御書研鑚の集い 御書研鑽資料
崇峻天皇御書 1 背景と大意
崇峻天皇御書(御書1170頁)
この御書は、建治3年(西暦1277年)9月11日、日蓮大聖人が56歳の時に身延より鎌倉長谷〔はせ)の四条金吾に与えられたもので御真筆については、日蓮宗身延山久遠寺の第11世法主日朝がまとめた「朝師本」に断片一〇紙の真蹟が残るのみです。
このころ、四条金吾の主君江間光時は、同年6月9日に起こった比叡山の学僧と竜象〔りゅうぞう〕房と大聖人の弟子三位房〔さんみぼう〕との鎌倉桑ケ谷〔くわがやつ〕での法論において、それに同座した四条金吾が徒党を組み、武装して乱入ののち、不当な手段をもって三位房を勝利に導いたとの讒言〔ざんげん〕によって、幕府に添〔そ〕い「日蓮及び法華経への信仰を止める」と云う起請文を提出するよう四条金吾に迫りました。
しかし、四条金吾は、これに対して所領の没収や勘当〔かんどう〕の責めを受けようとも、このような起請文を書く意志がないことを伝えるとともに、大聖人様に御報告したのです。
この知らせに大聖人は、四条金吾に代わって同年6月25日に「頼基陳状」(御書1126頁)を認〔したた〕められ、提出に当たっての注意として同年7月「為法華経不可惜所領事」(御書1161頁)などを書き送られました。
四条金吾が明確に断ると主君江間氏より、蟄居〔ちっきょ〕を命ぜられましたが、その二ヵ月後の九月、疫病流行により、その江間氏も病に侵され、四条金吾は、その治療に当たることになったのです。
その為、この御書では、主君への治療についての諸注意が記されています。
はじめに御供養への謝意を述べられ、次いで江間氏の病気を歎かれ、四条金吾の法華経を供養する功徳は、めぐって江間氏の病気平癒(へいゆ)の祈りとなることを御教示せられ、これを内薫〔ないくん)外護〔げご)の法門として示されます。
次に、法華信仰を反対した江間氏や同僚たちが病魔に倒れたのは、信心堅固な金吾に対する十羅刹〔じゅうらせつ)の加護であることを示されています。
しかし、それに迂闊に乗じて調子に乗ると、その加護も無駄になってしまうことを諭され、障魔に乗ぜられることのないように御注意されています。
特に四条金吾の気短かな性格を熟知される大聖人は、その身を案じられ、出仕の際の心構えや言葉遣い、態度や服装など事細かに御教示せられ、仇敵〔きゅうてき〕の迫害に対する細心の注意を喚起されています。さらに竜の口の法難を回顧〔かいこ〕せられて、四条金吾が地獄に堕ちるならば、日蓮も地獄なるべしとまで仰せられているのです。
次に、意に違〔たが〕うことがあっても言動を慎〔つつし〕むとともに心の財を積むことを勧められ、崇峻〔すしゅん〕天皇の故事を引かれて道理の上から言葉が身を破る事例を示されています。
最後に世の中の賢人とも聖人とも言われる孔子〔こうし〕や周公旦〔しゅうこうたん〕の振る舞いと不軽〔ふきょう〕菩薩の姿によって「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候」と仏法の要諦を説かれて本抄を結ばれています。
このように日蓮大聖人の仏法を実践する者は、その身は、いかに賤〔いや〕しくとも、また社会から、いかに誤解を受けて迫害されていようとも、必ず、その内から、人間としての魅力が外に放たれるという、法華経供養の意義を讃嘆した内薫外護の法門があります。「内薫」とは、内に薫〔かお〕ると云う意味で、結果、過去の謗法罪障消滅によって、仏法、菩薩、諸天、十羅刹などの様々の外護が、その人の周囲からの支援となって形になって顕れる事を示されています。
それが主君の江間氏の病気やその快復などの姿であるとされているのです。しかし、これも、ひとたび自分の慢心や軽率な言葉や態度となってしまうと、崇峻天皇の故事に習うように身を滅ぼしてしまう事も示されています。
四条金吾の実直で豪毅な性格であればこそ、不惜身命の信心が貫〔つらぬ〕かれているのですが、それも間違ってしまえば、短気で人に厳しく、妥協できない性分となってしまいます。
法華経不軽品には「我深く汝等〔なんだち〕を敬ふ」、また涅槃経には、「一切衆生に悉〔ことごと〕く仏性が有り」 と説かれています。
末法に於いては、日蓮大聖人、日興上人を始めとして歴代上人、また日如猊下を始め、日蓮正宗の御僧侶を深く敬い、日蓮正宗の講員の方々を敬う事がこれにあたります。また、広くは、これらの人々を支えるすべてのものにも悉〔ことごと〕く仏性が有るのです。しかし、だからと言って三位房、四条金吾が行った謗法を主張する竜象房との鎌倉桑ケ谷での法論が間違っているわけでも、主君である江間光時の起請文、提出命令に背くことが間違っているわけでもありません。
あくまでも「我深く汝等〔なんだち〕を敬ふ」とは、正法護持の人々であり、「一切衆生に悉く仏性が有り」とは、日如猊下とともに三大秘法の大御本尊に南無妙法蓮華経と唱える衆生を言うのです。これがまさに内薫外護の法門であり、これらの方々には、人の振る舞いとして、お互いに尊び合い、励まし、誡〔いまし〕め、慎〔つつし〕み合っていかなければなりません。
また、蔵の財、身の財、心の財と云う三つの宝がありますが、蔵の財とは、社会的地位や財産、人間関係などの財です。しかし、これら、蔵の財よりも身の財が優れています。身の財の第一は、健康です。また、眼や耳などの感覚や知識、行動力なのです。いくら財産があっても、まったく動けない身体や何も感じない何も考えられないでは、意味がありません。日々、勤行、題目を唱え、日蓮正宗の寺院へ参詣できることこそ、身の財と言えます。しかし、それ以上に心の財を求めるべきなのです。心の財とは、三大秘法の大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることであるのです。この本門戒壇の大御本尊への絶対の確信と、血脈付法の御法主上人猊下への信伏随従こそ心の財なのです。
そして、この心の財があって、身の財、蔵の財も生きてくると云う教えが、真実の内薫外護の法門と言えるのです。