日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


開目抄 12 三類の強敵について


【已上五箇の鳳詔〔ほうしょう〕に】
以上のとおり、宝塔品の三ヶ所の勅宣と提婆品の二ヶ所の諌暁に驚き、

【をどろきて勧持品の弘経あり。】
勧持品において末法での弘法を誓ったのです。

【明鏡の経文を出だして、当世の禅・律・念仏者、】
今、その明々白々たる経文を取り出して、現在の禅宗、律宗、念仏者

【並びに諸檀那の謗法をしらしめん。】
および、その信徒達の謗法を知らしめていきましょう。

【日蓮といゐし者は、去年九月十二日】
日蓮と云う者は、去年の九月十二日の

【子丑〔ねうし〕の時に頚〔くび〕はねられぬ。】
子丑の時に首を刎ねられたのです。

【此は魂魄〔こんぱく〕佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、】
そして魂のみが佐渡の国に来て、その次の年の二月にこの開目抄を雪の中で書き、

【有縁の弟子へをくれば、】
鎌倉の弟子へと送れば、

【をそ〔怖)ろしくてをそろ〔恐怖〕しからず。】
この開目抄を読んで怖ろしい思いが、どんなにか怖ろしくなくなる事でしょうか。

【み〔見〕ん人、】
また、この開目抄をまだ読んでいない人々は、

【いかにをぢ〔怖〕ぬらむ。】
今、どれほどに怖れている事でしょうか。

【此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、】
これらの事は、釈迦、多宝、十方の諸仏の予言通りで、現在の日本国の姿は、

【当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみ〔形見〕ともみるべし。】
それを映す明鏡なのです。

【かたみ〔形見〕ともみるべし。】
これこそ日蓮の遺言であると思いなさい。

【勧持品に云はく「唯願はくは慮〔うらおも〕ひしたまふべからず。】
勧持品には「釈迦如来に申し上げます。心配しないでください。

【仏滅度の後、恐怖〔くふ〕悪世の中に於て、我等当に広く説くべし。】
私達は、仏滅度の恐怖の悪世において法華経を弘めて参ります。

【諸の無智の人の、悪口罵詈〔あっくめり〕等し、】
多くの無智の人が悪口罵詈し、

【及び刀杖を加ふる者有らん、我等皆当に忍ぶべし。】
刀や杖で迫害をするでしょう。しかし、私達は、これを耐え忍びます。

【悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲〔てんごく〕に、】
悪世の中の僧侶は、邪智で心は捻じ曲がっており、

【未だ得ざるを為〔こ〕れ得たりと謂〔おも〕ひ、我慢の心充満せん。】
未だ得ていない悟りを得ていると言い、慢心で満ち溢れています。

【或は阿練若〔あれんにゃ〕に、】
人里離れた閑静な場所で、

【納衣〔のうえ〕にして空閑〔くうげん〕に在って、】
優雅な僧衣をまとい、心が落ち着く素晴らしい空間で、

【自ら真の道を行ずと謂ひて、】
真実の仏道修行を行じていると思って、

【人間を軽賤〔きょうせん〕する者有らん。】
世の中であくせく働いている人々を軽蔑する者ばかりなのです。

【利養に貪著〔とんじゃく〕するが故に、】
しかし、自分の利益のみをむさぼる為に、

【白衣〔びゃくえ〕の与〔ため〕に法を説いて、】
信者に説法をし、

【世に恭敬〔くぎょう〕せらるゝことを為〔う〕ること六通の羅漢の如くならん。】
世間からは尊敬され、偉大な力を持った仏法の指導者と思われる事でしょう。

【是の人悪心を懐き、常に世俗の事を念〔おも〕ひ、】
この人は、悪心を抱き、常に世俗の事を思い、

【名を阿練若〔あれんにゃ〕に仮〔か〕りて、】
閑静な場所に居ると言うだけの理由で、

【好んで我等が過〔とが〕を出ださん○】
好んで法華経の行者の罪状を並べ立てる事でしょう。

【常に大衆の中に在って我等を毀〔そし〕らんと欲するが故に、】
常に大衆を扇動し、法華経の行者をそしる為に、

【国王・大臣・婆羅門〔ばらもん〕・居士、及び余の比丘衆に向かって、】
国王や大臣や宗教者やその信者、他の僧侶に向って、

【誹謗して我が悪を説いて、是邪見の人、】
法華経の行者の事を彼らは、邪見の者であり、

【外道の論議を説くと謂はん○】
外道の理論を仏説と言っていると誹謗中傷をするのです。

【濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖〔くふ〕有らん。】
そして濁悪の世の中で多くの恐るべき事件を引き起こす事でしょう。

【悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱〔めりきにく〕せん○】
悪鬼がその身に入って法華経の者を罵詈雑言するのです。

【濁世の悪比丘は、仏の方便随宜〔ずいぎ〕所説の法を知らず、】
濁悪の世の悪い僧侶達は、仏の方便の説法に迷い、経文の浅深優劣を知らず、

【悪口〔あっく〕して顰蹙〔ひんじゅく〕し、】
法華経の行者の悪口を言い、顔をしかめ、

【数数擯出〔しばしばひんずい〕せられん」等云云。】
しばしば、その居場所から追い払うのです」と説かれています。

【記の八に云はく「文に三、】
妙楽大師の法華文句記の第八巻に「この勧持品には、三つの増上慢が書いてあり、

【初めに一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり。】
初めの一行は、邪智謗法の人の事を説明しています。つまり俗衆増上慢の事です。

【次の一行は道門増上慢の者を明かす。】
次の一行は、悪世の中の僧侶、つまりは道門増上慢であり、

【三に七行は僣聖〔せんしょう〕増上慢の者を明かす。】
三つ目の七行は、僣聖増上慢の事です。

【此の三の中に、初めは忍ぶべし。】
この三つの中で第一の俗衆は、まだ耐え易いのですが、

【次は前に過ぎたり。第三最も甚だし。】
第二の道門は、それ以上に耐え難く、第三は、もっとも耐え難いのです。

【後々の者は】
なぜかと言うと無智な大衆や偽僧侶から聖人と仰がれている者の方が、

【転〔うたた〕識〔し〕り難きを以ての故に」等云云。】
退転者である事を知り難いからなのです」と説かれています。

【東春に智度法師云はく】
また妙楽大師の弟子、智度法師は東春で

【「初めに有諸より下の五行は○】
「始めの有諸無智人より好出我等過までの五行の中で、

【第一の一偈〔げ〕は三業の悪を忍ぶ、】
最初の一偈は、身口意の三業の悪を耐える事で、

【是外悪〔げあく〕の人なり。】
これは在家の悪人である俗衆増上慢の事です。

【次に悪世の下の一偈は、是上慢出家の人なり。】
次の悪世中比丘の下の一偈は、道門慢上慢で出家した者の事なのです。

【第三に或有阿練若〔わくうあれんにゃ〕より下の三偈〔げ〕は、】
第三の或有阿練若より下の三偈は、僭聖増上慢の事であり、

【即ち是出家の処に】
まわりから聖人のように仰がれている者の所に

【一切の悪人を摂〔しょう〕す」等云云。】
すべての悪人を招きよせ、法華経の行者を迫害する」と説かれています。

【又云はく「常在大衆より下の両行は、公処に向かって】
また「常在大衆より、下の二行は、国王、大臣などの権力者に訴えて、

【法を毀〔そし〕り人を謗ず」等云云。】
法をそしり、行者を誹謗する」と説かれています。

【涅槃経の九に云はく「善男子、一闡提〔いっせんだい〕有り。】
涅槃経の九には「紳士諸君、一闡提の者が

【羅漢の像〔かたち〕を作〔な〕して空処〔くうしょ〕に住し、】
仏法者のように装って静かな空間に居て、

【方等大乗経典を誹謗せん。諸の凡夫人見已〔お〕はって、】
大乗経典を誹謗するのです。多くの婦人がこれを見て、

【皆真の阿羅漢〔あらかん〕、】
この人は、真実の仏法者であり、

【是大菩薩なりと謂はん」等云云。】
大菩薩であると言うでしょう」と説かれています。

【又云はく「爾〔そ〕の時に是の経、】
また「その時にこそ、この法華経が

【閻浮提〔えんぶだい〕に於て当〔まさ〕に広く流布すべし。】
全世界に広くひろまるでしょう。

【是の時に、当に諸の悪比丘有って、】
その時に多くの悪い僧が居て、

【是の経を抄略し、分かって多分と作〔な〕し、】
この法華経を改ざんして、多くの文章に分割し、

【能く正法の色香美味を滅すべし。】
正法の正しい意味や意義を変えてしまうのです。

【是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も、】
またこの悪人は、大乗経を読んではいても、

【如来の深密の要義を滅除して、】
如来の深遠な意味がわからず、

【世間の荘厳の文飾〔もんじき〕無義の語を安置す。】
世間のありふれた美辞麗句や意味のない言葉に変えてしまいます。

【前を抄して後に著け後を抄して前に著け、】
経文の前を取って後に付け、後を取って前に付け、

【前後を中に著け中を前後に著く。当に知るべし、】
前後を中に付け、中を前後に付けたりするのです。

【是くの如きの諸の悪比丘は、是れ魔の伴侶〔はんりょ〕なり」等云云。】
このような、悪い僧は、すべて魔の仲間であるのです」と説かれています。

【六巻の般泥□〔はつないおん〕経に云はく】
また六巻の般泥□経には

【「阿羅漢〔あらかん〕に似たる一闡提〔いっせんだい〕有って悪業を行ず。】
「仏法者に似た一闡提が居て、悪い事を行います。

【一闡提に似たる阿羅漢あって慈心を作さん。】
これと反対に一闡提に似た仏法者が居て慈悲の心で行動するのです。

【羅漢に似たる一闡提有りとは、】
また。仏法者に似た一闡提とは、

【是の諸の衆生、方等を誹謗するなり。】
これらの衆生の中で大乗経典を誹謗する者の事です。

【一闡提に似たる阿羅漢とは、声聞を毀呰〔きし〕し広く方等を説くなり。】
一闡提に似た阿羅漢とは、小乗経を批判して、広く大乗経典を説くのです。

【衆生に語って言はく、我汝等〔なんだち〕と倶〔とも〕に是菩薩なり。】
それで大衆に向かって、このように訴えます。私は、あなたと共に菩薩である。

【所以〔ゆえん〕は何〔いかん〕。一切皆如来の性有る故に。】
なぜかと言うと、すべての者に如来の性質があるからなのです。

【然も彼の衆生】
しかし、謗法者は、返って私達の事を逆に

【一闡提なりと謂はん」等云云。涅槃経に云はく「我涅槃の後、】
一闡提であると言うでしょう」と説かれています。涅槃経には「仏が入滅して後、

【乃至、正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。】
正法時代を過ぎて、像法時代に出家した僧が居ました。

【持律に似像〔じぞう〕して少〔わず〕かに経を読誦し、】
戒律を守っているような振りをして、わずかばかりの経文を読み、

【飲食〔おんじき〕を貪嗜〔とんし〕し其の身を長養す。】
飲み物や食べ物をむさぼり、その身を養っているのです。

【袈裟〔けさ〕を服すと雖も、】
袈裟を着ているとはいえ、布施を狙う様子は、

【猶〔なお〕猟師の細視徐行するが如く、】
猟師が細目で静かに獲物に近づいて行くのと同様で、

【猫の鼠を伺ふが如し。】
まるで猫の鼠を伺う姿と一緒なのです。

【常に是の言を唱へん。我羅漢を得たりと○】
しかも常に自分は仏法をわかっていると公言し、

【外には賢善を現はし、】
外には、賢い善人のような姿を現わし、

【内には貪嫉〔とんしつ〕を懐く。】
内心では、むさぼりねたみの心を抱いているのです。

【唖法〔あほう〕を受けたる】
それなのに法門の事については、唖法の修行を積んだ

【婆羅門〔ばらもん〕等の如し。】
婆羅門の尊者のように黙り込んでしまいます。

【実には沙門に非ずして沙門の像〔かたち〕を現じ、】
真実は、出家した仏弟子とは、とても言えないのに僧侶の姿をして、

【邪見熾盛〔しじょう〕にして正法を誹謗せん」等云云。】
邪見が強盛で正法を誹謗するのです」と説かれています。

【夫〔それ〕鷲峯〔じゅほう〕・双林〔そうりん〕の日月、】
霊鷲山や沙羅林〔しゃらりん〕で説かれた日月のような法華経、

【毘湛〔びたん〕・東春の明鏡に、】
毘湛に住む妙楽大師や東春に住んだ智度法師の明鏡のような解釈文に、

【当世の諸宗並びに国中の禅・律・念仏者が】
現在の国中の禅宗、律宗、念仏宗を、この法華経や解釈文の明鏡で照らすと、

【醜面を浮べたるに一分もくもりなし。】
その謗法の醜い姿が一分の曇りなく現れるのです。

【妙法華経に云はく「於仏滅度後〔おぶつめつどご〕】
法華経の勧持品には「仏滅度の後、

【恐怖悪世中〔くふあくせちゅう〕」と。】
恐怖悪世の中において広くこの経を説く」と書かれています。

【安楽行品に云はく「於後悪世」と。又云はく「於末世中」と。】
また安楽行品には「後の世において」また「末世の中において」

【又云はく「於後末世法欲滅時」と。】
また「後の末世、法の滅せんと欲する時」と書かれています。

【分別功徳品に云はく「悪世末法時」と。】
分別功徳品には「悪世末法の時」、

【薬王品に云はく「後五百歳」等云云。】
薬王品には「後の五百歳広宣流布」と書かれています。

【正法華経の勧説品に云はく「然後末世〔ねんごまっせ〕」と。】
さらに別の訳の正法華経の勧発品には「然るに後の末世に」

【又云はく「然後来末世」等云云。】
また「然るに後の未来世に」と説かれており、

【添品〔てんぽん〕法華経に云はく等。】
さらに別の訳の添品法華経にも同じ文章が書かれています。

【天台の云はく「像法の中の南三北七は、法華経の怨敵なり」と。】
天台は「像法時代の南三北七は法華経の怨敵である」と言っています。

【伝教の云はく「像法の末、南都六宗の学者は、】
また伝教は「像法の末に奈良にあった六宗の学者は、

【法華の怨敵なり」等云云。】
法華経の怨敵である」と言っています。

【彼等の時は】
しかし天台、伝教の時代は、未だ法華経本門の流布すべき時代ではなかったので

【いまだ分明ならず。】
怨敵の姿もそれほど明らかとは言えなかったのです。

【此は教主釈尊・多宝仏、宝塔の中に日月の並ぶがごとく、】
現在は、すでに末法であり、教主釈尊と多宝仏が宝塔に日月のように並び、

【十方分身〔ふんじん〕の諸仏、樹下に星を列ねたりし中にして、】
十方、分身の諸仏が樹の下に星のように集まって、

【正法一千年、像法一千年、二千年すぎて末法の始めに、】
正法の一千年、像法の一千年の合計二千年が過ぎて末法の始めとなり、

【法華経の怨敵三類あるべしと、】
法華経の怨敵が三種類出て来ると云う、

【八十万億那由佗〔なゆた〕の諸菩薩の定め給ひし、】
末法での弘教を誓った菩薩達が予言された事が、

【虚妄〔こもう〕となるべしや。】
どうして虚妄となるでしょうか。

【当世は如来滅後二千二百余年なり。】
現在は、釈迦如来の滅後、二千二百余年の末法なのです。

【大地は指〔さ〕さばはづるとも、春は花はさかずとも、】
大地を的にして外れる事があっても、春になって花が咲かない事があっても、

【三類の敵人必ず日本国にあるべし。】
三類の敵人は、必ず日本国に現れるはずなのです。

【さるにては、たれたれ〔誰誰〕の人々か三類の内なるらん。】
それならば、誰が三類の敵なのでしょうか、

【又誰人か法華経の行者なりとさゝれたるらん。をぼつかなし。】
また誰が法華経の行者であるのでしょうか。まったく心もとない事です。

【彼の三類の怨敵に、我等入りてやあるらん。】
私達は、三類の怨敵の中に入っているのでしょうか。

【又法華経の行者の内にてやあるらん。】
それとも法華経の行者の中に入っているのでしょうか。

【をぼつかなし。】
これもまた心もとない事です。

【周の第四昭王の御宇〔ぎょう〕、二十四年甲寅四月八日の夜中に、】
周の第四昭王の時代、二十四年四月八日の夜空に、

【天に五色の光気南北に亘って昼のごとし。】
五色の光が南北にわたってかかり、昼のように明るくなったと言います。

【大地六種に震動し、雨ふらずして江河井池〔こうがせいち〕の水まさり、】
大地は六種類に震動し、雨が降らないのに江河や井池の水が増し、

【一切の草木に花さき菓〔このみ〕なりたりけり。】
すべての草木に花が咲き、菓がなると云う実におかしな事が起こりました。

【不思議なりし事なり。昭王大いに驚く。】
まったく不思議な事です。昭王は、大いに驚きましたが、

【大史蘇由〔たしそゆう〕占って云はく、】
神主である蘇由が占って言うには、

【西方に聖人生まれたりと。】
「西の方で聖人が生まれました」と告げました。

【昭王問うて云はく、此の国いかんと。】
昭王が「我が国は、どうなるのか」と問うと

【答へて云はく、事なし。一千年の後、彼の聖言、】
蘇由は「何事もなく、千年後にこの聖人の言葉が、

【此の国にわたって衆生を利すべしと。】
我が国に伝わり衆生に利益をもたらします」と答えました。

【彼のわづかの外典の一毫未断見思〔いちごうみだんけんじ〕の者、】
このように見思惑すら未だに断じていない外道の蘇由ですら、

【しかれども一千年のことをしる。はたして仏教一千一十五年と申せし、】
千年の未来を知る事が出来ました。そしてその予言通りに、仏教は、一千十五年後の

【後漢の第二明帝の永平十年丁卯の年、仏法漢土にわたる。】
後漢の第二明帝の時代、永平十年に漢土に渡って来たのです。

【此は似るべくもなき、釈迦・多宝・十方分身の】
しかし、法華経の予言は、外道と比較にならない釈迦、多宝、十方分身の

【仏の御前の諸菩薩の未来記なり。】
諸仏の御前で末法の弘教を誓った多くの菩薩達の予言です。

【当世日本国に、三類の法華経の敵人なかるべしや。】
それなのに現在の日本に三類の法華経の敵人がいないと云う事があるでしょうか。

【されば仏、付法蔵経等に記して云はく「我が滅後に正法一千年が間、】
そうであれば付法蔵経に「仏滅後正法一千年の間に、

【我が正法を弘むべき人、二十四人次第に相続すべし」と。】
正法を弘めるべき人が次々に二十四人出現するであろう」と予言しているのです。

【迦葉〔かしょう〕・阿難〔あなん〕等はさてをきぬ。】
迦葉や阿難は、釈迦在世の弟子であるから、さておいても、

【五百年の脇比丘〔きょうびく〕、六百年の馬鳴〔めみょう〕、】
五百年後に脇比丘、六百年後に馬鳴菩薩、

【七百年の竜樹菩薩等一分もたがわず、】
七百年後の竜樹菩薩と二十四人が予言と少しも違わずに

【すでに出で給ひぬ。】
出現して仏法を伝えているのです。

【此の事いかんがむなしかるべき。】
そうであれば末法の三類の怨敵の予言がどうして虚妄となるでしょうか。

【此の事相違せば一経皆相違すべし。】
もしこの予言が間違っているならば、経文は、すべて間違いとなります。

【所謂〔いわゆる〕、舎利弗〔しゃりほつ〕が未来の華光如来、】
そうであるならば、舎利弗が未来の華光如来になる事や、

【迦葉〔かしょう〕の光明如来も皆妄説となるべし。】
迦葉の光明如来となる事もすべて嘘となるでしょう。

【爾前返って一定となって、】
今まで法華経で真実でないと言って来た爾前経が真実の教えとなってしまい、

【永〔よう〕不成仏の諸声聞なり。】
舎利弗や迦葉も永久に成仏する事が出来ない事になります。

【犬野干〔やかん〕をば供養すとも、阿難等をば】
野良犬を供養するとも阿難などの声聞に

【供養すべからずとなん。】
供養をしてはならないと説かれた爾前経が真実であるならば、

【いかんがせんいかんがせん。第一の有諸無智人と云ふは、】
いったいどうすれば良いのでしょうか。経文の第一の「多くの無智の人」とは、

【経文の第二の悪世中比丘と】
経文の第二の「悪世の中の僧」と

【第三の納衣〔のうえ〕の比丘の大檀那と見へたり。】
第三の「貧しい身なりの僧」の教えを信じている信者の事です。

【随って妙楽大師は「俗衆」等云云。】
これを妙楽大師は「俗衆増上慢」と呼んでおり、

【東春に云はく「公処に向かふ」等云云。】
また妙楽の弟子の智度法師が東春において「公の役所に行く」と述べています。

【第二の法華経の怨敵は、経に云はく「悪世の中の比丘は、】
第二の法華経の怨敵は、経文に「悪世の中の僧は、

【邪智にして心諂曲〔てんごく〕に、】
邪智で心が捻じ曲がっており、

【未だ得ざるを為〔こ〕れ得たりと謂〔おも〕ひ、】
未だ悟りを得ていないのに得たかのように思い込み

【我慢の心充満せん」等云云。】
慢心の心が充満している」と説かれています。

【涅槃経に云はく「是の時に当に諸の悪比丘有るべし。】
涅槃経には、これを説いて「この時に多くの悪僧がいて

【乃至、是の諸の悪人、復是くの如き経典を読誦すと雖も、】
この悪僧達は、仏の経典を少しばかり読誦しているとはいえ、

【如来深密〔じんみつ〕の要義を滅除せん」等云云。】
返って如来の深密の要義を除いて滅してしまう」と書かれています。

【止観に云はく「若し信無きは高く聖境に推〔お〕して】
また天台は摩訶止観には「信じない者は、法華経を、非常に高度な教えであって、

【己が智分に非ずとす。】
我々のような凡人には用のないものであると言います。

【若し智無きは増上慢を起こして、】
また、それほどの智慧のない者は、増上慢を起こして

【己れ仏に均〔ひと〕しと謂〔おも〕ふ」等云云。】
自分は仏と同じであると思うでしょう」と説かれています。

【道綽〔どうしゃく〕禅師が云はく「二に】
中国念仏宗の道綽禅師は「法華経を捨てる理由の二つ目に、

【理深解微〔りじんげみ〕なるに由る」等云云。】
聖道門は、論理が深く極く少数の者にしか理解出来ない」と言っているのです。

【法然云はく「諸行は機に非ず、】
また、法然は「阿弥陀経以外の教えを修行しても、末法の衆生の機根に合わず、

【時を失ふ」等云云。】
時代が適していない」と同じ事を言っています。

【記の十に云はく「恐らくは人謬〔あやま〕り解せん者、】
妙楽は記の十に「おそらく法華経の真義を誤って理解する者は、

【初心の功徳の大なることを識〔し〕らずして、】
題目を唱える功徳が大きい事を知らないで、

【功を上位に推〔ゆず〕り、】
その功徳は、修行を積まないと顕われないと言って、

【此の初心を蔑〔ないがし〕ろにせん。】
題目の功徳をないがしろにするであろう。

【故に今、彼の行浅く】
そうであるからこそ、初信者の修行がいくら浅くても、

【功深きことを示して、】
その功徳が莫大である事を示して、

【以て経力を顕はす」等云云。】
法華経の実力を顕わすのです」と書いてあります。

【伝教大師云はく「正像稍〔やや〕過ぎ已〔お〕はって、】
伝教大師は「正像二千年は、後、少しで終わり、

【末法太〔はなは〕だ近きに有り。法華一乗の機、】
末法がすぐ近くなりました。法華経の一仏乗の時代が迫り、

【今正しく是〔これ〕其の時なり。】
すべての衆生を即身成仏させうる大白法が流布する時代が来たのです。

【何を以て知ることを得る。安楽行品に云はく、】
なぜ、この事がわかるかと言うと、安楽行品に、

【末世法滅の時なり」等云云。】
末世の法が滅せんとする時に流布すると説かれている」と述べられています。

【慧心の云はく「日本一州円機】
慧心僧都は「日本全国、法華経の時代がまさしく来ており、

【純一なり」等云云。】
その純粋な信心で統一される事でしょう」と説いています。

【道綽〔どうしゃく〕と伝教と法然と慧心と、】
このように念仏の学者たる道綽と法然と、法華経を説く伝教や慧心とでは、

【いづれ此を信ずべしや。】
まったく反対の事を説いていますが、いずれを信ずべきでしょうか。

【彼は一切経に証文なし。】
念仏者の論拠は経文にはないが、

【此は正しく法華経によれり。】
伝教、慧心の主張する事は、諸経中第一の法華経に明白に示されているのです。

【其の上日本国一同に、】
そのうえ、日本国の人々にとって伝教大師は、法華経の戒壇、

【叡山〔えいざん〕の大師は受戒の師なり。】
比叡山において戒を授ける師匠でもあるのです。

【何ぞ天魔のつける法然に心をよせ、】
なぜ天魔がその身に入ったような法然に心を寄せて、

【我が剃頭〔ていず〕の師をなげすつるや。】
自分の受戒の師である伝教の言う事を捨て去るのでしょうか。

【法然智者ならば何ぞ此の釈を選択〔せんちゃく〕に載せて和会〔わえ〕せざる。】
法然が智者であれば、なぜ伝教や慧心の解釈を選択に載せなかったのでしょうか。

【人の理をかくせる者なり。】
それは、まさに人々の理性を覆い隠す行為そのものなのです。

【第二の悪世中比丘と指さるゝは、】
よって経文に説かれている、この第二の「悪世中比丘」を現在の日本に映し出せば、

【法然等の無戒邪見の者なり。】
法然などの無戒、邪見の者を指しているのです。

【涅槃経に云はく「我等悉く】
涅槃経には「法華経以前の外道、内道を信じる我々のような者を

【邪見の人と名づく」等云云。】
邪見の者と言うのです」と説かれています。

【妙楽云はく「自ら三教を指して】
妙楽は「法華以前の蔵教、通教、別教の三つの教を指して

【皆邪見と名づく」等云云。】
邪見と言うのです」と言われています。

【止観に云はく「大経に云はく、此れよりの前は、】
摩訶止観には「涅槃経には、これより以前の諸経の時は、

【我等皆邪見の人と名づくるなり。】
我々すべて邪見の者であった。

【邪、豈〔あに〕悪に非ずや」等云云。】
邪見は、すなわち悪ではないか」と書かれています。

【弘決に云はく「邪は即ち是れ悪なり。】
弘決には「邪見は、悪である。

【是の故に当に知るべし、唯円を善と為す。】
この故に、蔵教、通教、別教ではなく、ただ円教だけを善とするのです。

【復二意有り。一には順を以て善と為し、】
これには、また二つの意義があります。一には、より上の経文に従う事を善とし、

【背を以て悪と為す。】
より上の経文に違背する事を悪とするのです。

【相待の意なり。】
これは、経文を比較して優劣を決める相待妙の意味です。

【著するを以て悪と為し、】
二には、その経文に執着する事を悪と言い、

【達するを以て善と為す。】
最終目標である仏界に達する事を善とするのです。

【相待・絶待倶に須〔すべから〕く悪を離るべし。】
これは本尊により優劣を決める絶待妙の意味です。

【円に著する尚悪なり、】
このように経文に執著する事すら、

【況んや復余をや」等云云。】
なお悪なのですから、他の悪は、言うまでもありません」と書かれているのです。

【外道の善悪は、小乗経に対すれば皆悪道、】
外道の善悪は、小乗経と比較するとすべて悪道であり、

【小乗の善道乃至四味三教は、法華経に対すれば皆邪悪、】
またその小乗経や爾前教でさえ法華経に対すれば、すべて邪悪なのであり、

【但法華のみ正善なり。爾前〔にぜん〕の円は相待妙・】
ただ法華経のみが正しく善なのです。爾前経の中の円教は、相待妙であり、

【絶待妙に対すれば猶〔なお〕悪なり。】
この円教さえも絶待妙に対すれば、なお悪なのです。

【前三教に摂すれば猶悪道なり。】
また、円教も蔵通別の三教の中に入れば、なお悪道となるのです。

【爾前のごとく彼の経の極理を行ずる猶悪道なり。】
爾前経のように円教の極理を行っても悪道となるのです。

【況んや観経等の猶華厳・般若経等に】
まして念仏の依経とする観経は、華厳、般若の諸経にすら、

【及ばざる小法を本として、】
及ばないほどの小法なのです。

【法華経を観経に取り入れて、】
この小法に法華経の意義をいくら取り入れたとしても、

【還って念仏に対して閣抛閉捨〔かくほうへいしゃ〕せるは、】
法華経を「閣抛閉捨」と主張する、

【法然並びに所化の弟子等、檀那等は、誹謗正法の者にあらずや。】
法然やその弟子、信者などは「誹謗正法」の者ではありませんか。

【釈迦・多宝・十方の諸仏は「法をして久しく住せしめんが故に、】
釈迦、多宝、十方の諸仏は、「仏法を末永く弘めて行く為に、

【此に来至したまへり」と。法然並びに日本国の念仏者等は、】
宝塔の儀式に集まって来た」のですが、法然や日本の念仏者が、

【法華経は末法に念仏より前に滅尽すべしと、】
法華経は末法で念仏より先に滅ぶべきとしているのは、

【豈三聖の怨敵にあらずや。】
釈迦、多宝、十方の諸仏の怨敵である証拠ではないでしょうか。

【第三は法華経に云はく「或は阿練若〔あれんにゃ〕に有り、】
第三の強敵について、法華経には「閑静なところに

【納衣〔のうえ〕にして空閑〔くうげん〕に在って、乃至、】
袈裟をまとった僧侶がおり、

【白衣〔びゃくえ〕の与〔ため〕に法を説いて、】
在家の為に法を説いて、

【世に恭敬〔くぎょう〕せらるゝことを為〔う〕ること、】
世間の人々からは、

【六通の羅漢の如くならん」等云云。】
立派な仏教者であると尊敬されている」と書かれています。

【六巻の般泥恒〔はつないおん〕経に云はく】
六巻の般泥恒経には

【「羅漢に似たる一闡提〔いっせんだい〕有って悪業を行じ、】
「形ばかり仏法者である一闡提がいて、悪業を行じ、

【一闡提に似たる阿羅漢あって慈心を作さん。】
逆に一闡提に似ている仏法者がいて、慈悲心をもって衆生を救うとあります。

【羅漢に似たる一闡提有りとは、是諸の衆生の方等を】
また、仏法者に似た一闡提とは、人々が仏法を学んでも仕方がないと

【誹謗するなり。】
誹謗し、仏教の事は、私達にまかせるべきだと主張するのです。

【一闡提に似たる阿羅漢とは、声聞を毀呰〔きし〕して】
一闡提に似た仏法者とは、その意見を批判し、

【広く方等を説き、衆生に語って言はく、】
広く仏法を説き、衆生に対して、

【我汝等〔なんだち〕と倶に是菩薩なり。】
私は、あなた達と共に同じく菩薩である。

【所以は何〔いかん〕。一切皆如来の性有るが故に。】
なぜならば、すべての衆生に如来の法性があるからであると主張するのです。

【然も彼の衆生は】
しかし、それを聞いた多くの人々が、

【一闡提と謂〔い〕はん」等云云。】
その仏法者を一闡提と言うであろう」と説かれています。

【涅槃経に云はく「我涅槃の後○像法の中に於て当に比丘有るべし。】
涅槃経には「仏が入滅の後、像法の時代に次のような僧侶がいる。

【持律に似像〔じぞう〕して少〔わず〕かに経典を読誦し、】
外見は、戒律を守っているように見せかけて、少しばかりの経文を読誦し、

【飲食〔おんじき〕を貪嗜〔とんし〕して其の身を長養す。】
飲食をむさぼってその身を養っている。

【袈裟〔けさ〕を服すと雖も、猶〔なお〕猟師の細視徐行するが如く、】
袈裟を着けているけれども、信者の布施を狙う有様は、

【猫の鼠を伺ふが如し。】
まるで猟師が細目で獲物を狙うように猫が鼠をうかがっているのと同じ姿なのです。

【常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと○】
そして、常に自分は仏法者として悟りを得たと言い、

【外には賢善を現はし、】
外見は賢人、聖人のように装っているが、

【内には貪嫉〔とんしつ〕を懐く。唖法〔あほう〕を受けたる】
内面は、むさぼりと嫉妬を抱いているのです。また、仏法に対する質問には、

【婆羅門等の如し。】
まるで婆羅門の唖法の修行のように無視を続けて黙して語らず、

【実には沙門に非ずして沙門の像〔かたち〕を現じ、】
実際には、僧侶でないのに僧侶の姿をしており、

【邪見熾盛〔しじょう〕にして正法を誹謗せん」等云云。】
邪見が非常に盛んで正法を誹謗し続けるでしょう」と説かれているのです。

【妙楽云はく「第三最も甚だし。】
妙楽大師は「第三の僣聖増上慢が最もひどく害悪を流す。

【後々の者は転〔うたた〕識り難きを以ての故に」等云云。】
それは、後々の者がその害毒の怖さがわからないからである」と言われています。

【東春云はく「第三に或有阿練若〔わくうあれんにゃ〕より下の三偈は、】
東春には「第三の僣聖増上慢について、或有阿練若から下の三偈には、

【即ち是出家の処に一切の悪人を摂〔しょう〕す」等云云。】
僣聖増上慢のいる場所にすべての悪人が集まる」と書かれており、

【東春に「即是出家処摂一切悪人」等とは、】
このように「僣聖増上慢のいる場所にすべての悪人が集まる」と書かれていますが、

【当世日本国には何れの処ぞや。】
現在の日本については、どうなのでしょうか。

【叡山〔えいざん〕か園城〔おんじょう〕か東寺か南都か、】
これは、比叡山の事か、三井の園城寺か、京都の東寺か、奈良、南都の寺か、

【建仁寺か寿福寺か建長寺か、よくよくたづぬべし。】
鎌倉の建仁寺か寿福寺か建長寺か、詳しく調べてみるべきです。

【延暦〔えんりゃく〕寺の出家の頭〔かしら〕に、】
延暦寺の出家した僧侶が頭に

【甲冑〔かっちゅう〕をよろうをさすべきか。】
カブトを被っているその格好を指すのでしょうか、

【園城寺の五分法身の膚〔はだえ〕に】
園城寺の僧侶が戒、定、慧、解脱、解脱知見を得た五分法身の凡夫となって、

【鎧杖〔がいじょう〕を帯せるか。】
その身体に鎧を着ている事を言うのでしょうか。

【彼等は経文に「納衣在空閑〔のうえざいくうげん〕」と指すにはにず。】
しかし、この連中を世間の人々は、経文の「納衣在空閑」を指すとは思っておらず、

【「為世所恭敬〔いせしょくぎょう〕】
また経文にある「為世所恭敬

【如六通羅漢〔にょろくつうらかん〕」と人をもはず。】
如六通羅漢」とは、思っていないのです。

【又「転難識故〔てんなんしきこ〕」と】
また妙楽が「転、識り難き故」と言っているのにも反して、

【いうべしや。】
彼等の破法ぶりは世間にもよく知られているところです。

【華洛〔からく〕には聖一等、鎌倉には良観等に】
現在の日本においては、京都の聖一や鎌倉の極楽寺良観などが、

【にたり。】
まさしくこの経文に指摘される第三類の強敵にあたるのです。

【人をあだ〔怨〕むことなかれ。】
だからと言って、これらの人を恨むべきではありません。

【眼あらば経文に我が身をあわせよ。】
ただ、眼があるのであれば、経文に我が身を合わせてみなさい。

【止観の第一に云はく「止観の明静〔みょうじょう〕なることは】
摩訶止観の第一には「止観の正しい事は

【前代未だ聞かず」等云云。】
これ以前に未だ聞いた事がない、優れた法門である」と説かれています。

【弘の一に云はく「漢の明帝夜夢みしより】
止観弘決の一には「漢の明帝が夜、夢をみて、

【陳朝に□〔およ〕ぶまで、禅門に預かりて厠〔まじわ〕りて】
仏教が伝来してより天台大師の陳朝の時代まで、禅宗を信じ続けて

【衣鉢〔えはつ〕】
禅宗の習わしである衣鉢伝授をした者が数多く居たのですが、

【伝授する者」等云云。】
すべて地獄に堕ちた事を、その夢で知りました」と書かれています。

【補〔ふ〕注に云はく「衣鉢伝授とは達磨〔だるま〕を指す」等云云。】
天台三大部補注には「衣鉢を伝授する者とは、達磨をさすのです」とあり、

【止の五に云はく「又一種の禅人、】
摩訶止観の第五には「また謗法の禅宗の者がおり、

【乃至、盲跛〔もうは〕の師徒〔しと〕、】
修行ばかりで理論が伴わない盲信の者も、理論ばかりで修行が出来ない狂信の者も

【二〔ふたり〕倶に堕落す」等云云。】
双方ともに地獄へ落ちたのです」と書かれています。

【止の七に云はく「九の意、】
摩訶止観の七には「天台が説いた十意の中の第九意と、

【世間の文字の法師と共ならず、】
世間の文字をもてあそぶ禅宗の僧とは違うのです。

【亦事相の禅師〔ぜんじ〕と共ならず。】
また反対に修行の姿にばかりこだわる禅師とも天台はまったく違うのです。

【一種の禅師は唯観心の一意のみ有り。】
謗法の禅師は、ただ観心ばかりで理論がまったくないのです。

【或は浅く或は偽る。】
しかも、その観心とは、浅く、間違いであり、

【余の九は全く無し。】
十意の中の他の九意は、まったく見られないのです。

【此虚言に非ず。】
これは、間違いではありません。

【後賢眼有らん者は当に証知すべきなり」と。】
後世の賢人は、この事を理解すべきなのです」と書かれています。

【弘の七に云はく「文字の法師とは、内に観解〔かんげ〕無くして】
止観弘決の七には、「文字法師と云うのは、心の中を鑑みて理解する事が出来ずに、

【唯法相を構ふ。】
ただ、外見だけの姿で物事を判断する者を指し、

【事相の禅師とは、境智を閑〔なら〕はず鼻膈〔びきゃく〕に心を止む。】
事相の禅師とは、境と智の二法を忘れて、

【乃至根本有漏定〔うろじょう〕等なり。】
心を静めると云う修行の姿にばかり捕われている者を言うのです。

【一師唯〔ただ〕観心の一意のみ有る等とは、】
ですから、一師はただ観心の一意ありと言ったのは、

【此は且〔しばらく〕く与へて論を為す。】
しばらく考える余裕を与えただけであり、

【奪ふ則〔とき〕んば、観解倶に欠〔か〕く。】
観心も理解もまったくない大嘘なのです。

【世間の禅人偏〔ひとえ〕に理観を尚〔とうと〕ぶ、】
従って世間の禅人は、ひとえに座禅ばかりをして、まったく仏法を学ぼうとしない。

【既に教を諳〔そら〕んぜず。】
観心によって経文を必要なしと言って、

【観を以て経を消し、八邪・八風を数へて丈六の仏と為し、】
邪見損得の八邪八風をもって一丈六尺の背丈の仏となし、

【五陰〔おん〕三毒を合はして名づけて八邪と為し、】
五陰の三毒を合わせて八邪とし、

【六入を用ひて六通と為し、四大を以て四諦と為す。】
六根をもって六通とし、地水火風の四大をもって小乗経の四諦としているのです。

【此くの如く経を解〔げ〕するは、偽〔いつわ〕りの中の偽りなり。】
このように自己流で経文を解釈する事は、間違いの中の間違いであり、

【何ぞ浅く論ずべけんや」等云云。】
このように浅薄な理論は、論ずる価値さえない」と書かれています。

【止観の七に云はく「昔□洛〔ぎょうらく〕の禅師、名は河海に播〔し〕き、】
摩訶止観の七には「昔、達磨たちは、その名が海外に鳴り響き、

【住する則〔とき〕んば四方雲のごとくに仰ぎ、】
説法する時は、四方から雲のように人々が集まり、

【去る則んば阡陌〔せんびゃく〕群を成し、】
去る時は、それらが別れを惜しんで長い列を成し、

【隠々轟々〔いんいんごうごう〕として亦何の利益〔りやく〕か有る。】
大騒ぎしたが、いったい、それに何の意味があったでしょうか。

【臨終に皆悔ゆ」等云云。】
なぜなら、臨終の時にみんなが後悔したからです」と説かれています。

【弘の七に云はく「□洛の禅師とは、】
これについて妙楽大師の止観弘決の七には「□洛の禅師とは、達磨の事であり、

【□は相州に在り。即ち斉魏〔せいぎ〕の都する所なり。】
□は、相州にあって斉や魏が首都としたところです。

【大いに仏法を興す。】
そこで大いに仏教を興隆させました。

【禅祖の一〔はじめ〕なり。其の地を王化す。】
これが禅宗の開祖であり、その地をすべて禅宗に帰依させたのです。

【時人の意を護って其の名を出ださず。】
しかし、その人の意志であえて名前を出さずに□洛の禅師と呼んだのです。

【洛は即ち洛陽なり」等云々。六巻の般泥□〔はつないおん〕経に云はく】
洛とは、洛陽の事です」と書かれています。六巻の般泥□経には、

【「究竟〔くきょう〕の処を見ずとは、】
「究極の姿を見ずとは、

【彼の一闡提〔いっせんだい〕の輩〔ともがら〕の】
一闡提の輩が作る究極の悪業は、

【究竟の悪業を見ざるなり」等云云。】
底知れず見られないと云う意味です」と書かれています。

【妙楽云はく「第三最も甚だし○】
また妙楽は「第三の僭聖増上慢は、最もたちが悪いのです。

【転〔うたた〕】
世の人々に尊ばれて、謗法の重罪を作っている事が

【識〔し〕り難きが故に」等。無眼の者・一眼の者・邪見の者は、】
わからないからなのです」とあります。盲信の者や、我見の者、狂信の者は、

【末法の始めの三類を見るべからず。】
末法の始めに現れる第三類僣聖増上慢が見えないのです。

【一分の仏眼を得るもの此れをしるべし。】
一部の仏眼を得た者だけが、これを知る事が出来るのです。

【「向国王大臣婆羅門居士〔ばらもんこじ〕」等云云。】
また「国王や大臣や婆羅門、その信者が正法の行者を訴える」と法華経にあり、

【東春に云はく「公処に向かひ法を毀〔そし〕り人を謗〔そし〕る」等云云。】
智度法師の東春には「公の場所で法をそしり、人をそしる」と説かれています。

【夫〔それ〕昔像法の末には護命〔ごみょう〕・】
事実、過去の像法の末には、護命、

【修円等、奏状をさゝげて伝教大師を讒奏〔ざんそう〕す。】
修円などが天皇に向かって伝教大師をそしったのです。

【今末法の始めには良観・念阿〔ねんあ〕等、】
いま末法の始めには、良観や念阿等などが、

【偽書を注して将軍家にさゝぐ。】
偽書を作って将軍家に日蓮をそしっているのです。

【あに三類の怨敵にあらずや。】
この連中こそ、まさしく三類の強敵ではないでしょうか。


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