御書研鑚の集い 御書研鑽資料
本尊問答抄 1 背景と大意
本尊問答抄(御書1274頁)
この本尊問答抄は、弘安元年(西暦1278年)九月、聖寿五七歳の御時に身延において書き著されたとされています。本抄そのものには、御述作年月日は、記されていませんが、古くからの御書の目録、注釈書でも、いずれも「弘安元年」の御述作とする事で一致しています。
御真筆は、現存しませんが、日興上人の富士一跡門徒存知の事には「聖人御書の事」(御書1870頁)として、立正安国論などの十大部の他の御書とともに「本尊問答抄一巻」(御書1871頁)と記されていますが、御真蹟や写本の所在については触れられていません。しかし、御真筆の所在が不明であるにも関わらず、日興上人による北山本門寺蔵、賢秀公日源による岩本実相寺蔵、日興上人による富久成寺蔵(茨城県古川市の日蓮正宗寺院)の三つの写本が現存しています。
本尊問答抄と云う題号自体、古来から日蓮大聖人の御自撰であるとされており、それについても異論はないようです。先にも述べたように、富士一跡門徒存知事の中でも「本尊問答抄一巻」とはっきり記されており、また、他の写本にも「本尊問答抄」と明記されていることから、おそらくこの題号は、大聖人の御自撰であることは間違いないでしょう。
また、本抄には、末尾に日蓮大聖人が清澄寺修学時代に兄弟子であった浄顕房への「貴辺は地頭のいか〔怒〕りし時、義城房とともに清澄寺をいでておはせし人なれば」との言葉が述べられており、清澄寺の二人に与えられた御書として差し支えないでしょう。その兄弟子を代表として当時の仏教界においては、本尊とは、当然のように数々の法門を説いて来た釈迦牟尼仏であり、または、その経文の中でも最第一の法華経とされていたにも関わらず、その兄弟子に、おそらく中央に「南無妙法蓮華経」と認〔したた〕められており、「釈迦牟尼仏」と「多宝如来」が「宝塔の内の釈迦多宝」として顕されている御本尊を書き送られており、その御本尊への疑問と回答が、そのままこの御書の主題になっています。
その答えとして本抄に「本尊とは勝れたるを用ふべし」また「能生を以て本尊とするなり」とその理由を述べられ、最終的には、本抄の冒頭にあるように、末法においては「法華経の題目」を本尊とすべきであると御教示されています。
この「法華経の題目」とは、弘安二年(西暦1279年)の曾谷殿御返事に「法華経の題目は一切経の神〔たましい〕、一切経の眼目〔げんもく〕なり。」(御書1381頁)とあり、御講聞書の「妙法蓮華経の五字を眼と云ふ事」には、「此の御本尊より外に眼目無きなり」(御書1856頁)ともあるように、法華経の題目こそ一切経の極理であり、肝要であり、本尊であるのです。同じく他の曾谷殿御返事においても「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず、法華経の心なり、体なり、所詮なり。」(御書1187頁)とあり、また、「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人々は名と計り思へり。さにては候はず、体なり。体とは心にて候」(御書1188頁)と仰せになり、さらに、四信五品抄では、「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。」(御書1114ぺーじ)とあるように、「法華経の題目」とは、ただ経文のタイトルではなく、経文の主旨でもなく、意〔こころ〕であると何度も同じ説明をされています。
日寛上人は、このことについて、報恩抄文段において「法華経の心とは本因所証の妙法なり」と述べられており、久遠五百塵点劫に成道した釈迦を「本果所証」と云うのに対して、ここにある「本因所証」とは、久遠元初の自受用身如来を云うと述べられており、さらには、文底秘沈抄で「文は即ち一部の始終、能詮の文字なり。義は即ち所詮、迹本二門の所以なり、意は則ち二門の所以皆文底に期す、故に文底下種の妙法を以て一部の意と名づくるなり」と述べられており、つまり、「文」「義」「意」の立て分けにおいて「文」は、法華経二十八品の経文であり、「義」は、それによって示されている本迹二門の内容を指し、これに対して「意」とは、文底下種の南無妙法蓮華経であるとの御教示なのです。これらは、日蓮大聖人の御本懐である未曾有の法門を明かされるにあたり、日蓮大聖人が弘められる法華経の題目の深意を示されているのです。つまり日蓮大聖人がここで「法華経の題目」として顕されているのは、たんなる法華経の題号などではなく、三大秘法の本門の題目、文底下種の南無妙法蓮華経の事なのです。
日寛上人は、取要抄文段で「問う、本尊問答抄の意は、末大悪世の凡夫は但法華経の題目を以て本尊と為すべし等云云、若し爾らば、蓮祖を造立し仍本尊と為すべきか、如何。答う、法華経の題目とは本地甚深の奥蔵、即ちこれ蓮祖聖人の御事なり。その故は蓮祖大聖人、我が身は即ち法華経の題目なりと知しめし、久遠元初の自受用報身と顕れたまえり、故に知んぬ。法に即して人、人に即して法、人法本これ体一なることを。故に法華経の題目とは、またこれ蓮祖聖人の御事なり」とあり、法華経の題目とは、人法一箇の第御本尊を意味しているとの御指南なのです。
先ほどもあったように本抄の冒頭で、末法悪世の凡夫は、何物をもって本尊とすべきかとの問いから、「法華経の題目を以て本尊とすべし」といきなり結論を述べられています。しかし、これは、結論のように見えて、実は、「法華経の題目」も「標」「釈」「結」の三段に配した場合、迹門、本門、観心の三段に分けて考えなければ、ならないのです。この冒頭の疑問と回答によって、当時の色相荘厳の釈迦牟尼仏に捉われて本尊に迷っている浄顕房に対して、日蓮大聖人の説かれるところの仏法が末法における唯一の正法であり、また、その弘通される本尊は、法華経の肝心である「文底の事の一念三千」である事を、この御書で御教示されているのです。あわせて、浄顕房には、すでに、この御本尊を授与されているので、本抄の内容を理解すれば、日蓮大聖人の正意の本尊が、すでに授与されている曼荼羅である事は、明確であるのです。
そこで本章では、次に経釈を挙げて仏法においては、「人」ではなく「法」を中心にしなければならない事を示めし、法華経法師品の「仏舎利ではなく経巻を安置せよ」との文章や涅槃経における「法は諸仏の師である。法が常住である故に諸仏も常住である」との文章、さらに天台大師の法華三昧懺義の「法華三昧においては、法華経を安置し、形像舎利、並びに他の経巻を置いてはならない」との文章をひかれています。
この天台大師の「法華経を中心に安置せよ」との経釈によって、日蓮大聖人、御図顕の本尊が末法の衆生にとっての本尊であると同時に、釈尊を含む一切の諸仏が本尊としたものである事を明かされています。つまり「法華経の題目」たる本尊は、釈迦、多宝、十方の諸仏の本尊であり、これこそが法華経の行者の正意であるとされており、末法の本尊が日蓮大聖人が御図顕されている南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊である事をここで明かされているのです。
ここから、当時の日本国に存在していた十宗の本尊を挙げ、なぜ天台宗のみが法華経を本尊としており、その他の宗派が仏を本尊としているのかを問い、仏であっても経であっても最も勝れているものを本尊とすべきであるとされ、この意味から、仏法においては、一往は、八万法蔵の教主である釈尊を本尊とすべき事を述べられています。
そこで、仏教においては、釈尊を本尊とすべきであるとの結論を受けて、ではなぜ大聖人が「法華経の題目」を本尊とするのかとの問いに、その根拠として法華経が釈尊以下、十方の諸仏を出生させた「能生」の根源である事を示されています。ここから「能生を以て本尊とする」と話を展開されていくのです。
普賢経を依文として「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神〔たましい〕なり」と、すべての仏は、この法華経を悟って成道したのであり、法華経が能生であるとされているのです。
さらに、この能生の法である法華経の神〔たましい〕を盗み取った真言宗が法華経に限る開眼供養を奪っている現実をもって、当時の諸宗派を破折されています。
ここで日蓮大聖人が「能生の法」をもって本尊とすべきであると云う事に重大な意味があります。
日寛上人は「能生は即ちこれ種子の徳なり」と御教示されているように、「下種の妙法蓮華経」を示されているからなのです。それゆえに日寛上人は、本抄の「十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。」との文章について「文の中に法華経より出生し給えりというのは、即ち是れ下種の法華経・妙法蓮華経の五字なり」と仰せられているように、この意味から引用された元々の普賢経の二文を読むならば、これらの文章そのものが、久遠元初の三徳の具足の能生の徳を顕しているのです。つまり、日寛上人によれば「此の大乗経典」とは、「久遠元初の妙法」を指し示しており「仏の宝蔵」とは、すなわち主の徳、「十方三世の諸仏の眼目」とは、師の徳、「三世諸仏の如来を出生する種」とは、父母の徳をそれぞれ顕しているのです。そして、次の「方等経」以下の文では、久遠元初の妙法を指して「方等経」と述べ、「是れ諸仏の眼」は師の徳であり、この師にまた能生の徳が具わっているが故に、「諸仏は是に因って五眼を具することを得たまえり」と説かれているのであり、また「仏の三種の身は方等より生ず」とは、父母能生の徳であり、「是大宝印」とは、主の徳を顕しており、この主の徳に、また能生の徳が具わっているが故に「此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず」と説かれているのです。したがって、これらは、一体の三徳を顕しているのです。
さらに、現在の日本にある数十万の寺社は、すべて真言宗であると述べられ、その原因を明かされています。本来、法華経の神〔たましい〕を盗み取った真言宗を糾弾すべきはずの法華経を本尊とする天台宗が、比叡山の座主を始め真言師となってしまい、それによって、さらに各宗派、各寺院の高僧たちも、すべて真言師となってしまった為に、たまに法華経を読んだり、学んだりする人も心の中では、すべて真言師となってしまったのです。こうやって、日本国中の僧侶が、すべて真言師になってしまったのです。
そこで、本抄で真言破折として初めに「問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや」との疑問を呈〔てい〕されています。それは、当時の真言宗が外道である大日如来を描いた曼荼羅を本尊として拝ませ、民衆を騙して真言が最も勝れていると思わせ、それが常識となっていたのです。
それ故に、それを真っ向から否定し、法華経第一の義を唱えられた日蓮大聖人に、強い反発が起きたのは当然であったのです。日本において日蓮大聖人ただ御一人だけが、この義を説かれたのであり、その故に日蓮大聖人は、法華経に予言された数々の難を身をもって受けられたのです。これを逆に見るなら、日蓮大聖人は、身をもって法華経の予言が正しかった事を証明されたのであり、末法の法華経の行者は、日蓮大聖人以外にはないと云う事なのです。
ここから、日蓮大聖人が正像末の本尊を顕される未曾有の人である事を明かされていきます。
まず、日蓮大聖人御自身の出自を日本国の中でも辺境の安房の漁師の出身であると示されています。これは、過去の有名な仏教者が、すべて尊形であったのに対して、末法の御本仏が出尊形の仏である事を示されていると思われます。そして清澄寺からの修学の経緯を述べられ、そこで、どのように十宗の誤りを見抜かれたかを述べられています。
ここでは、亡国の現証として、源平合戦の時、平清盛が叡山の天台真言をもって源頼朝を調伏しようとして逆に平家一門も安徳帝も滅びたのを一回目の現証とし、承久の乱を二回目、そして今度の蒙古襲来は、三回目の現証になってしまう恐れがあるとされています。
もし、日蓮大聖人の言葉を用いずに真言による蒙古調伏を行うなら、法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているように、過去の現証通りに返って日本が滅びてしまうであろうと憂えられているのです。
最後に清澄寺での立宗の際に地頭の東条景信に襲われた時、浄顕房と義浄房の二人によって助けられた事をあげて、その恩を報いる為に「二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と云う釈迦滅後、正像末未曾有の御本尊を書き送った事を述べられ、本抄の結論として日蓮大聖人が冒頭に標示された「法華経の題目を以て本尊とすべし」と仰〔おお〕せの御本尊を御図顕する事が出来る末法の御本仏で有る事を明かされて終わられています。