御書研鑚の集い 御書研鑽資料
開目抄 16 総論
【1】内道と外道について
開目抄上(御書523頁)
すべての人々が敬うべきものは、主師親の三徳であり、学ばなければならないものが儒教と外道と仏教なのです。
儒教では、三人の天皇、五人の帝王、三人の王を天尊と称し、これより以前は、人々は、みな動物と同じでしたが、儒教が広まってか
らは孝行や忠義が重んじられました。また、四人の師がいてそれを四聖と言い、天尊もこの四人を敬い人々も深く尊びました。これら
の聖人が著した三墳、五典、三史などの三千余巻には、その根本として三玄が説かれています。しかし、それらは、未だ過去と未来に
ついては、まったく理解できず、その為玄と言い、玄とはまったくわからないという意味なのです。ただ現在だけを知って道徳を作り
、人身を守り、国家を安んじて、これに従わなければ民族を滅亡させてしまうと教えているのです。
しかし、儒教は、過去と未来を知らず、その死後を助ける事が出来ないので結局は不知恩の者となってしまうのです。孔子がこの中国
には、真実の賢人聖人がいない。西の方に仏という者があり、これが真実の聖人であるといって、外典の教えを仏教に入る為の最初で
あるとしたのです。まずは、儒教においては、戒定慧の三学を理解できるように主の徳をあらわし、親への孝行を知らしめ、師に帰依
すべきことを知らしめたのです。天台は「一切世間のあらゆる正しい教えは、すべて仏の経によっている。もし深く世の中の法を知る
ならば、これはすべて仏法である。」と説き、妙楽は「光浄菩薩は孔子と称し、迦葉菩薩は老子と称した。これらはすべて釈尊が遣わ
し仏教の先駆として儒教を説いたのである。」と書いてあります。
次にインドの外道は、その見解の深く巧みな事は、儒教など遠く及ばず、八万劫の過去、未来を知る事も出来ました。いわゆる良い外
道は、戒律をたもち修業を積んで、天界を極めて涅槃を目指し、尺取り虫のごとく、一歩一歩、成仏を目指すのですが、結局は、そこ
から三悪道に堕ちてしまうのでした。その中に一人として天界にすら留まる者がいないのに外道を信ずる者は、天界から三悪道へ堕ち
たとは気付かずに天界を極めたと思い続けているのでした。外道は、仏教に入る為の最初であると言うのがその重要な意味なのです。
その証拠に外道は「千年後に仏がこの世に出現する。」「百年後に仏がこの世に出現する。」と予言し、大涅槃経には「すべての外道
の書物は、すべて仏の説であって外道の説ではない。」、法華経には「釈迦の弟子である声聞たちは、三毒強情な外道の姿で生まれて
邪見の姿を現じ、方便によって衆生を仏法へと導いたのである。」と説かれています。
釈尊は、すべての衆生の主親師の三徳をもつ聖人なのです。外道の聖人は、実には見思惑、塵沙惑、無明惑の一つさえも末だ絶ちきれ
ない凡夫であり、その名は聖人とはいえ、真実は因果の道理がわからない赤児のようなものなのです。釈尊は、元品の無明さえ断ち切
られた方なので、そうであれば説れた教えは、どんなに低い教えであっても外典や外道に対するならば、まさに高度な正しい言葉なの
であり、仏の説くところの法はみな真実なのです。
【2】一念三千の法門を盗んで自説とする
ただ、仏教に入って五十余年の間に説法された八万法蔵と云われる多くの教えをひとつひとつ見れば、その中には、小乗経もあり、大
乗経もあり、権経もあり実経もあります。また顕教や密教、実語や妄語、正見や邪見などの数々の差別があるのです。ただし法華経ば
かりが釈尊の間違いのない正しい教えであり、三世十方の諸仏の真実の言葉なのです。釈尊は法華経以前の四十余年の教えを指して、
その多くの教えを「未だ真実を顕さず」と言われ、次に説く法華経を「当に真実を説くべし」と言われているのです。それに対して多
宝仏が大地より出現して「法華経はすべて真実である」と証明し、また分身の諸仏は、釈迦が法華経を説かれている場所に来て声を上
げて法華経が真実であることを証明しているのです。これは太陽や満月のように明らかな事なのです。
ただし、この法華経には二つの大事な事があり、それは理の一念三千と事の一念三千です。この法華経の大事である一念三千の法門は
、ただ法華経の本門の寿量品の文の底にのみ秘し沈められているのです。この一念三千は、十界互具から始まるのです。阿含経では、
地獄から天界までの六界までしか明らかにせず、声聞、縁覚、菩薩、仏の四界を無視して釈尊以外には、他の仏の存在を否定している
のです。すべての生命に仏性があると言う事さえ説いていません。
附仏教や学仏法成などと呼ばれる外道は、いったんは仏教を志して出家したものの道士と交遊して還俗し、正しい仏教の教えを盗んで
は、外道の邪典を書きかえるのです。そして仏教の高い教えを使って道教の低い教えにつけるのです。これを摧尊入卑と言うのです。
外道が仏教の教えを盗み入れたように、仏教の各宗派もこれと同様の状態になったのです。真言の善無畏や金剛智は、天台の一念三千
を盗み取って自分の宗派の根本となし、その上に印と真言とを加えて、法華経より大日経は勝れているとしました。そのいわれを知ら
ない真言の学者は、最初から大日経に一念三千の法門があると思っているのです。また華厳宗は、澄観の時に華厳経の「心は巧みな画
師のごとし」の文に天台の一念三千の法門を盗み入れ、人々はこれを知らないで、また澄観のいうことを正しいと信じているのです。
日本には、華厳が天台宗や真言宗の渡る以前に伝来しその後に伝教が日本に現れて破折され、中国から真言宗を伝えてた弘法さえも破
折され、日本国中一人も残らず天台宗に帰伏し、奈良の東寺を始め日本中の寺は、ことごとく、すべて比叡山天台宗の末寺となったの
でした。その後、末法が近づくにつれて天台の深い教義は失われて、その結果、天台宗は、他宗に言いくるめられて最後には、邪宗の
勢いに及ばなくなってしまったのです。それのみならず、とるにたらない禅宗や浄土宗という新興宗教にまで攻められて、はじめは檀
家が次第にそちらへ移り、最後には、天台宗の高僧と仰がれる人々でさえ、何を信じているのかすら、わからなくなってしまったので
す。その間の戦乱によって他宗でさえ信者を失い、日本国には仏法が消え失せてしまいました。天照太神や正八幡、山王などの諸々の
守護の善神もこの国から去って悪鬼は便りを得て、国は、すでに三災七難によって滅びようとしているのです。
【3】二乗の不作仏について
ここで法華経以前の四十余年の間の教えとその後の法華経八年の教えとの相違を考えてみると、二乗作仏と久遠実成なのです。
法華経の現文を読むと二乗である舎利弗は、華光如来、迦葉は光明如来という仏になるとされており、この釈尊が「ただ一大事の因縁
によってこの世に出現せられた」と法華経方便品に書かれていて誰が、その事を疑うのでしょうか。しかしながら、爾前経もまた仏の
言葉であるのです。華厳経には二乗は永久に成仏することが出来ないと言われています。二乗は、二百五十の戒律を守り、数々の誘惑
を断ち切って修行し、三界の見思惑を断じ尽したのですから、当然、知恩、報恩の手本であるべきでしょう。それなのに二乗を不知恩
の者であると釈尊は、決めつけられているのです。その理由は、結局は、父母を成仏させる事が出来ずにいるからなのです。
二乗の善と凡夫の悪とを比べてみると凡夫の悪は仏にiなる原因になっても二乗の善では仏種にならないなのです。多くの小乗経では
、悪を戒めて善を褒めました。しかし、この経では二乗の善をそしり凡夫の悪を褒めています。これでは、とても仏の言われている事
とも思えません。しかし外道が言う矛盾に満ちた言葉に思えますが、結局は二乗が永遠に仏になれない事を強く言われたいのでしょう
。二乗は、仏種をすべて焼き尽くしてしまっていると言う事なのです。
煩悩を断じ尽くした声聞では、その仏を求める心が起きようがないのです。なぜかというと見思惑を断じ尽してしまうと三界に生まれ
て来ることが出来ないので、さらにその上の法を求める事が出来ないのです。五逆罪の者であっても仏法の浅深を聞いてその最高のも
のを求めれば、かえってその罪によって仏となる事が出来る。しかし完璧な阿羅漢は、その最も尊い仏法を持つことが出来ない。二乗
に布施を施す者、供養する者は三悪道に堕ちる。ようするに迦葉、舎利弗などの聖僧を供養する人界、天界の者は、必ず三悪道に堕ち
てしまうと言う事なのです。みんな、これを聞き一人も残さず声聞は成仏せず供養してはならないと知ったのです。
このように法華経以前の大乗経においては、二乗不作仏を説き続けて来たのに、その後の法華経の説法で二乗作仏を説かれてどうして
法華経の説法を信じる事が出来るでしょうか。そのような説法は、信用出来ない上に、まったく矛盾しており、この自語相違によって
法華経を聞く人々の不審は晴れず、興冷めしているその時に、突然、釈尊の前に宝塔が大地より現れて大空に向かってそびえ立ち、空
中に浮かび上がって停止し、その宝塔の中から、多宝如来の声が聞こえ「釈尊の説くところはすべて真実である。」と述べたのです。
このように法華経は真実なりと証明されているのです。しかし、この時に多くの人々は、釈尊に魔が取り付いたのではと思い、未だに
法相、三論、真言、念仏などの者達が、これらの経と法華経が同じと思っている事は、まことに驚くべき事なのです。
【4】久遠実成について
それでも釈尊が在世の間は、法華経を信じる者もあったでしょうが、仏滅後では、法華経を見聞きして信じる事は非常に難しい事でし
た。釈尊は、爾前経と矛盾する法華経を説く大嘘つきであり、まったく信ずる事が出来ず、あえて信じるとすれば爾前経を信ずる事に
なるでしょう。それだけ法華経は、信じられず、今の世の中でも、法華経を信じているようで、ほんとうは法華経を信じてはいなので
す。たとえ信じていると口では言っても、それは心にもない事なのです。
日本国に仏法が渡って七百余年になりますが、その中で伝教のみが、法華経の意味を理解した事を人々は信じていません。法華経には
「如来の滅後、法華経を説く事は、非常に難しい。」と説かれています。日蓮が法華経を正しいと言っても他の者が信じないのは、ま
さしく、この文と一致しているのです。法華経の弘通を明かす涅槃経に「末法の濁った世の中では、謗法の者は、四方の土のごとく多
く、正法の者は爪の上の砂のように少ない」と書かれている事は、まったく今の日本国の姿ではないでしょうか。日本の多くの人々は
、爪の上の土か、日蓮が四方の土か、よくよく考えてください。
釈尊はインドに生まれ、最初に華厳経で直達正観、即身成仏の大法を説いたのでした。どうしてこの華厳経で二乗作仏と久遠実成を隠
す必要があったのでしょうか。華厳経の「心と仏と衆生の三つは、すべて一体である。」と言う文は、華厳経の極理であるばかりでは
なく、法相宗、三論宗、真言宗・天台宗の極理でもあるのです。これほどの優れた経に二乗は成仏しないと説かれており、その上にそ
の中で久遠に成仏したことを法華経寿量品まで隠されているのは、なぜなのでしょうか。実に不思議な事ではありませんか。
驚くべき事に法華経の序分である無量義経においても「末だ真実をあらわさぬ法門である。」「歴劫修行では、永久に成仏できない。
」と今までの教えを否定しているにも関わらず、華厳経と同じようにインドに生まれて始めて仏に成ったと言っているのです。である
から弥勒は、突然、地面から涌き出て来た大菩薩たちの事をどうしてこの短い間に仏教に導く事が出来たのですかと尋ねたのです。そ
こで釈迦如来は、実に成仏してより以来、無量無辺百千万億那由佗劫であると答えたのです。
これらの爾前の経々には、二つの間違いがあり、一には、二乗は作仏せずと説いて一念三千を隠してしまい、二には、釈尊がインドに
生まれて成仏したと言って久遠実成を隠しているのです。この二つの大法は、一代聖教の骨格であり、すべての仏教の心髄なのです。
本門の十界の因果を説き現したのです。これこそが本因であり、本果であるのです。九界と言っても元からある仏界に具し、仏界と言
っても元からある九界に備わっているのです。これこそが真実の十界互具であり百界千如であり一念三千なのです。
日蓮がここで考えるのには、法華経方便品にある二乗作仏ですら、みんなが爾前経にあるように成仏出来るはずがないと思っているの
ではないでしょうか。さらに法華経本門の寿量品にある久遠実成は、さらに信じ難いことでしょう。本門十四品の中でさえ、涌出品、
寿量品の二品を除いては、みんな始成正覚の思想があるのです。その為、三身の常住は、まったく説かれていないのです。どうして多
くの経を捨てて、わずか涌出品と寿量品の二品だけを信ずることが出来るでしょうか。
そういう事で法相宗という宗派では、このように言っているのです。この宗派では「法華経の文に依って二乗作仏と唱えていますが、
実は、天台や妙楽や伝教の間違った独りよがりの見解を信じて経文を読むから爾前経は二乗不作仏であると見てしまい、その内容が水
と火のように相容れないものと思いこんでいるのです。」と主張しています。
また、華厳宗と真言宗は、法相や三論には似るべくもない優れた宗派です。二乗作仏と久遠実成は、法華経に限らず華厳経と大日経に
も書かれているのです。華厳宗の人々や、真言宗の人々は、天台大師や伝教大師とは比較にならないほど位が高い人であり、その上、
善無畏などの真言宗の人々は、大日如来より直系の相承があるのです。ですから華厳経には「釈迦が仏道を成就し終わって後に、理解
出来ないほど長い間、相承されているのを見ました。」と書かれ、また大日経には「私がすべての本来の源であるのです。」と説かれ
ています。どうして久遠に成道したと説く経文が法華経寿量品だけに限ると言えるのでしょうか。
このように法華経は、信じ難く、いよいよ末法に入れば、聖人や賢人は、いなくなり、逆に仏法に迷う者が多くなって来ました。せっ
かく仏法を学んだのに外道の教えを仏法であると信じた者を賢い仏法者と思うように、大乗経と小乗経すら理解できず、 権教と実教
の違いがわからずにいるのです。日本などは、遠くて言葉も違うので人の理解力も落ちており、貪しく怒りっぽく浅はかであるという
三つの毒にも犯されているのです。釈尊がこの世を去って長い年月を経過し仏教は、みんな誤って伝えられているのです。
【5】法華経の行者の証明
このような状態に日蓮は、心を痛めているのです。法然などが法華経を素晴らしいと強く褒めあげ、その一方で理解力が乏しい末法の
人々は、法華経のような難しい経では、未だに成仏した者はいないとか、千人に一人も成仏する事はないと言われて、過去において、
数限りなく騙され続けて、法華経を捨て結局は地獄、餓鬼などへと落ちてしまった事を今世で始めて気付いたのです。この事を少しで
も言い出したならば、父母、兄弟はおろか世間や国王から迫害を受ける事でしょう。法華経、涅槃経を見てみると、言わないならば、
今生には、何事もないけれども、後生は必ず無間地獄に堕ちる。しかし、言えば、三障四魔が競い起こって大変な事になると書いてあ
るのです。そこで今度の人生こそ、いままでにない求道心を起こして、いかなることがあろうとも、絶対に退かないと誓ったのです。
すでに、日蓮は、建長五年以来、二十余年の間、数々の難が起きているのです。少難は、数知れず、二度は、流罪の大難を受け、今度
こそは、生きている事が不思議なくらいなのです。しかし法華経法師品に「讒言によって、その悪行を列挙し邪宗を信じていると糾弾
する。」「権力者や大衆に迫害されて、度々、所を追われる。」「杖や木や瓦や石で打ち払う」と書かれていました。伝教大師の法華
秀句に「大白法が広宣流布される時期は、像法の終わり末法の始めであり、その国を尋ねるならば、中国の唐の東でロシアの沿海州の
西にあたり、その時代は、五濁悪世、闘諍堅固の時代である。法華経には、如来がいる時ですら怨嫉が多いのに、ましてや滅後は、も
っと甚だしいと書いていますが、この言葉は、実に理由のある事なのです。」とあります。
現在は、末法の初め二百余年にあたり、仏の予言通り日蓮を流罪にし命さえ奪おうとしているのです。そうであれば、日蓮は、法華経
を理解する能力は、天台や伝教に及ぶ事はないけれども、難に耐え慈悲の優れている事は、天台や伝教よりも上ではないでしょうか。
法華経の第五の巻、勧持品にある、仏滅後に大菩薩が法華経を説くと予言した二十行は、日蓮がいなければ、嘘となり、それに「刀杖
瓦石」ともあり、ただ日蓮一人がこれを身で読んだのです。現在、日蓮が出現して法華経の行者となり、三類の強敵が現れていなけれ
ば、誰がその釈尊の予言を真実とする事が出来るのでしょうか。願兼於業であれば幕府の迫害も喜ばしい事に思えるのです。日蓮もま
たこの通りであり、現在の大難は、成仏の因と思えば、かえって喜びとなるのです。
しかし、現在、世間の人々だけではなく、自分自身でも疑わざるを得ないような危機的な状態であるのに、どうして諸天善神が助けよ
うとしないのでしょうか。諸天などの守護神は、釈尊の前で法華経の行者を守護すると誓ったので、法華経の行者であれば、たとえ行
者が猿の姿であったとしても法華経の行者であると名乗れば、すぐにその仏前の誓いを実行するべきであるのにそれがないのは、私が
法華経の行者でないのでしょうか。この疑問は、この開目抄の首題であり、日蓮の人生の最大事であるのです。
このように、もし、法華経が説かれなかったならば誰も二乗を敬わないのです。また、釈迦滅後に一千の声聞が一切経を結集したと言
っても誰も信じないでしょう。その声聞がどうして法華経の行者を捨てる事など出来るでしょうか。すべての声聞は、爾前の経では、
肉眼の上に天眼、慧眼を得たのですが、その上で法華経では、法眼と仏眼を得たのです。たとえ、日蓮が悪人で百千万億劫の間、これ
らの声聞に悪口を言い罵倒し続け、刀や杖で叩いたとしても、日蓮が法華経の行者であるならば、捨て去る事はないのです。
【6】権経と実経について
そうであればこそ法華経信解品に、四人の大声聞は「私達は、今こそ真の声聞となり、仏の言葉によってすべてを理解し、真の仏法者
となったのです。世尊は、大変な恩人であり、有り得ない力によって導かれ、私達に利益を与えられたのす。無量億劫の間、すべてを
以って供養したとしても、この恩を報いる事は出来ないです。」と言っているのです。それでも、これらの声聞たちは、爾前経におい
ては、数々の叱責を受け続け集会の中で、恥辱の思いを数知れず受けたのです。すべての大声聞は、過去は外道の指導者であり、国王
に帰依され、多くの信者に尊ばれましたが、これらの栄誉や財産を打ち捨て、慢心を打ち破り粗末な衣を身にまとい、仏道修行に励み
貧乏人や乞食のようになって、家もなく、食料のあてさえなかったのです。その上、このように時に集会において釈尊からも不成仏の
者と度々、呵責され続け、声聞に布施する者は、三悪道に堕ちると説かれたのです。これを聞いた人々が声聞に供養するはずがなく、
仏は、言葉によって弟子を殺そうとしているのではと怪しみました。
そうであれば、爾前経のみを説かれ、法華経の説法がないまま、釈尊が入滅すれば、誰がこの声聞たちに供養をするでしょうか。おそ
らく、供養する者もなく、二乗は、餓鬼道に堕ちる事でしょう。日蓮が法華経の行者であるならば、これらの聖者は、例え、大火の中
でも、大石を通リ抜けてでも、助けに来るべきでしょう。それとも現在が後五百歳ではないのか、それとも広宣流布は嘘なのか、それ
とも日蓮が法華経の行者ではないのか、末法濁世の大難の激しさを見て、諸天が怖れをなして日蓮を守護しないのでしょうか。法華経
の行者にさっぱり守護がないというのは、一体、どういう事なのかと大いなる疑問が、いよいよ強まって来るのです。
また、大菩薩や天界人界の人々は、爾前経で成仏すると説かれていますが、これらは、釈尊の教えではなく法慧菩薩などの教えである
のです。これらの大菩薩は、釈尊の弟子であるように見えますが、ほんとうはこれらの大菩薩は釈尊の師であると言えるのです。華厳
経には、これらの菩薩を数え上げて善知識であると説かれているのはこの故なのです。そうであれば、四十余年の間は、釈尊は法慧菩
薩などの弟子となってしまうのです。
釈尊が「四十余年の間には、未だ真実を現していない」と打消した理由はここにあるのです。その時に多くの大菩薩は、慌てて「それ
では真実の教えは、どこにあるのですか」と質問したのです。無量義経には、真実と思える事が「無量義は一法より生ず」と、ただ一
言だけ説かれていますが、まだその実義は現れていないのです。法華経方便品第二の略開三顕一の時、仏は略して一念三千を説き、心
の中の本懐を述べられましたが、舎利弗などは、驚いて釈迦牟尼仏に対して真実の教えを求めたのです。この「具足の道を聞かんと欲
す」と言う問いに対して「薩とは、具足の意味である」、「沙とは訳して六という。インドでは六をもって具足の意味となす」、「沙
とは、訳すと具足となる」と説かれているのです。天台の玄義の八には、「薩とは梵語であり、中国の言葉では妙と訳すのです」と書
かれています。真言、華厳、その他の宗派の元祖である竜樹菩薩が大智度論千巻の主題として「薩とは六である」と書かれています。
妙法蓮華経の上に南無の二字を置き、南無妙法蓮華経と言うのがこれなのです。妙とは具足と言う意味であり、六とは、菩薩の修行が
完成した六度万行の事です。具とは十界互具であり、足とは十界のおのおのに十界を具足するので、そのままで他の九界をそなえてい
るという意味です。十界は、すべて、それぞれの界に仏界を現しているのです。釈尊は、その意味について「衆生をして仏知見を開か
しめんと欲す」と答えられており、この衆生というのは、舎利弗の事であり、また衆生というのは九法界であって仏のすべての衆生を
救済すると言う誓いがここで成就したのです。それで「一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す」と説か
れているのです。すべての大菩薩や諸天などは、この法門を聞いて「私達は、過去より、しばしば釈尊の説法を聞いていましたが、未
だかつて、このような深くて妙なる素晴らしい法を聞かなかった」と言われました。伝教大師は、これについて、未だ仏教の一番大事
な一念三千の主題、骨格である二乗作仏と久遠実成とを未だに示されていないという意味であると言われています。
【7】開近顕遠を示す
開目抄下(御書549頁)
ここですべての大菩薩も梵天、帝釈、日天、月天、四天なども教主釈尊の弟子であることが定まり、そうであればこそ宝塔品で、これ
らの大菩薩に「私の滅後に誰が法華経を護持するのか。今ここで自ら進み出て誓いを述べよ」と仰せられ、それに対して、すべての大
菩薩達が誓いを立てたのです。華厳経で現された蓮華蔵世界は娑婆世界とは別であるとされ、大日経や金剛頂経の胎蔵界曼荼羅や金剛
界曼荼羅の仏菩薩も三身円満の古仏ではありません。釈迦がインドで成仏した仏であるならば、その弟子が十方の国土に充満するわけ
もなく、天台は「分身がすでに多いことを見て成仏の久しいことを知るべきである。」と述べられているのです。
その上、地涌千界の大菩薩が大地より出来し、その姿は、華厳、方等、般若、法華経の宝塔品に来集した大菩薩や大日経などの大菩薩
に比べると猿の群がっている中に帝釈天が来たようなものだったのです。釈迦の後を継ぐと言われた弥勒ですら、なお地涌の菩薩の出
現に驚き、それ以下の者の驚きと当惑は大変なものでした。この地涌の菩薩の中に上行、無辺行、浄行、安立行の四人の指導者がいま
した。それらが実に堂々として尊貴であったので、すべての衆生が善知識として敬ったのでした。そこで弥勒菩薩は「この地涌の菩薩
は、未だ見た事がない方々であり、突然、大地より涌き出て来られたのですが、その理由を教えてください。」と尋ねたのです。
仏は、弥勒菩薩の質問に答え「これらの大菩薩達は、私がこの娑婆世界において久遠の過去より教化して来たのです。」と涌出品に説
き、略開近顕遠を明かされているのです。弥勒菩薩は疑って「釈迦牟尼仏は、王子であった時に宮殿を出で、その伽耶城の近くで悟り
を開かれたのです。それより、これまで四十余年を過ぎたのですが、いったい、どうやって、この期間にこの偉大な菩薩大衆を指導し
たのでしょうか」と尋ねたのでした。この疑問こそ最大のものでした。それでも涌出品におけるこの弥勒の疑問には及ばないのです。
そうであれば、仏がこの疑いを晴らさない限り、一代の聖教は、すべて泡沫となり、すべての衆生は、疑心暗鬼の網にかかって成仏出
来ないのです。ですから、この疑いに正しく答えられた寿量品が最も大切である理由がここにあるのです。
その後、仏は、寿量品に「すべての世間の天人および阿修羅は、釈迦牟尼仏が宮殿を出でてその伽耶城の近くの道場に座って悟りを得
たと思っている。」と説かれました。この文章は、最初の寂滅道場より、終わりの法華経の安楽行品、第十四までの、すべての大菩薩
たちの考えを述べているのです。その後の「しかし、諸君、私は、実に成仏してより以来、無量無辺百千万億那由佗劫なのです。」と
説き明かされたのです。この文章は、華厳経、阿含経、浄名経、大集経、大日経、仁王経、無量義経、法華経方便品の説法をわずか一
言で大嘘であるとする文章なのです。
このように釈尊の過去が示される時は、諸仏は、釈尊の分身であり、爾前経や法華経の迹門の時には、諸仏は、釈尊と一緒に修業をし
た仏なのでした。ようするに華厳の台上の仏も方等、般若、大日経の諸仏もすべて釈尊と同等なのでした。釈尊が三十歳で成道した時
に、初めて、それまで大梵天王や第六天など魔王が治めていた娑婆世界を、釈迦牟尼仏が取り戻したのでした。寿量品では、十方の浄
土は、すべて娑婆世界の事であり、寿量品の仏は、久遠の本仏であるので迹化の大菩薩も、他方国土の大菩薩も、教主釈尊の弟子とな
るのです。今、久遠実成が現れて見れば、東方薬師如来の弟子、西方阿弥陀如来の弟子、その他、十方世界の諸仏の弟子や、大日経、
金剛頂経の大日如来の弟子たる諸大菩薩などは、すべて教主釈尊の弟子とわかったのです。また、娑婆世界に初めからいる日月や星な
どは、教主釈尊の弟子である事は、言うまでもない事です。
このように天台宗以外の諸宗はみな本尊に迷っており、倶舎、成実、律の三宗は、小乗経で説くインドで成仏した釈尊を本尊としてい
るのです。浄土宗は、釈尊の分身である阿弥陀仏を現世の仏であると思って、ほんとうの教主たる釈尊を捨てているのです。禅宗は、
下賤の者がその下の者を見下すように父母を卑しみ、仏を蔑み、経を侮っており、これらは、すべて本尊に迷っている姿なのです。例
えば、かつての中国では、父母への恩を報いず獣と同様であったように、寿量品の仏を知らない諸宗は、まさに畜生と同じで不知恩の
者なのです。
【8】諸宗を破折し正義を示す
真言や華厳などの経には下種、熟益、脱益の名前すら説かれていないのです。ましてやその意味が説かれているはずはないのです。華
厳や真言などの文章に一生初地という即身成仏の意義が説かれてあるのは、どこまでも現在だけに執着する権経であって過去を隠して
いるのです。華厳経や大日経、すべての大乗経の諸仏が成仏した種は、すべて法華経の一念三千なのです。天台大師のみが、ただ一人
この奥義を得られたのであって、諸宗の学者がこれを知るわけもありません。真言宗などの諸宗の学者は、伝教大師に会ってから、自
分の宗派の間違いに気付いたのです。
そうであれば、諸経の中のすべての諸仏、菩薩、人天などは、それぞれの爾前経で成仏したようではあっても、真実は、法華経で成仏
したのです。日蓮がこの道理によって考えると、華厳、観経、大日経など爾前経を修行する人を、その経の仏も菩薩も天人も守護する
のは間違いない事でしょうが、それらの者が法華経の行者に敵対するならば、彼らを捨てて法華経の行者を守護すべきでしょう。法華
経の諸仏、菩薩、十羅刹が、日蓮を守護するのは、当然の事であり、なおその上に浄土宗の諸仏、二十五の菩薩、真言宗の千二百など
、七宗の諸尊、守護の善神がすべて日蓮を守護しなければならないのです。しかしながら、いままで日蓮を守らないのは、日蓮が法華
経の行者ではないからなのでしょうか。そうであれば、もう一度、経文を読んで、我が身にあてはめてみるしかありません。
それでは、現在の念仏宗や禅宗などを、どのような理由によって法華経の敵とし、すべての衆生を不幸にする根源と断定できるのでし
ょうか。法華経の第四宝塔品には「仏滅後にこの正法の長く流布する事を求めているのです。」と説かれ、これが、第一の仏の意志、
勅命なのです。また同じく宝塔品に「どうして自らすすんで名乗り出ようとしないですか。」と言われたのです。これが、第二の仏の
意志、勅命なのです。また「一人にだけでも法華経を説く事は、難事中の難事なのです。」と言われたのです。これが、第三の仏の意
志、勅命なのです。第四、第五の二箇の仏の意志、勅命は、提婆品にあり、次第に追って述べていきます。
この宝塔品の心は、明々白々であるのです。しかし、そうであっても、まったく常識がない者、ただの自己満足の者、偏った思想に執
着する者には、この明らかな事実すら見えないのです。ただ、どんなに困難な状態においても真実の仏法を求める者だけにそれを教え
ようと思うのです。日本国において、この法華経が正しくその意義を現されたのは、わずか二度だけであり、それが出来たのは、伝教
大師と日蓮の二人だけなのです。
釈迦如来の遺言には、仏が説かれた経文の理論によって正邪を決め、人師や論師を基準にすべきでないと説かれています。遺言である
涅槃経の四依「人より法、語より義、識より智、不了義経より了義経」の内、「人」とは、等覚の菩薩のことで、経の内容で説明が出
来ないのであれば、これを用いてはならないとの意味なのです。また「了義経に依って不了義経に依ってはならない」と言うのは、経
文には、それぞれに相対性や対称性がある事を知って理解すべきという事です。華厳、法相、真言など人師は天台宗の正義をねたみ、
法華経の文を自らの信じる経の奥義を現しているとする邪見が強盛なのです。しかし、真実の仏法を求める人は、そのような偏頗な考
えを捨てて、自宗だ他宗だと争うことなく、人を軽蔑するような事はしてはならないのです。
【9】経文の勝劣について
法華経には「過去(すでに)、現在(今)、未来(まさに)」と説かれており、経文に諸経の王であると書かれていても、過去、現在
、未来において第一とは、書いてありません。また過去、現在、未来の中で第一は、法華経であるのに、この事を頑迷に否定し、その
謗法の罪によって、長く苦しむのです。この経文の解釈を肝に銘じ、経文や人師の解釈を読むと、初めて、そのすべての疑問が解ける
のです。数多くの衆生に対して、一劫の間、多くの娯楽を供養するとしてもその功徳は、それほど優れたものではない。この法を信ず
るのは、それ以上に莫大な功徳となると説かれているのです。この多くの大乗方等経典は、無量の功徳を成就するけれども、涅槃経の
功徳と比較するならば百倍千倍百千万倍としても、まだ及ぶ事が出来ないほどに優れているのです。
四十余年の経それそれに書かれた讃嘆文と法華経の「已今当説最為第一」「六難九易」の文を比較すると月と星、丘と須弥山のような
ものなのです。しかし、華厳宗、三論宗、真言宗の弘法などは、世間から智者と仰がれていますが、まだ、この文の意味がわからない
のです。諸経は、六波羅蜜経は有情の成仏は説いているが、無仏性の成仏は説かず、まして久遠実成など説いていません。どうして法
華経の迹門や本門に相対して論じられるでしょうか。諸経の優劣については、日蓮がはるかに優れているのです。それは、釈迦出世の
本懐たる法華経を正しく解釈した天台大師や伝教大師の後をそのまま継承しているからなのです。現在、日本国で一番、富める者は、
日蓮であるのです。なぜならば、命を法華経に奉り、名前を後世に留めるからなのです。
宝塔品にある滅後の弘通を勧めた三箇所の勅宣についで、提婆品にある二箇所の諌暁を引いて、一代諸経の成仏、不定仏を明らかにし
ましょう。提婆達多は、一貫して釈迦如来に反対した一闡提でしたが、法華経においては、天王如来になるとの予言がなされました。
涅槃経四十巻には、衆生には、すべてに仏性が有ると説かれ、一闡堤の成仏を説いていますが、その現証は、法華経の提婆品に示され
ているのです。諸経も女性の成仏往生を認めているようですが、一念三千の即身成仏ではないので有名無実の成仏なのです。今、法華
経の時に至って、始めて女人成仏が現実に現れて悲母も成仏し、また提婆達多の悪人が成仏する時に慈父の成仏も現実となるのです。
以上で二箇所の諌暁が終わったのです。
【10】三類の強敵について
以上のとおり、宝塔品の三ヶ所の勅宣と提婆品の二ヶ所の諌暁に驚き、勧持品において末法での弘法を誓ったのです。日蓮と言う者は
、去年の九月十二日に首を刎ねられたのです。そして魂のみが佐渡の国に来て、その次の年の二月にこの「開目抄」を雪の中で書き、
鎌倉の弟子へと送れば、この開目抄を読んで怖ろしい思いが、どんなにか怖ろしくなくなる事でしょうか。また、この開目抄をまだ読
んでいない人々は、今、どれほどに怖れている事でしょうか。これらの事は、釈迦、多宝、十方の諸仏の予言通りで、現在の日本国の
姿は、それを映す明鏡なのです。これこそ日蓮の遺言であると思いなさい。
現在の国中の禅宗、律宗、念仏宗を、この法華経の明鏡で照らすと、その謗法の醜くい姿が「法華経の怨敵が末法に三種類出て来る」
との予言で現されているのです。それなのに現在の日本に三類の法華経の敵人がいないという事があるでしょうか。もしこの予言が間
違っているならば、経文は、すべて間違いとなります。
経文の第一の「多くの無智の人」とは、経文の第二の「悪世の中の僧」と第三の「貧しい身なりの僧」の教えを信じている者の事です
。これを妙楽大師は「俗衆増上慢」と呼んでいます。妙楽は記の十に「おそらく法華経の真義を誤って理解する者は、題目を唱える功
徳が大きい事を知らないで、その功徳は、修行を積まないと顕われないと言って、題目の功徳をないがしろにするであろう。そうであ
るからこそ、初信者の修行がいくら浅くても、その功徳が莫大である事を示して法華経の実力を顕わすのです。」と書いてあります。
第三の強敵について、形ばかり仏法者である一闡提がいて、人々が仏法を学んでも仕方がないと誹謗し、仏教の事は、私達にまかせる
べきだと主張するのです。しかし、真の仏法者が、その意見を批判し、広く仏法を説き、衆生に対して、私は、あなた達と共に同じく
菩薩である。なぜならば、すべての衆生に如来の法性があるからであると主張するのです。しかし、それを聞いた多くの人々が、その
仏法者を一闡提と言うのです。この第三の僭聖増上慢が最もたちが悪いのです。世の人々に尊ばれて、謗法の重罪を作っているのに盲
信の者や、我見の者、狂信の者は、それがわからず、仏眼を得た者だけが、これを知る事が出来るのです。また「国王や大臣や婆羅門
、その信者が正法の行者を訴える。」と法華経に説かれています。いま末法の始めには、良観や念阿等などが、偽書を作って将軍家に
日蓮をそしっているのです。この連中こそ、まさしく三類の強敵ではないでしょうか。
【11】法華経の行者を顕わす
これらの大嘘が国中の人々を狂わせて来たのです。また天台、真言の高僧などは、名前だけは、天台宗や真言宗を名乗っておりながら
、自宗の主張や因縁をまったく理解していないのです。欲が深く、公家や武家を怖れ、法華経を誹謗する邪宗邪義に同調し、かえって
それを讃嘆しているのです。いま天台宗の学者達は「法華経は、理論が深くわずかの者しか理解出来ない」などの邪義に惑わされ承服
してしまっているのです。この為に日本には、ただ法華経の名前だけあって実践する者は、誰もいないのです。その中で誰が法華経の
行者であるのでしょうか。公家や武家にへつらって庶民から憎まれる高僧ばかりで、これらを法華経の行者と言えるでしょうか。
仏の予言は、嘘ではないので三類の怨敵はすでに国中に充満していますが、その一方で、仏の言葉なのに法華経の行者が見当たらない
のです。これは、どうした事でしょうか。そもそも誰人が法華経の勧持品の予言の通りに衆俗に悪口を言われ、軽蔑されているでしょ
うか。どの僧が刀や杖で叩かれているのでしょうか。どの僧が法華経の故に公家や武家に訴えられたのでしょうか。どの僧が、しばし
ば住む場所を追われ、たびたび流罪されているのでしょうか。日本の中で日蓮以外にいないではないですか。しかし日蓮は法華経の行
者ではありません。なぜなら天がこれを捨てて助けようとしないからです。そうであれば法華経の行者は誰なのでしょうか。求めて師
としたいものです。それは、あたかも千年に一度、海底から浮かび上がる一眼の亀が、浮木に逢うような有り得ない事なのです。
それでは、なぜ諸天の加護がないのかと言うと、心地観経には「過去の原因を知ろうとすれば現在の結果を見よ。未来の結果を知ろう
とするなら現在の原因を見よ。」と説かれています。つまり次の世で地獄に堕ちる事が決まっている者は、現世には現罰がないのです
。また、守護の善神がこの国を捨て去った為に現罰がないのでしょう。謗法の世を国土守護の諸天善神が捨て去った為に、正法の行
者には一向に加護がなく、ますます大怨嫉を受けて大難に遭うのです。これは現在の日本の事を指しているのです。まさに日本は、謗
法の国であり、現在は、濁悪の末法なのです。この事は、立正安国論に詳細に書いておいた通りなのです。
結局は、仏に成る為ならば、天も捨てよ、難にも遭え、身命を惜しんではならないという事なのです。多くの人々が、久遠の昔、三千
塵点劫、五百塵点劫の過去に法華経に会いながら、それを捨てたのは、悪知識にあったからなのです。それが、たとえ善い事であった
としても悪い事であったとしても法華経を捨てる事は地獄の原因となるのです。いまこそ大願を立てて、日本の王位を譲ろうと言われ
ても、逆に父母の首をはねると脅されても、また、その他のいかなる大難が起きようとも、智者に自分の論理が破られない限りは、絶
対に従ってはなりません。智者に自分の論理が破られる事以外の大難は、風の前の塵のように問題にならない些細な事なのです。「日
本の柱と成ろう、日本の眼目と成ろう、日本の大船と成ろう」との主師親の仏としての誓いは、絶対に破る事はないのです。
仏法の鏡は、過去世の業因を現在の自分の身体に映し現わすのです。この罪の報いを、現世に軽く受けてなくす事が正法を護持する者
への功徳なのです。この経文は、日蓮にぴったりと符合しているのです。そうであれば、疑問は、たちまちに消えて現在の千万の難も
当然であると理解出来るのです。また成仏する者には、必ずや三障四魔が紛然として競い起こると説かれています。権経を修行してい
たのでは、この重罪を現世に消す事が出来ないから、その為に大難を受ける事がないのです。今、日蓮が強盛に日本の謗法を責めた為
に、この大難が来たのであり、それは、法華経誹謗の過去の重罪を今生において法華経を護る功徳力によって招き寄せたのです。
【12】折伏こそ時に適うを明かす
現世に引き継がれる過去の業は、六道であっても仏界にあっても変わる事はないのです。ただ天台の一念三千こそ成仏の唯一の道なの
です。しかし、この一念三千についても、私達には、少し理解する智慧さえないのです。この法華経では、たとえ愚人であっても仏に
なる原因を作る事が出来るのです。このように、日蓮や日蓮の弟子は、いかなる大難があろうとも、疑う心が生じなければ自然に仏界
に至るのです。現世が安穏ではないからと言って嘆いてはなりません。しかし、このように弟子に朝晩のように教えて来たのに、みん
な疑いを起こして退転してしまったのです。不甲斐ない者の習いとして、何もない時に約束した事を、何事か起こると忘れてしまうの
です。まず自分自身が法華経の信心を捨てずに即身成仏し、妻子を導き、助ける事が共に成仏する唯一の道ではないでしょうか。
しかし、念仏者や禅宗などを無間地獄だと決めつけるのは修羅道へ堕ちる行為であり、他宗を攻撃するから、それで諸天善神の加護を
受けられないのでしょうか。それでも仏法を破壊する人を必ず折伏せよと法華経に書かれており、邪智、謗法の者が多い時は、折伏を
第一とすべきなのです。末法でも摂受と折伏の二門があるのですが、無智悪人の悪国と邪智謗法の破法の国で別れるのです。であるな
らば、日本の現在は、悪国か破法の国かを考えれば、邪智謗法の国であることは、間違いないので折伏でなければなりません。
摂受でなければならない時に折伏を行じ、折伏でなければならない時に摂受を行じてしまえば、なんの利益もありません。
たとえ一念三千の観念観法をこらしても摂受と折伏の立て分ける事が出来なければ、どうして生死を離れることが出来るでしょうか。
謗法を破折しなければならないことは、涅槃経に「もし僧侶が法を破る者を見て、そのままにして置いて、呵責し、駆逐し、処罰なければ、
この人は仏法の中の仇である。もし、よく駆逐し呵責して処罰するならば、これこそ仏の弟子であり、真実の声聞なのである。」
と説かれている通りなのです。
諸仏が法華経の会座に集まって来られたのは、すべての衆生に大きな利益を与える法華経を未来の衆生へ弘める為であり、現在の日本の
禅や念仏を見て破折しない者は「慈悲の心がなく偽り親しむとは、すなわち、その人の仇である。」との仏の言葉をよくよく考えるべきです。
それを考えれば、日蓮は、日本国の人々にとって、主であり、師であり、親であるのです。
たとえ法華経を読んでいても、偽り親しむ者は、すべて一切衆生の大怨敵であるのです。仏法は、まさに時に依るべきなのです。
日蓮は、時に適って折伏を行じており、それが原因で流罪されているのであり、その苦しみなどまったく些細な事で嘆く事など何もないのです。
後生には、大きな安楽を受けるのですから、大いに悦ばしい事なのです。