日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


妙法比丘尼御返事 背景と大意


本抄は、亡夫追善御書とも呼ばれており、その名の通り、妙法比丘尼の兄の尾張次郎兵衛の死の報告と、その兄嫁から、楮〔こうぞ〕などで出来た目の粗い布の単衣〔ひとえ〕の服を御供養されたことに対する御返事です。
妙法比丘尼については、駿河国〔するがのくに〕、現在の静岡県の岡宮の住人ではないかと思われる以外は、あきらかではありません。
なお、この御書の御真筆は、存在しません。
本抄の内容は、さきほど述べたとおり、尾張次郎兵衛〔おわりのじろうひょうえ〕の死去の知らせと兄嫁からの御供養が届いたことを挙げられ、まず、御供養に対して、商那和修〔しょうなわしゅ〕を例に、日蓮大聖人に単衣〔ひとえ〕の服を御供養した功徳が、いかに大きいかを述べられています。
商那和修〔しょうなわしゅ〕とは、中インド王舎城の長者で付法蔵の二十四人の第三です。
付法蔵因縁伝によると阿難〔あなん〕尊者に教えを受け、八万四千の法蔵を付属され、この法によって、摩突羅〔まとら〕国曼羅〔まんだ〕山や罽賓国〔けいひんこく〕で教化し、付法蔵の第四の優婆毱多〔うばきくた〕 に法を付属しました。
その名前の由来は、ある時、この長者は、五百人の客と海を渡り豪遊しようと出発しましたが、道中で一人の僧侶に出会ったのです。
僧侶は、重い病気に罹〔かか〕り、瀕死の状態でしたが、長者は、薬草を与え、手を尽くして看病したのです。
それが功を奏して、ようやく快方に向かい、遂に病を克服し体力も回復してきました。
僧侶は、商那〔しょうな〕という麻の一種で編んだ衣〔ころも〕を身に着けていましたが、それが、ひどく汚れており、長者は、香湯を沸かして沐浴〔もくよく〕をさせ、上等な自分の衣服を差し出して御供養申し上げたのです。
すると、その僧侶は、自分の着ている衣を指して「私は、この衣を着て涅槃する。汝〔なんじ〕は、僧に衣を供養した功徳により、未来に必ず大果報を得るであろう」と言って、そのまま涅槃に入ったのです。
眼前にそれを見た長者は、その尊体を荼毘〔だび〕に付し、その舎利〔しゃり〕を入れた塔を建てて供養したのです。
そして長者は、その前において「私は、来世には、聖師に会って、あらゆる威儀、功徳、衣服を具して、あなたのようになりたい」と誓願を発〔おこ〕したのです。
この誓願によって長者は、ふたたび人として生を受け、衣を着たままで母の胎内から生まれたのでした。
さらに、その衣は、長者が成長するに従って、大きくなるのでした。
そして夏は、薄く軽く、冬は、厚く暖かく、春は、青くなり、秋は、白くなり、いつまでも穢〔けが〕れることもなく、雨に濡れることもなかったのです。
そののちに長者は、釈迦牟尼仏の弟子である阿難〔あなん〕尊者と会って出家しました。
すると身に着けていた、この衣は、変じて袈裟〔けさ〕となったのです。
得度し涅槃に際しても、けっして、この衣は、僧の身体から離れることがなかったので、この因縁から、この僧を商郡和修〔しょうなわしゅ〕と言うようになったのです。
日寛上人は、この逸話について「衣を施〔ほどこ〕した功徳を説いたものである」(歴代法主全書八巻)と述べられています。
そして法華経の行者として、苦難の連続であった日蓮大聖人の御一生を述べられて、御自身が末法の法華経の行者であることを経典の上から論じられた後、その法華経の行者である日蓮大聖人を迫害することによって、日本に天変地夭や内乱、戦争などの厳罰が起こり、さらには、謗法の人々は、ことごとく四悪道に堕ちることが述べられています。
それに対して、また、日蓮大聖人に供養した者の功徳が、いかに広大であることかを先の商那和修〔しょうなわしゅ〕の例をあげて強調されています。
最後に尾張次郎兵衛の死去に際して、心中は、別として、大聖人を信じては、いなかったものの、会った時は、非常に礼儀正しい立派な人であったと、その死を悔やまれ、また、その妻が法華経を信じていることから、特別に法華経に背くことなどは、ないだろうと頼もしく思っていると述べられています。
しかし、長年に渡って、法華経を誹謗し、日蓮大聖人を迫害してきた念仏宗や念仏者と親しく交わる者は、いかに法華経を信じているようであっても、すべて法華経の敵〔かたき〕であり、必ず無間地獄に堕ちると断言され、その恐ろしさを指摘されています。
続いて、尾張次郎兵衛の妻の悲しみを思いやられ、本抄を締めくくられています。


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