御書研鑚の集い 御書研鑽資料
開目抄 4 二乗作仏について
【此に予愚見をもって前四十余年と】
ここで私の愚見によって法華経以前の四十余年の間の教えと
【後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、】
その後の法華経八年の教えとの相違を考えてみると、その相違は多いとは言っても、
【先ず世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は】
まず世間の学者も納得し、自らもそうだと思うことは、
【二乗作仏〔さぶつ〕・久遠実成〔くおんじつじょう〕なるべし。】
二乗作仏と久遠実成なのです。
【法華経の現文を拝見するに、舎利弗〔しゃりほつ〕は】
法華経の現文を読むと二乗の代表である舎利弗は、
【華光〔けこう〕如来、迦葉〔かしょう〕は光明〔こうみょう〕如来、】
華光如来、迦葉は光明如来、
【須菩提〔しゅぼだい〕は名相〔みょうそう〕如来、】
須菩提は名相如来、
【迦旃延〔かせんねん〕は閻浮那提金光〔えんぶなだいこんこう〕如来、】
迦旃延は閻浮那提金光如来、
【目連〔もくれん〕は多摩羅跋栴檀香仏〔たまらばつせんだんこうぶつ〕、】
目連は多摩羅跋栴檀香仏、
【富楼那〔ふるな〕は法明如来、】
富楼那は法明如来、
【阿難〔あなん〕は山海慧自在通王仏〔せんかいえじざいつうおうぶつ〕、】
阿難は山海慧自在通王仏、
【羅喉羅〔らごら〕は蹈七宝華〔とうしっぽうけ〕如来、】
羅喉羅は蹈七宝華如来、
【五百・七百は普明〔ふみょう〕如来、】
千二百人の阿羅漢は普明如来、迷いや惑いを断じ尽くしていない者(学)、
【学無学二千人は宝相如来、】
迷いや惑いを断じ尽くしている者(無学)、二千人は宝相如来、
【摩訶波闍波提比丘尼〔まかはじゃはだいびくに〕・】
摩訶波闍波提比丘尼と
【耶輸多羅比丘尼〔やしゅだらびくに〕等は】
耶輸多羅比丘尼等は、
【一切衆生喜見如来・具足〔ぐそく〕千万光相如来等なり。】
それぞれ一切衆生喜見如来・具足千万光相如来という仏になるとされています。
【此等の人々は法華経を】
これらの人々は、このように法華経を
【拝見したてまつるには尊きやうなれども、】
読むと尊い人のようであるようであるけれども、
【爾前〔にぜん〕の経々を披見の時はけを〔興〕さむる事どもをほし。】
爾前の経々を開いて読むと決してそうでは、ありませんでした。
【其の故は仏世尊は実語の人なり、】
それは、仏が法華経において真実を語っているからなのです。
【故に聖人・大人と号す。】
ですから仏を、聖人また大人と称え尊ぶのです。
【外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは】
外典の中で外道の賢人や聖人または仙人などと称せられる人々は、
【実語につけたる名なるべし。】
その外典の内容が嘘でないから、このように称せられているのでしょう。
【此等の人々に勝れて】
これらの人々の中においても、もっとも勝れているので
【第一なる故に世尊をば大人とは申すぞかし。】
釈迦牟尼世尊を大人と申し上げるのです。
【此の大人「唯〔ただ〕一大事〔いちだいじ〕の因縁を以ての故に】
この釈迦牟尼世尊が「ただ一大事の因縁によって
【世に出現したまふ」となのらせ給ひて】
この世に出現せられたのです。」と法華経方便品に書かれていて
【「未だ真実を顕はさず」】
「法華経以前の四十余年の間には、未だ真実をあらわしてはいない。」
【「世尊は法久しくして後要〔かなら〕ず当〔まさ〕に真実を説くべし」】
「仏は、今から真実を語られるであろう。」
【「正直に方便を捨て」等云云。】
「正直に法華経以前の方便の教えを捨てよ」と法華経の中で言われているのです。
【多宝仏証明を加へ、】
これに対し多宝仏は「釈迦牟尼仏のこれらの言葉はすべて真実である」と言って、
【分身舌を出だす等は、】
また分身の諸仏もまた真実であると証明しているのですから、
【舎利弗が未来の華光如来、】
舎利弗が未来に華光如来となり、
【迦葉が光明如来等の説をば誰の人か疑網〔ぎもう〕をなすべき。】
迦葉が光明如来となることを誰が疑うのでしょうか。
【而れども爾前の諸経も又仏陀〔ぶっだ〕の実語なり。】
しかしながら、爾前の多くの経もまた仏の真実の言葉であるのです。
【大方広仏華厳経に云はく】
大方広仏華厳経は、このように書いてあります。
【「如来の智慧大薬王樹は、唯二処に於て】
「如来の智慧を大きな薬の樹に譬えると、この樹は、ただ二ヶ所のみ、
【生長の利益を為作〔な〕すこと能〔あた〕はず。】
生える事が出来ず、そこでは、植えても何の意味もありません。
【所謂〔いわゆる〕二乗の無為〔むい〕】
その二ヶ所とは、一つは、二乗の事であって、二乗は、
【広大の深坑〔じんこう〕に堕〔お〕つると、】
出て来ることが出来ない深い迷路に入ってしまっているのと同じであり、
【及び善根を壊〔やぶ〕る非器の衆生の】
また、もう一つは、仏法を破壊し正しい法を受け持つ事が出来ない謗法の者は、
【大邪見貪愛の水に溺〔おぼ〕るゝとなり」等云云。】
大邪見、貪愛の水に溺れる。」と言われているのです。
【此の経文の心は雪山〔せっせん〕に大樹あり、】
この経文の意味は、こういうことなのです。雪山と言うところにこの大樹があり、
【無尽根となづく。此を大薬王樹と号す。】
その根が尽きる事がないので、これを大薬王樹と言うのです。
【閻浮提〔えんぶだい〕の諸木の中の大王なり。】
この樹は、世界の木の中の最高のものなのです。
【此の木の高さは十六万八千由旬なり。】
この木の高さは、十六万八千由旬(1由旬は40里)もあるのです。
【一閻浮提の一切の草木は此の木の根ざし】
世界の全ての草木は、この木の根によって
【枝葉華菓〔けか〕の次第に随って、華菓な〔成〕るなるべし。】
枝や葉や華また菓が出来ているのであって、その結果、華や菓がなるのです。
【此の木をば仏の仏性に譬へたり。】
この木を仏の仏性にたとえられ、
【一切衆生をば一切の草木にたとう。】
一切の衆生をすべての草木に譬えられているのです。
【但し此の大樹は火坑と水輪の中に生長せず、】
ただし、この大樹は、火の孔と渦巻きの中では生長しないのです。
【二乗の心中をば火坑にたとえ、】
二乗の心を火の孔にたとえ、
【一闡提〔いっせんだい〕人の心中をば水輪にたとえたり。】
一闡提人の心を渦巻きに譬えているのです。
【此の二類は永く仏になるべからずと申す経文なり。】
この二乗と一闡提は永久に成仏することが出来ないという事が経文の意味なのです。
【大集経に云はく】
大集経には、このように書かれています。
【「二種の人有り。必ず死して活〔い〕きず、】
「二種類の人がいます。必ず死んで生きる事がありません。
【畢竟〔ひっきょう〕して恩を知り恩を報ずること能はず。】
その結果、恩を知り、恩を報ずる事が出来ないのです。
【一には声聞、二には縁覚なり。】
それは、一には声聞であり、二には縁覚なのです。
【譬へば人有りて深坑に墜堕〔ついだ〕せん。】
たとえば人がいて、深い孔に迷い込んだとします。
【是の人自ら利し他を利すること】
この人は、この迷路から抜け出せずに自分を助ける事はおろか他人を
【能はざるが如く、声聞縁覚も亦復是くの如し。】
助ける事など不可能でしょう。このように声聞や縁覚もまた同じなのです。
【解脱の坑〔あな〕に堕ちて自ら利し】
いくら迷路からの脱出を試みても再び孔に堕ちてしまい、
【及以〔および〕他を利すること能はず」等云云。】
自分も他人も救う事が出来ない。」と書かれているのです。
【外典三千余巻の所詮に二つあり。】
外典三千余巻の教えの中で根本になるべき教えが二つあります。
【所謂〔いわゆる〕孝と忠となり。忠も又孝の家よりいでたり。】
それは、孝行と忠義の二つです。忠義と言うものも、また孝行より出るのです。
【孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。】
孝と言う事は高であり、空は高いといっても孝よりも高くありません。
【又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。】
また孝は厚であります。地面は、厚いけれども、孝より厚くありません。
【聖賢の二類は孝の家よりいでたり。】
聖人や賢人と言われる二種類の人もまた孝行より出ているのです。
【何に況んや仏法を学せん人、】
まして仏法を学んでいる者が
【知恩報恩なかるべしや。】
恩を知り恩に報いる事が出来ないなどと言う事があるでしょうか。
【仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし。】
仏の弟子は、必ず数々の恩を知って知恩報恩の誠をいたすべきです。
【其の上舎利弗〔しゃりほつ〕・迦葉〔かしょう〕等の】
それなのに舎利弗や迦葉などの
【二乗は二百五十戒・三千の威儀持整〔じせい〕して、】
二乗は、二百五十の戒律を守り、三千の威儀を持ち整えて、
【味・浄・無漏〔むろ〕の三静慮〔さんじょうりょ〕、】
数々の誘惑を断ち切って修行にまい進し、
【阿含〔あごん〕経をきわめ、三界の見思〔けんじ〕を尽くせり。】
阿含経をきわめて三界の見惑、思惑を断じ尽したのです。、
【知恩報恩の人の手本なるべし。】
そうであるならば当然、知恩、報恩の手本であるべきでしょう。
【然るを不知恩の人なりと世尊定め給ひぬ。】
それなのに二乗を不知恩の者であると釈迦牟尼世尊は、決めつけられているのです。
【其の故は父母の家を出でて出家の身となるは】
その理由は、父母がいる家を出て出家の身となるのは、
【必ず父母をすくはんがためなり。】
その事によって父母を救わんが為なのです。
【二乗は自身は解脱〔げだつ〕とをもえども、】
それにもかかわらず二乗は、自分自身は、解脱したと思うけれども、
【利他の行〔ぎょう〕かけぬ。設〔たと〕ひ分々の利他ありといえども、】
他の者を解脱させられないので、たとえ少し他人への利益があるとは言っても
【父母等を永〔よう〕不成仏の道に入るれば、】
結局は、父母等を永く成仏させる事が出来ないので二乗の道に入れてしまえば、
【かへりて不知恩の者となる。維摩経〔ゆいまきょう〕に云はく】
かえって不知恩の者となるのです。維摩経にこのように言われています。
【「維摩詰〔ゆいまきつ〕又文殊師利〔もんじゅしり〕に問ふ、】
「維摩詰が文殊師利に問いかけました。
【何等をか如来の種と為す。答へて曰く、】
何をもって如来の種とするのですかと。文殊師利がそれに答えました。
【一切塵労〔じんろう〕の疇〔ともがら〕は如来の種と為る。】
すべての貧、瞋、癡の三毒(塵労)に犯されている衆生が仏の種となるのです。
【五無間を以て具すと雖も猶能〔よ〕く】
なぜならば、五逆罪を犯し無間地獄に堕ちた者も、
【此の大道意を発〔お〕こす」等云云。】
仏法を求める心が起きる事があるからです。」と言われています。
【又云はく「譬へば族姓〔ぞくしょう〕の子、】
また、このようにも言われています。「紳士諸君、
【高原陸土には青蓮芙蓉衡華〔しょうれんふようこうけ〕を生ぜず、】
高原の高い陸地には青い蓮華が生える事はないでしょう。
【卑湿汚田〔ひしゅうおでん〕に乃〔すなわ〕ち】
低く湿った汚田に、
【此の華を生ずるが如し」等云云。】
この蓮華は生えるのです。」と書いてあります。
【又云はく「已に阿羅漢〔あらかん〕を得て応真〔おうしん〕と為る者は、】
また、このようにも言われています。「すでに阿羅漢となって、声聞を得た者は、
【終〔つい〕に復道意を起こして仏法を具すること能〔あた〕はざるなり。】
さらに仏法を学ぼうとしても仏法に巡り逢う事は出来ません。
【根敗の士〔ひと〕其の五楽に於て】
それは、灰身滅智した声聞には、眼、耳、鼻、舌、身がないので、
【復利すること能はざるが如し」等云云。】
それから得られる情報がまったくないからなのです。」と言われています。
【文の心は貪〔とん〕・瞋〔じん〕・癡〔ち〕等の三毒は仏の種となるべし、】
この文章の意味は、貪、瞋、癡の三毒は、仏の種となるのです。
【殺父〔しぶ〕等の五逆罪は仏種となるべし、】
父を殺すなどの五逆罪も仏の種となるのです。
【高原陸土には青蓮華生ずべし、二乗は仏になるべからず。】
高原の陸地には、青蓮華が生じないのです。ですから二乗は、仏になれないのです。
【いう心は、二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに、】
この言葉の意味は、二乗の善と凡夫の悪とを相対してみると
【凡夫の悪は仏になるとも、二乗の善は仏にならじとなり。】
凡夫の悪は仏になる原因になっても二乗の善では仏になれないという意味なのです。
【諸の小乗経には、悪をいましめ善をほむ。】
多くの小乗経では、悪を戒めて善を褒めました。
【此の経には二乗の善をそしり、凡夫の悪をほめたり。】
しかし、この経では、二乗の善をそしり、凡夫の悪を褒めています。
【かへって仏経ともおぼへず、】
これでは、とても仏の言われている事とも思われません。
【外道の法門のやうなれども、】
しかし外道が言う矛盾に満ちた言葉であるように思えますが、
【詮ずるところは、二乗の永不成仏をつよく定めさせ給ふにや。】
結局は二乗が永遠に仏になれない事を強く言われたいのでしょう。
【方等陀羅尼〔ほうどうだらに〕経に云はく】
方等陀羅尼経にこのように言われています。
【「文殊〔もんじゅ〕、舎利弗に語らく、】
「文殊師利菩薩が舎利弗に言うのに、
【猶〔なお〕枯樹〔こじゅ〕の如き更に華を生ずるや不〔いな〕や。】
枯れ木に、もう一度花が咲くかどうか、
【亦山水の如き本処に還るや不や。】
また山から流れ出る水がふたたび、元の山に戻るかどうか、
【折石〔しゃくせき〕還〔かえ〕って合ふや不や。】
破れた石が元のように一つになる事が出来るかどうか、
【焦種〔しょうしゅ〕芽を生ずるや不や。】
また火で煎った種がふたたび芽を出すかどうか。
【舎利弗の言はく、不なり。】
舎利弗は、すべて、そのようにはならないと答えました。
【文殊の言はく、若し得べからずんば云何〔いかん〕ぞ、】
それを聞いて文殊が言いました。もし、そのような事がないのなら、
【我に菩提〔ぼだい〕の記〔き〕を得んやと問うて、】
どうして私に、二乗が仏に成る事が出来ると思って、
【心に歓喜を生ずるや」等云云。】
それを質問するのか。」と書いてあります。
【文の心は、枯れたる木、華さかず、】
この文章の意味は、枯れたる木には花が咲かない。
【山水、山にかへらず、】
山の水は、ふたたび山に帰らない。
【破〔わ〕れたる石あはず、いれる種を〔生〕いず、】
破れた石は、ふたたび元に戻らない。煎れる種は、もう芽が出ない。
【二乗またかくのごとし。仏種をいれり等となん。】
二乗もまた、このように仏になる種を焼き尽くしてしまっていると言う事なのです。
【大品般若〔だいぼんはんにゃ〕経に云はく】
大品般若経には、このように書かれています。
【「諸の天子、今未だ三菩提〔ぼだい〕心を】
「天界の皆さん、未だ仏の悟りを求める気持ちが
【発〔お〕こさゞる者は応〔まさ〕に発こすべし。】
ないのならそれを起こしなさい。
【若し声聞の正位に入れば是の人能く三菩提心を発こさゞるなり。】
もし、煩悩を断じ尽くした声聞であるならば、その心が起きようがないのです。
【何を以ての故に。】
なぜかというと見思惑を断じ尽してしまうと
【生死の為に障隔〔しょうきゃく〕を】
三界に生まれて来ることが出来ないので、
【作〔な〕す故」等云云。】
さらにその上の法を求める事が出来ない。」と書かれています。
【文の心は二乗は菩提心〔しん〕を】
この文章の意味は、二乗は、さらなる上を
【をこさざれば我随喜せじ、】
目指す事が出来ないので仏は喜ばないのです。
【諸天は菩提心ををこせば我随喜せん。】
諸天は、さらなる上を目指す心を起こすことが出来るから仏は喜ばれるのです。
【首楞厳経〔しゅりょうごんきょう〕に云はく】
首楞厳経にこのように書かれています。
【「五逆罪の人、是の首楞厳三昧を聞いて、】
「五逆罪の人であっても仏法の浅深を聞いて
【阿耨〔あのく〕菩提心を発こせば、還〔かえ〕って仏と作るを得、】
その最高のものを求めれば、かえってその罪によって仏となる事が出来るのです。
【世尊、漏尽〔ろじん〕の阿羅漢〔あらかん〕は、】
世尊は、完璧な阿羅漢は、
【猶〔なお〕破器〔はき〕の如く、】
破れた器が水を漏らすように
【永く是の三昧を受くるに堪忍〔かんにん〕せず」等云云。】
最も尊い仏法を持つことが出来ない。」と言われています。
【浄名経に云はく】
浄名経には、このように言われています。
【「其れ汝に施す者は福田と名づけず。】
「二乗に布施を施す者は、良い田とは言いません。
【汝を供養する者は三悪道に堕〔だ〕す」等云云。】
二乗に供養する者は三悪道に堕ちることでしょう。」と書かれています。
【文の心は迦葉〔かしょう〕・】
この文章の意味は、迦葉、
【舎利弗〔しゃりほつ〕等の聖僧を供養せん人天等は、】
舎利弗などの聖僧を供養する人界、天界の者は、
【必ず三悪道に堕つべしとなり。】
必ず三悪道に堕ちてしまうと言う事なのです。
【此等の聖僧は、仏陀〔ぶっだ〕を除きたてまつりては】
これらの聖僧たちは、仏を除いては、
【人天の眼目、一切衆生の導師とこそをもひしに、】
人界や天界の中心人物であり、一切衆生の導師であると思っていたのに、
【幾許〔いくばく〕の人天大会の中にして、】
多くの人界や天界の会合の中で、
【かう度々仰せられしは、本意なかりし事なり。】
このように度々言われるのは、まことに心外な事です。
【只詮ずるところは、我が御弟子を責めころさんとにや。】
ただ、仏は、自分の弟子が憎くて責め殺そうとされているのでしょうか。
【此の外、牛驢〔ごろ〕の二乳、瓦器金器〔がきこんき〕、】
この外にも驢馬と牛の乳の違いや瓦器と金器の違い、
【螢火日光等の無量の譬へをとって、二乗を呵嘖〔かしゃく〕せさせ給ひき。】
螢火と日光の違いなどの多くの譬えで二乗を責められました。
【一言二言ならず、一日二日ならず、一月二月ならず、】
それは、一言や二言ではない。一日や二日ではない。
【一年二年ならず、一経二経ならず、】
一月や二月ではない。一年や二年ではない。一経や二経でないのです。
【四十余年が間無量無辺の経々に、】
四十余年もの間、多くの数々の経によって、
【無量の大会の諸人に対して、】
また多くの大きな会合に集まった人々に対して、
【一言もゆるし給ふ事もなくそしり給ひしかば、】
一言も許す事もなく、二乗を謗り続けたのです。
【世尊の不妄語〔ふもうご〕なり。我もしる人もしる、天もしる地もしる。】
世尊はけっして嘘を言わない事は、誰でも知っています。
【一人二人ならず百千万人、】
それにも関わらず一人や二人に限らず、百千万人の
【三界の諸天・竜神・阿修羅〔あしゅら〕・五天・四洲・六欲・色・無色・】
三界のすべての人々、
【十方世界より雲集〔うんじゅう〕せる】
また、各地から集まった
【人天・二乗・大菩薩等、皆これをしる、又皆これをきく。】
人々は、みんな、これを聞きました。
【各々国々へ還〔かえ〕って、】
そしてそれぞれの国土に帰って
【娑婆〔しゃば〕世界の釈尊の説法を彼々の国々にして一々にかたるに、】
娑婆世界の釈尊の説法をそれぞれの国土で人々に語ったでしょうから、
【十方無辺の世界の一切衆生、一人もなく、】
あちらこちらの多くの世界のすべての衆生は、一人も残らず
【迦葉・舎利弗等は永〔よう〕不成仏の者、】
迦葉や舎利弗など声聞は、成仏しない者であり
【供養してはあ〔悪〕しかりぬべしとしりぬ。】
供養してはならないと知ったのです。
【而るを後八年の法華経に忽〔たちま〕ちに悔〔く〕い還〔かえ〕して、】
このように法華経以前の大乗経においては、
【二乗作仏すべしと、】
二乗は絶対に成仏できないと説き続けて来たのに、
【仏陀〔ぶっだ〕とかせ給はんに、】
その後の八年間の法華経の説法で二乗が仏になる事が出来ると言われて、
【人天大会、信仰をなすべしや。】
どうして人界や天界の者が信仰など出来るでしょうか。
【用ゆべからざる上、】
そのような説法そのものを信用できない上に、
【先後の経々に疑網〔ぎもう〕をなし、】
前と後の仏の説がまったく違っていることから疑いを生じて、
【五十余年の説教皆虚妄〔こもう〕の説となりなん。】
一代五十余年の説教もすべて虚構の説となってしまうでしょう。
【されば四十余年未顕真実〔みけんしんじつ〕等の経文はあらませしが、】
そう言う事で「四十余年には未だ真実をあらわさず」と説法があったのです。
【天魔の仏陀と現じて、】
しかし多くの人々は、天魔が仏の姿をして
【後八年の経をばとかせ給ふかと疑網するところに、げ〔実〕にげにしげに】
法華経を説き出したのではないかと疑っているところに、さも本当らしく、
【劫国〔こうこく〕名号〔みょうごう〕と申して、二乗成仏の国をさだめ、】
劫国名号と言って二乗が成仏するその国土を教え、
【劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給へば、】
その成仏するまでの時間を教え、さらにその弟子まで定められたので、
【教主釈尊の御語〔ことば〕すでに二言になりぬ。】
教主釈尊の言葉は、まったく矛盾している。
【自語相違と申すはこれなり。】
まさに「自語相違」と言うのは、このことであると言い出したのです。
【外道が仏陀を】
外道の者達が、釈迦は、二乗が仏にならないと説き、また仏になると説く、
【大妄語の者と咲〔わら〕ひしことこれなり。】
大嘘つきであると笑ったのは、この事なのです。
【人天大会】
このような状態で、法華経の説法を聞く大衆が、
【けを〔興〕さめてありし程に、爾〔そ〕の時に東方宝浄世界の多宝如来、】
まさに興冷めている時に東方の宝浄世界から多宝如来が、
【高さ五百由旬〔ゆじゅん〕、広さ二百五十由旬の】
高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の
【大七宝〔しっぽう〕塔に乗じて、】
大七宝塔に乗ってやって来たのです。
【教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて、】
釈迦牟尼世尊が人界、天界の大会において自語相違を責められ、
【との〔左宣〕べかうの〔右宣〕べ、さまざまに宣べさせ給ひしかども、】
それを、ああ言い、こう言って、あれこれと説明されても、
【不審猶〔なお〕は〔晴〕るべしとも見へず、】
人々の不審はなお晴れそうもなかったのですが、
【も〔持〕てあつか〔扱〕いてをはせし時、】
その人々を持て余している時に、突然、釈迦牟尼仏の前にその宝塔が、
【仏前に大地より涌現〔ゆげん〕して虚空〔こくう〕にのぼり給ふ。】
大地より現れて大空に向かって立ち上がりました。
【例せば、暗夜に満月の東山より出づるがごとし。】
たとえば、それは、闇夜に満月が東山より出て来たような感じでした。
【七宝の塔大虚〔おおぞら〕にかゝらせ給ひて、】
この七宝の塔は、
【大地にもつかず、大虚にも付かせ給わず。】
大地にも大空にもつかずに空中に浮かび上がって停止しました。
【天中に懸〔か〕かりて、宝塔の中より】
その空中にとどまった宝塔の中から、
【梵音声〔ぼんのんじょう〕を出〔い〕だして証明して云はく】
釈迦牟尼世尊の言葉を証明する大きな声が聞こえて来たのです。
【「爾〔そ〕の時に宝塔の中より大音声〔おんじょう〕を出だして】
「その時、宝塔の中より大音声が聞こえて来ました。
【歎〔ほ〕めて言はく、善〔よ〕きかな善きかな、釈迦牟尼〔むに〕世尊、】
素晴らしい。素晴らしい。釈迦牟尼世尊よ。
【能く平等大慧・教菩薩法、】
よく、すべての人々を救う大きな智慧、真実の菩薩に教える法、
【仏所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたまふ。】
仏が念じて護持するところである妙法華経を、ここにいる大衆の為に説かれました。
【是くの如し是くの如し。】
まさにこの通りです。
【釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是真実なり」等云云。】
釈迦牟尼世尊の説くところは、すべて真実である。」と述べたのです。
【又云はく「爾の時に世尊、文殊師利等の、】
また法華経の神力品において「その時に釈迦牟尼世尊は文殊師利などの
【無量百千万億・旧住娑婆〔くじゅうしゃば〕世界の菩薩、】
数多くの菩薩達、娑婆世界に昔から住んでいる菩薩、
【乃至人非人等の一切の衆の前に於て、】
そして人や天、竜、八部などの人でない者など、すべての衆生の前で
【大神力を現じたまふ。】
大神力を現じたのです。
【広長舌を出だして、上梵世〔かみぼんせ〕に至らしめ、】
その弁舌は、梵天の上にまで至らしめて、
【一切の毛孔より、乃至十方世界、】
すべての毛孔より無量無数色の光を放って十方世界を照らしたのです。
【衆〔もろもろ〕の宝樹の下の、師子の座の上の諸仏も、】
多くの宝の樹の下の師子座にいる多くの諸仏も、
【亦復是くの如く、広長舌を出だし無量の光を放ちたまふ」等云云。】
またこのように弁舌をふるい無量の光を放たれたのです。」と書かれています。
【又云はく】
また法華経の嘱累品には、このように証明をされました。
【「十方より来たりたまへる諸の分身の仏をして、】
「十方より来られた多くの分身の仏は、
【各〔おのおの〕本土に還〔かえ〕らしめ、】
おのおの国土に帰られて、
【乃至多宝仏の塔、還〔かえ〕って故〔もと〕の如くしたまふべし」等云云。】
また多宝仏も塔と共に帰ってしまい、元のようになりました。」と書かれています。
【大覚世尊初成道の時、諸仏十方に現じて】
釈迦牟尼仏が初めに成道した時には、十方から仏が現れて、
【釈尊を慰喩〔いゆ〕し給ふ上、諸の大菩薩を遣はしき。】
釈迦牟尼仏をいたわられ多くの大菩薩を遣わされました。
【般若経の御時は、釈尊長舌を三千にをほひ、】
般若経の説法の時には、釈迦牟尼仏が三千の弁舌で持ってそれを真実と証明し、
【千仏十方に現じ給ふ。】
千仏が十方から現れたと書かれています。
【金光明経には、四方の四仏現ぜり。】
金光明経には、四方から四人の仏が現われ、
【阿弥陀経には六方の諸仏、舌を三千にをゝう。】
阿弥陀経には六方の仏が三千の弁舌をふるわれたと書かれています。
【大集経には、十方の諸仏菩薩大宝坊にあつまれり。】
大集経には、十方の仏や菩薩が大宝坊に集まられたと書かれています。
【此等を法華経に引き合はせてかんがうるに、】
この儀式を法華経に引き合わせて考えてみると、
【黄石〔こうせき〕と黄金と、白雲と白山と、】
ただの黄色い石と黄金と、また白い雲と白い山と、
【白氷〔はくひょう〕と銀鏡〔ごんきょう〕と、】
また池に張った白い氷と銀の鏡と、
【黒色と青色とをば、翳眼〔えいげん〕の者・眇目〔みょうもく〕の者・】
黒色と青色とを、眼がかすんでいたり、焦点があわなかったり、
【一眼の者・邪眼の者は見たがへつべし。】
片方しか見えなかったり、邪な心で見る者には間違って見える事と同じでしょう。
【華厳経には、先後の経なければ仏語相違なし。】
華厳経を最初に説かれた時は、それがはじめての説法であったので
【なににつけてか大疑いで来〔く〕べき。】
疑いが出て来る事はありませんでした。
【大集経・大品経・金光明経・阿弥陀経等は、】
大集経、大品経、金光明経、阿弥陀経などは、
【諸小乗経の二乗を弾呵〔だんか〕せんがために】
小乗経の二乗を責める為にこのような相違があります。
【十方に浄土をとき、凡夫・菩薩を欣慕〔ごんぼ〕せしめ、】
つまり釈迦牟尼世尊は、十方の浄土を説いて、凡夫や菩薩を喜び慕わせて、
【二乗をわづら〔煩〕わす。】
十方にただ一仏しかいないと説く二乗を困らせたのです。
【小乗経と諸大乗経と一分の相違あるゆへに、】
小乗経と諸大乗経とは、このように相違がある故に、
【或は十方に仏現じ給ひ、或は十方より大菩薩をつかわし、】
あるいは、華厳経では十方に仏を現し、あるいは十方から大菩薩を呼んで法を説き、
【或は十方世界にも此の経をとくよし〔由〕をしめし、】
あるいは華厳経、般若経などに十方世界でも同じくこの経を説くと示して、
【或は十方より諸仏あつまり給ふ。】
あるいは大集経のように十方より諸仏集まると言い、
【或は釈尊、舌を三千におお〔覆〕い、】
あるいは般若経において釈迦牟尼世尊が三千の弁舌をふるい、
【或は諸仏の舌をい〔出〕だすよしをとかせ給ふ。】
あるいは阿弥陀経において諸仏がそれを証明されたと説かせられたのです。
【此ひとえに諸小乗経の十方世界唯有〔ゆいう〕一仏と】
これは、ひとえに小乗経の十方世界に唯一仏ありと
【とかせ給ひしをもひをやぶるなるべし。】
説かれた二乗の考え方を破られているのです。
【法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違出来して、】
しかし、これも法華経のように法華経以前の多くの大乗経と根本的な相違が出来て、
【舎利弗〔しゃりほつ〕等の諸の声聞・大菩薩・人天等に】
舎利弗などの声聞および大菩薩、人天などに、
【将非魔作仏〔しょうひまさぶつ〕とをもわれさせ給ふ大事にはあらず。】
魔が仏となったのではないかと思われさせるような大きな変化ではありません。
【而るを華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼の輩、】
しかし、華厳、法相、三論、真言、念仏などの智慧の眼が霞んでしまっている者は、
【彼々の経々と法華経とは同じとうちをもへるは】
これらの経と法華経が同じだと思っている事は、
【つたなき眼なるべし。】
まことに驚くべき幼稚な見方なのです。