日蓮大聖人は、随身仏として携〔たずさ〕えておられましたが、御遺言では、宗祖御遷化〔せんげ〕記録に「仏は(釈迦立像)墓所の傍〔かたわ〕らに立て置くべし」(御書1866頁)とあるように日蓮大聖人は、また、法華経があっての釈迦像であり、決して、それを本尊にされていないことは、これで明らかなのです。
日興上人の「富士一跡門徒存知の事」にも「五人一同に云はく、本尊に於ては釈迦如来を崇〔あが〕め奉るべしとて既に立てたり、随って弟子檀那等の中にも造立供養の御書之在り云云。而る間盛んに堂舎を造りて、或は一体を安置し、或は普賢〔ふげん〕文殊〔もんじゅ〕を脇士〔きょうじ〕とす。仍って聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又堂舎の廊〔ほそどの〕に之を捨て置く。日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯〔ただ〕御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり」(御書1871頁)と御遺命されており、日蓮大聖人が釈迦仏造立を認められ、その行為を賛嘆されている御書が数編あることから、大聖人滅後の五老僧が、大聖人の出世の本懐たる御本尊を無視して、釈迦如来を本尊として崇拝〔すうはい〕する誤りを犯したことは、間違いなく、日興上人は、釈迦如来を本尊とする五老僧の立場を、日蓮大聖人を末法の御本仏と理解できない為の誤りであると破折されているのです。
しかし何故、日蓮大聖人は、御書の各所で釈迦仏造立を賛嘆され、それを許されたのでしょうか。
この問題については、日寛上人が末法相応抄において、三点にわたり「今謹んで案じて曰く、本尊に非ずと雖も、而も之を称歎する。略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり。是の故に用捨時宜〔じぎ〕に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す。然〔しか〕るに彼の人適〔たまたま〕釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見〔かんけん〕の前には、一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」と明快に論じられています。
本抄の場合は、主に第二の理由にあたり、日本一国の上下万民が阿弥陀信仰に飲み込まれている中で、過去において、世間に弘まっているという理由だけで、当然のように念仏を唱え、阿弥陀仏を五体まで作る謗法を犯した師匠である道善房に対して、万難を排して法華経を信じ、釈迦仏の像を造立したことを讃嘆されたものと思われます。
しかし、日興上人が御指摘のように、日蓮大聖人の元意は、どこまでも、弘安二年に顕された人法〔にんぽう〕一箇〔いっか〕の大御本尊にあることは、言うまでもありません。
本抄を拝読するにあたって、最終的には、日蓮大聖人を久遠〔くおん〕元初〔がんじょ〕の御本仏として拝していくべきなのです。
本抄は、大別して五段に分かれます。
第一段では、法華経が無数の経典の中で、最高唯一の経文であり、最も正確に釈迦牟尼仏の本意を伝えていることを、まず述べられ、その正法たる法華経を誹謗し、その遺志に背く、インド、中国、日本の人師、論師が、いかに邪義を構〔かま〕えて来たかを端的に述べられています。
そして天台大師、伝教大師のように「人には依るべからず、専ら道理に依るべきか」(御書437頁)と述べられ、いかに迫害があろうとも、人師、論師の説に惑わされることなく、あくまで経文と道理に依って邪義を破折すべきことを述べられています。
第二段では、主にインド、中国の人師、論師の邪義を指摘されたのに対して、この段では、日本の八宗派、その中でも、真言宗と浄土宗の邪義について述べられています。
それは、道善房が、もともと清澄寺〔せいちょうじ〕の天台真言の宗旨であり、また、地頭や世間に迎合して、念仏を信じていることに対して、それを破折されたと思われます。
第三段では、皆成〔かいじょう〕仏道〔ぶつどう〕の法華経を説いた釈迦牟尼仏を差し置いて、阿弥陀如来を信仰する日本の民衆の不知恩に対し、釈迦如来こそ、娑婆世界に住む一切衆生の有縁の仏であることを論じられています。
その理由として、釈迦如来が娑婆世界の一切衆生の主であり、父母であり、本師であるとされ、主師親の三徳を兼備した仏であることを示されています。
第四段では、その大恩がある釈迦牟尼仏が説かれた法華経を誹謗すれば、いかに八万法蔵を極め、十二部経を暗記するような智者であっても、悪道に堕すことを、真言宗の開祖である善無畏三蔵を例として説かれています。
第五段では、日蓮大聖人が法華経、釈迦牟尼仏を根本に立て、諸宗派の誤りを指摘して来たのは、偏〔ひとえ〕に虚空蔵菩薩と道善房の御陰であると述べられています。
正しいことを正しいと言う破邪〔はじゃ〕顕正〔けんしょう〕の姿こそが、その報恩に報いる唯一の方法であることを示され、道善房が法華経に帰依し、釈迦像を造立するに至ったことを、師への報恩の心が酬〔むく〕いられたとして喜びを表明されるとともに、道理の上からの強言が大切なことを述べられて、本抄を終えられています。
善無畏抄 背景と大意
本抄は、文永八年(西暦1271年)、大聖人が五十歳のときの御述作ですが、残念なことに鎌倉市の本覚寺〔ほんがくじ〕他、六ヶ所に断片が残るのみで、全体は、写本もありません。
文永八年と言えば、竜の口の法難、佐渡流罪の年であり、そのような最中、鎌倉にて執筆されたものと思われます。
宛先は、内容から、真言密教を信じている女性の可能性が一番高く、一説には、大聖人の故郷である安房国〔あわのくに〕長狭群〔ながさごおり〕東条に住む名越〔なごえ〕の大尼に宛てられた手紙と言われています。
それは、この時期、名越の大尼は、退転し、名越家の嫁である新尼〔にいあま〕だけが信心をしている状態であったからです。
名越の大尼は、大聖人が赦免になると再び信仰に復帰しますが、嫁の新尼を通じて、御本尊の御下付を願い出るほどで、さすがに大聖人は、法難にあっても法華経信仰を貫いた新尼には、下付〔かふ〕するが、大尼に対しては、下付することは、叶わないと新尼に伝えられておられます。
内容につては、中国に真言密教を伝え弘めた善無畏三蔵について、この善無畏三蔵の輝かしい活躍と頓死の際の堕地獄の話をされ、さらに嘉祥〔かじょう〕寺の吉蔵〔きちぞう〕大師が、天台大師に七年にわたって仕えて法華誹謗の罪を免〔まぬが〕れた話をされ、最後に、いかなる宗派においても、法華誹謗の罪によって女性と生まれて来た為、女人成仏は、許していないことを指摘され、唯一、女人成仏を説いている法華経に女性は、報恩感謝しなければならないと強調されています。
鎌倉時代の真言宗は、東寺を中心とする東密と比叡山を中心とする台密に分かれていましたが、どちらも、法身仏〔ほっしんぶつ〕である大日如来が自受法楽の為に説いた、現実に役に立つ秘密甚深の教えであるとしていることは、変わりありません。
そして、その密教とは、大日経、金剛頂経、蘇悉地〔そしっじ〕経の三部のみに限るとし、他の釈迦一代の経文は、応身仏〔おうしんぶつ〕、あるいは、他受用身〔たじゅゆうしん〕が説いた現実に何の役にも立たない理屈上の所説であるとし、密教よりはるかに劣る顕教としているのです。
つまり、その理論においては、顕教である法華経も密教である真言も同じであるが、現実においては、真言と印が説かれている密教の真言宗が数段、優れていると言うのです。
本尊には、大日如来、薬師如来をおき、修行としては、それらの仏、菩薩、諸尊の前で胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅を懸〔か〕け、加持祈禱の法を行なうのです。
その方法として檀を構えて、護摩〔ごま〕を焚〔た〕いたり、真言を口に唱え、手に印〔いん〕を結んだりして礼拝、供養するのです。
これが、真言宗の主張する理同事勝の中身であり、結局は、もったいぶった加持祈祷で、無智に付け込んだ浅はかな現世利益を願う、ただの、まやかしでしかないのです。
しかし、女性は、理屈は、どうあれ、そうした神秘的なものを求め、現実の姿、形に、こだわることが多いようです。
また、真言とは、梵語〔ぼんご〕で陀羅尼〔だらに〕とも言い、凡人に理解できない言葉に神秘的な力があり、それを唱えれば、現実に、この世界が変わるとするものです。
しかし、本抄で善無畏三蔵が地獄に堕ちて「八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許〔ばか〕り忘れず」(御書505頁)とあるように、本当の真言とは、大聖人が唱えられる法華経の題目であり、これこそが唯一無二の最高の陀羅尼なのです。
つまり、真実の真言とは、無間〔むけん〕地獄の道を塞ぎ、すべての人々を成仏の道へと導く三大秘法の本門の題目のことなのです。