日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


本尊問答抄 6 慈覚大師と智証大師


第五章 慈覚大師と智証大師

【又慈覚大師は下野国〔しもつけのくに〕の人、広智菩薩の弟子なり。】
また、慈覚大師は、下野の国の人で広智菩薩の弟子です。

【大同三年御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に登りて十五年の間、】
大同三年、十五歳の時に伝教大師の弟子となって比叡山に登り十五年の間、

【六宗を習ひ、法華・真言の二宗を習ひ伝へ、】
南都六宗の教義を習うと共に、天台法華宗、真言宗の二宗を学ばれました。

【承和五年御入唐、漢土の会昌〔かいしょう〕天子の御宇〔ぎょう〕なり。】
承和五年に唐に入りました。それは、中国の会昌天子の時代であり、

【法全〔はっせん〕・元政〔げんせい〕・義真〔ぎしん〕・】
法全、元政、義真、

【法月〔ほうげつ〕・宗叡〔しゅうえい〕・志遠〔しおん〕等の】
法月、宗叡、志遠などの

【天台・真言の碩学〔せきがく〕に値ひ奉りて、】
天台、真言の有名な学者たちに会って、

【顕密〔けんみつ〕の二道を習ひ極め給ふ。】
顕密の二道を習い極められたのです。

【其の上殊に真言の秘教は十年の間、功を尽くし給ふ。】
そのうえ、真言の秘教は、十年間にわたってその普及に尽くされました。

【大日如来よりは九代なり。】
慈覚大師は、大日如来より数えて九代目に当たるのです。

【嘉祥〔かじょう〕元年仁明天皇の御師なり。】
嘉祥元年に仁明天皇の師匠となり、

【仁寿〔にんじゅ〕・斉衡〔さいこう〕に金剛頂〔こんごうちょう〕経・】
仁寿、斉衡年間に金剛頂経、

【蘇悉地〔そしっじ〕経の二経の疏を造り、叡山に総持〔そうじ〕院を建立して、】
蘇悉地経の二経の解説書を著し比叡山に総持院を建立して、

【第三の座主となり給ふ。天台の真言これよりはじまる。】
天台宗第三代の座主となられたのです。天台宗の真言は、これより始まるのです。

【又智証大師は讃岐国〔さぬきのくに〕の人、天長四年御年十四、叡山に登り、】
また智証大師は、讃岐の国の人で、天長四年、御年十四歳にして比叡山に登り、

【義真和尚の御弟子となり給ふ。日本国にては】
義真和尚の弟子となられました。そして日本国において、

【義真・慈覚〔じかく〕・円澄〔えんちょう〕・別当〔べっとう〕等の】
天台宗座主の義真、慈覚、円澄などの

【諸徳に八宗を習ひ伝へ、】
優れた徳の者に八宗を習い伝えました。

【去ぬる仁寿元年に文徳〔もんとく〕天皇の勅を給ひて漢土に入り、】
去る仁寿元年に文徳天皇の命令によって中国に渡り、

【宣宗〔せんそう〕皇帝大中年中に法全・良諝〔りょうしょ〕和尚等の】
宣宗皇帝の大中年間に法全、良諝和尚などの

【諸大師に七年の間、顕密の二教を習ひ極め給ひて、】
諸大師に七年間、師事して顕密の二教を習い極め、

【去ぬる天安二年に御帰朝、文徳・清和〔せいわ〕等の皇帝の御師なり。】
天安二年に日本に帰られて、文徳、清和の皇帝の師匠となられました。

【何れも現の為当の為、】
このように三大師は、いずれも現世の為、未来の為に、

【月の如く日の如く、代々の明主・時々の臣民信仰余り有り、】
月のように太陽のように尊い方として代々の国主やその時代の国民から、

【帰依怠〔おこた〕り無し。故に愚癡〔ぐち〕の一切、】
あつく信仰され、帰依を受けたのです。それ故に一般の愚癡の人々は、

【偏〔ひとえ〕に信ずるばかりなり。】
皆、ただ、盲目的に信ずるばかりで、

【誠に依法不依人の金言を背かざるの外は】
「法に依つて人に依らざれ」の仏の言葉に背かないで、

【争〔いか〕でか仏に依らずして弘法等の人に依るべきや。】
どうやって、仏ではない弘法大師を信じる事が出来るでしょうか。

【所詮其の心如何。】
このことについて、いったいどのように考えれば良いのでしょうか。

【答ふ、夫〔それ〕教主釈尊の御入滅一千年の間、】
それは、教主釈尊の御入滅後一千年の間、

【月氏に仏法の弘通せし次第は、先五百年は小乗、】
インドに仏法が弘まって行った順序は、初めの五百年は、まず小乗が、

【後五百年は大乗、】
そして後半の五百年は、大乗が弘まって、

【小大・権実の諍〔あらそ〕ひはありしかども】
小乗と大乗、権教と実教のどちらが正しいかの論争があったのですが、

【顕密の定めはかす〔微〕かなりき。】
顕教と密教の区別については、ほとんど明確にされてなかったのです。

【像法に入りて十五年と申せしに漢土に仏法渡る。】
像法に入って十五年目という時に、中国に仏法が渡り、

【始めは儒道と釈教と諍論〔じょうろん〕して】
当初は、外道である儒教、道教と仏教である釈尊の教えとの論争が起こりましたが、

【定めがた〔難〕かりき。されども仏法やう〔漸〕やく弘通せしかば】
その優劣でさえ判定する事が困難でした。しかし、仏法が次第に弘まっていくと、

【小大・権実の諍論いできたる。】
ふたたび、小乗と大乗、権教と実教のどちらが正しいかの論争があったのです。

【されどもいた〔甚〕くの相違もなかりしに、漢土に仏法わたりて六百年、】
それでも大した進展もなく、仏法が中国に渡って六百年ほどして、

【玄宗皇帝の御宇に善無畏〔ぜんむい〕・金剛智〔こんごうち〕・】
玄宗皇帝の時代に、善無畏、金剛智、

【不空〔ふくう〕の三三蔵、月氏より入り給ひて後、】
不空の三人の三蔵法師がインドから唐に入って、

【真言宗を立てしかば、華厳・法華等の諸宗は以ての外にくだ〔下〕されき。】
真言宗を立ててからは、華厳宗、法華宗の諸宗はひどく貶〔おとし〕められ、

【上一人より下万民に至るまで】
上は、皇帝から、下は、民衆に至るまで、

【真言には法華経は雲泥〔うんでい〕なりと思ひしなり。】
優れた真言と劣った法華経とでは、雲泥の差があると思っていたのです。

【其の後徳宗〔とくそう〕皇帝の御宇に妙楽大師と申す人、】
その後、徳宗皇帝の時代に妙楽大師と云う人が現れて、

【真言は法華経にあなが〔強〕ちにをと〔劣〕りたりと】
真言は、法華経にはるかに劣ると、

【おぼ〔思〕しめ〔召〕ししかども、】
心で分かっておられたけれども、

【いたく立つる事もなかりしかば、】
その事について世間に向かって、はっきりと示す事がなかったので、

【法華・真言の勝劣を弁〔わきま〕へる人なし。】
法華、真言の優劣をきちんと理解する人は、いなかったのです。


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