日蓮正宗法華講開信寺支部より

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2022年(令和4年) 05月27日


御書に学ぶ信心

日蓮大聖人は、諸法実相抄において「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と言われています。行学がなければ、仏法はない。行学がなければ、信心があるとは、言えない。と言う事ですよね。
もし、御書を読んで感動しないようでは、もはや大聖人の弟子とは、言えません。日蓮大聖人は、一切衆生を仏にしようと極寒の佐渡で、また、人里離れた険しい山の中の身延で私達の為に自らの法門を書き綴(つづ)られているのです。ましてや、それを読む気がしないなどと言うのでは、大聖人様を御本仏と拝していないことになります。大事な人からの手紙であれば、まずは、何はともあれ、読むでしょう。
まして、いくら創価学会などが御書根本などと言いつくろってみても、御書の中の自分に都合の良い所だけを取り出して、決して御書全体を拝していこうとは、していないのです。所詮、自分の主義主張を御書によって正当化しているだけに過ぎません。そんな邪宗邪義の輩は、御書に書かれている内容を真剣に学ぼうなどという気持ちは、まったくないのです。ですから、本門戒壇の大御本尊を受持しないと言ってみたり、日顕猊下、日如猊下を悪し様に言うような大謗法を繰り返し、御書から、読み取ったというその内容も世間に迎合するような何の意味もないものばかりになってしまうのです。それは、御書と言いながら、そのすべてが切り文ばかりで、その読み取った内容は、矛盾ばかりなのです。そこには、大聖人の名前を利用するだけで、ほんとうに大聖人が主張されている事を学ぼうとか、広めて行こうというような謙虚な気持ちなどまったくない、外道の姿なのです。御書は、依義判文と言って、その義に依って文を判じていかなければ意味がありません。
私達、日蓮正宗、開信寺法華講員は、大聖人の心を心とし、御書から大聖人の仏法を学び、大聖人の仏教を堂々と広めて行こうではありませんか。

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