日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


善無畏三蔵抄 第五章 道善房への報恩


【而るを日蓮は安房国〔あわのくに〕東条の郷】
しかるに、日蓮は、安房国〔あわのくに〕、東条の郷にある

【清澄山〔きよすみさん〕の住人なり。】
清澄山〔きよすみさん〕の住人ですが、

【幼少の時より虚空蔵〔こくうぞう〕菩薩に願を立てゝ云はく、】
幼少の時から、虚空蔵〔こくうぞう〕菩薩に願いを立て、

【日本第一の智者となし給へと云云。】
日本第一の智者にしてくださいと祈ったところ、

【虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて】
虚空蔵〔こくうぞう〕菩薩が、眼前に高僧となって現れ、

【明星の如くなる智慧の宝珠〔ほうじゅ〕を授〔さず〕けさせ給ひき。】
明星のような宝の珠である智慧を授けて頂いたのです。

【其のしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の】
その証拠なのでしょうか、日本の八宗派、並びに禅宗や念仏宗などの

【大綱粗〔ほぼ〕伺〔うかが〕ひ侍りぬ。】
教義の概要を、ほぼ、理解することができたのです。

【殊には建長五年の比〔ころ〕より今文永七年に至るまで、此の十六七年の間、】
建長五年の頃から、今年の文永七年に至るまでの、この十六、七年間は、

【禅宗と念仏宗とを難ずる故に、】
中でも、特に禅宗と念仏宗とを調べて、その教義に対して反論してきたので、

【禅宗念仏宗の学者蜂の如く起こり、雲の如く集まる。】
禅宗や念仏宗の学者達が蜂のように群がり、雲のように集まって来たのです。

【是をつ〔詰〕むる事一言二言には過ぎず。】
ですが、これに論破することは、一言、二言で十分過ぎるほどでした。

【結句は天台真言等の学者、】
最後には、天台宗や真言宗の学者達までが、

【自宗の廃立〔はいりゅう〕を習ひ失ひて】
自宗派の依りどころである教義の仏法上の廃立〔はいりゅう〕を忘れて、

【我が心と他宗に同じ、】
自らすすんで、念仏宗や禅宗などの他宗派に同調し、

【在家の信をなせる事なれば、】
あるいは、在家の人々が信じているのだからと言って、

【彼の邪見〔じゃけん〕の宗〔しゅう〕を扶〔たす〕けんが為に天台真言は】
念仏や禅の邪見の宗派を助けようとして、思案を巡らし、天台、真言は、

【念仏宗禅宗に等しと料簡〔りょうけん〕しなして日蓮を破するなり。】
念仏宗や禅宗と同じであるなどと強弁して、日蓮を論破しようとしているのです。

【此は日蓮を破する様なれども、】
しかし、これは、日蓮を論破しようとしているように見えますが、

【我と天台真言等を失ふ者なるベし。】
その実際は、自分自身の手で、天台や真言の立場を失う結果となっているのです。

【能く能く恥づべき事なり。此の諸経・諸論・】
実に恥ずべき行為であるのです。このように、諸経、諸論、

【諸宗の失〔とが〕を弁〔わきま〕へる事は】
諸宗派の間違いを弁〔わきま〕え、理解することができたことは、

【虚空蔵菩薩の御利生〔ごりしょう〕、】
ひとえに、虚空蔵〔こくうぞう〕菩薩の御陰であり、

【本師道善〔どうぜん〕御房の御恩なるベし。】
師匠である道善〔どうぜん〕房の御陰なのです。

【亀魚〔かめ〕すら恩を報ずる事あり、何に況んや人倫をや。】
亀ですら、恩を報じることがあります。まして人間においては、なおさらです。

【此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、】
この恩を報じる為に、清澄山において仏の正法を弘め、

【道善御房を導き奉らんと欲す。】
道善房を導こうと思ったのですが、

【而るに此の人愚癡〔ぐち〕におはする上念仏者なり、】
ところが、この人は、愚かであるうえに、念仏者なのです。

【三悪道を免るべしとも見えず。】
とても、三悪道から免〔まぬが〕れるとは、思えません。

【而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども、】
また、日蓮の教訓を受け入れる人では、ありません。そうでは、ありますが、

【文永元年十一月十四日西条〔さいじょう〕華房〔はなぶさ〕の】
文永元年11月14日、西条〔さいじょう〕華房〔はなぶさ〕の

【僧坊にして見参〔げんざん〕に入りし時、】
僧坊で会ったときに、

【彼の人の云はく、我〔われ〕智慧なければ】
道善房が言われるのには「私は、智慧がないので、

【請用〔しょうゆう〕の望みもなし、年老ひていら〔綺〕へなければ】
高い地位になることも望まず、年老いており、名聞を求めようとも思わないので、

【念仏の名僧をも立てず。】
たとえ、念仏の名僧であっても、師匠とは、思わない。

【世間に弘まる事なれば唯〔ただ〕南無阿弥陀仏と申す計りなり。】
世間に弘まっていることであるから、ただ南無阿弥陀仏と唱えているだけである。

【又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、】
また、私が考えたことでは、ないけれども、何かの縁があって、

【阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。】
阿弥陀仏を五体まで作った。これもまた、過去の宿習であろう。

【此の科〔とが〕に依って地獄に堕つべきや等云云。】
まさか、その罪によって地獄に堕ちることがあろうか」と話されたのです。

【爾の時に日蓮意に念〔おも〕はく、】
その時に、日蓮が心に思うのには、

【別して中違〔なかたが〕ひまいらする事無けれども、】
師匠と、あえて仲違いをするつもりは、ないけれども、

【東条〔とうじょう〕左衛門〔さえもん〕入道〔にゅうどう〕蓮智〔れんち〕が】
東条〔とうじょう〕左衛門〔さえもん〕入道〔にゅうどう〕蓮智〔れんち〕の

【事に依って此の十余年の間は見奉らず。】
事件によって、この十余年の間は、会うことは、なかったので、

【但し中〔なか〕不和なるが如し。】
結局は、仲違いしているようなものであるから、

【穏便〔おんびん〕の義を存じおだやかに申す事こそ礼義なれと思ひしかども、】
穏便〔おんびん〕に話すことこそ、礼儀であると思ったのですが、

【生死界の習ひ、老少〔ろうしょう〕不定〔ふじょう〕なり、】
生死の世界の習いは、老少〔ろうしょう〕不定〔ふじょう〕であり、

【又二度見参の事難かるべし。】
また、二度と会うことも難しいだろうと思い、

【此の人の兄道義房〔どうぎぼう〕義尚〔ぎしょう〕此の人に向かひて】
この道善房の兄の道義房〔どうぎぼう〕義尚〔ぎしょう〕に対しても、

【無間地獄に堕つべき人と申して有りしが、】
無間地獄に堕ちると、進言しておきましたが、

【臨終思ふ様にもましまさゞりけるやらん。】
やはり、臨終は、思うようにいかなかったらしく、

【此の人も又しかるベしと哀れに思ひし故に、】
また、この道善房も、同じ様になるであろうと、哀れに思ったので、

【思ひ切って強々〔つよづよ〕に申したりき。】
思い切って、強く進言したのです。

【阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし。】
「阿弥陀仏を五体作られたことは、五度、無間地獄に堕ちることとなるのです。

【其の故は正直捨方便の法華経に、】
その理由は、正直捨方便と説かれた法華経には、

【釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ。】
釈迦如来は、我らの父親、阿弥陀仏は、伯父〔おじ〕であると説かれているのです。

【我が伯父をば五体まで作り供養させ給ひて、】
釈迦如来の伯父の像を五体までも作り、供養されていながら、

【親父をば一体も造り給はざりけるは、】
釈迦如来の仏像を一体も造られないのは、

【豈〔あに〕不孝の人に非ずや。】
まことに不孝の人としか、言いようがありません。

【中々山人〔やまがつ〕・海人〔あま〕なんどが、】
むしろ、木樵〔きこり〕や海女〔あま〕などのように、

【東西をしらず一善をも修せざる者は、還〔かえ〕って罪浅き者なるべし。】
西も東もわからず、一善さえ修〔おさ〕めない者の方が返って罪が浅い者なのです。

【当世の道心者〔どうしんしゃ〕が後世を願ふとも、法華経釈迦仏をば打ち捨て、】
当世の求道心がある者が、後世を願いながら、法華経、釈迦牟尼仏を打ち捨てて、

【阿弥陀仏念仏なんどを念々に捨て申さゞるはいかゞあるべかるらん。】
阿弥陀仏、念仏は、少しの間でさえ捨てないのは、どういうことなのでしょうか。

【打ち見る処は善人とは見えたれども、】
一見すると、善人に見えますが、

【親を捨てゝ他人につく失〔とが〕免るべしとは見えず。】
親を捨てて、他人につくあやまちは、まぬがれられるとは思えません。

【一向悪人はいまだ仏法に帰せず、】
ほんとうの悪人は、未だ仏法に帰依していないので、

【釈迦仏を捨て奉る失も見えず。】
釈迦牟尼仏を捨て去るような大きな過ちは、ないのです。

【縁有って信ずる辺もや有らんずらん。】
したがって、縁さえあれば、信ずることもあるでしょう。

【善導・法然並びに当世の学者等が邪義に就いて、】
善導、法然、ならびに、今の世の学者などの邪義について、

【阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人々は、】
阿弥陀仏を本尊とし、念仏のみを唱える人々は、

【多生〔たしょう〕曠劫〔こうごう〕をふるとも、】
多生〔たしょう〕曠劫〔こうごう〕の長大な時間を経たとしても、

【此の邪見を翻〔ひるがえ〕して釈迦仏法華経に帰すべしとは見えず。】
この邪見を捨てて、釈迦牟尼仏、法華経に帰依するとは思えないのです。

【されば双林〔そうりん〕最後〔さいご〕の】
それ故に釈尊が沙羅双樹〔さらそうじゅ〕の下で最後に説かれた

【涅槃〔ねはん〕経に】
涅槃経〔ねはんぎょう〕には、

【「十悪〔あく〕五逆〔ぎゃく〕よりも過ぎてをそろしき者を出ださせ給ふに、】
「十悪、五逆罪よりも、はるかに恐ろしい罪の者をあげて、

【謗法〔ほうぼう〕闡提〔せんだい〕と申して】
それは、謗法〔ほうぼう〕闡提〔せんだい〕と言って、

【二百五十戒を持ち、三衣〔ね〕一鉢〔ぱち〕を身に纏〔まと〕へる】
二百五十戒を持〔たも〕ち、三衣〔ね〕一鉢〔ぱち〕を身に携〔たずさ〕えている

【智者共の中にこそ有るべしと見え侍れ」と、】
智者たちの中にこそいる」と説かれています。

【こまごまと申して候ひしかば、】
このように、こまごまと話をして差し上げましたが、

【此の人もこゝろえずげに思ひておはしき。】
道善房は、あまり、理解できない様子でした。

【傍座〔ぼうざ〕の人々もこゝろえずげにをも〔思〕はれしかども、】
また、傍〔そば〕に居た人々も、よく、わからないという様子でしたが、

【其の後承りしに、】
その後に受け承〔たまわ〕ったところでは、

【法華経を持たるゝの由承りしかば、】
法華経を持〔たも〕つようになったと聞いたので、

【此の人邪見を翻し給ふか、】
邪見を翻〔ひるがえ〕されたのでしょうか。

【善人に成り給ひぬと悦び思ひ候処に、】
そうであれば、善人になられたと喜んでいたところに、

【又此の釈迦仏を造らせ給ふ事申す計りなし。】
また、この釈迦牟尼仏の像を造られた事は、口では、言えぬほどの喜びなのです。

【当座には強〔つよ〕げなる様に有りしかども、】
その時には、あまりに厳しく言い過ぎたように思えたのですが、

【法華経の文のまゝに説き候ひしかばか〔斯〕うおれさせ給へり。】
法華経の文の通りに説いたので、このように心が変わられたのでしょう。

【忠言耳に逆〔さか〕らひ良薬口に苦〔にが〕しと申す事は是なり。】
忠言は、耳に逆らい、良薬は、口に苦しと言うのは、このことです。

【今既に日蓮師の恩を報ず。】
今や、すでに日蓮は、師の恩を報じたのです。

【定んで仏神納受し給はんか。】
きっと神仏も、この事を納得して頂けるでしょう。

【各々此の由〔よし〕を道善房に申し聞かせ給ふべし。】
それぞれが、このことを道善房に話してください。

【仮令〔たとい〕強言〔ごうげん〕なれども、人をたすくれば】
たとえ、強い言葉であっても、人を助ければ、

【実語・軟語〔なんご〕なるべし。】
正しい言葉であり、優しい言葉となるのです。

【設ひ軟語なれども、】
たとえ、優しい言葉であったとしても、

【人を損ずるは妄語〔もうご〕・強言なり。】
人を傷付けることになれば、それは、妄語であり、強言となるのです。

【当世学匠〔がくしょう〕等の法門は、軟語・実語と】
今の世の学者などの法門は、優しい言葉、正しい言葉と、

【人々は思〔おぼ〕し食〔め〕したれども皆強言・妄語なり。】
人々は、思っていますが、すべて強言であり、妄語なのです。

【仏の本意たる法華経に背〔そむ〕く故なるべし。】
それは、仏の本意である法華経に背〔そむ〕くからなのです。

【日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、】
日蓮が、念仏を唱える者は、無間地獄に堕ちる。

【禅宗・真言宗も又謬〔あやま〕りの宗なりなんど申し候は、】
禅宗、真言宗も、また、誤〔あやま〕った宗派であると言うのは一見すると、

【強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし。】
強言のように思えますが、実は、正しい言葉であり、優しい言葉なのです。

【例せば此の道善御房の法華経を迎へ、】
たとえば、この道善房が法華経を信じ、

【釈迦仏を造らせ給ふ事は日蓮が強言より起こる。】
釈迦牟尼仏の像を造られた事は、日蓮の強言から起きたことなのです。

【日本国の一切衆生も亦復是くの如し。】
日本の一切衆生も、また同様なのです。

【当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、】
今の世で、この十余年以前は、多くは、念仏者ばかりでしたが、

【十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、】
今では、十人のうち、一、二人は、南無妙法蓮華経と唱え、

【二三人は両方になり、】
二、三人は、両方を唱えるようになり、

【又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、】
また、念仏を唱える人も疑いをもって、心の中では、法華経を信じ、

【又釈迦仏を書き造り奉る。】
また、釈迦牟尼仏を書いたり、その像を造るようになって来ています。

【是亦日蓮が強言より起こる。】
これも、また日蓮の強言から起こったことなのです。

【譬へば栴檀〔せんだん〕は伊蘭〔いらん〕より生じ、】
たとえば、栴檀〔せんだん〕は、伊蘭〔いらん〕より生じ、

【蓮華は泥より出でたり。】
蓮華は、泥より出〔い〕でて来るようなものなのです。

【而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば、】
しかるに、念仏は、無間地獄に堕ちると言ったことに反発して、

【当世、牛馬の如くなる智者どもが】
今の世の、牛馬のような智者たちが、

【日蓮が法門を仮染〔かりそめ〕にも毀〔そし〕るは、】
日蓮の法門を、一時的であっても毀〔そし〕る姿は、

【糞犬〔やせいぬ〕が師子王をほへ、】
痩〔や〕せ犬が師子王に吠え、

【癡猿〔こざる〕が帝釈〔たいしゃく〕を笑ふに似たり。】
愚〔おろ〕かな猿が帝釈〔たいしゃく〕天を笑うのに似ています。

【文永七年 日蓮花押】
文永7年  日蓮花押

【義浄房】
義浄房

【浄顕房】
浄顕房


ページのトップへ戻る