御書研鑚の集い 御書研鑽資料
選時抄 1 背景と大意
選時抄(御書834頁)
撰時抄の題名は、大聖人が自らが決められたもので、建治元年(西暦1275年)六月十日、日蓮大聖人が五十四歳の時、身延において認〔したた〕められたものです。
御真筆は、百十紙の内、百七紙が六老僧の中のひとり、日昭が開いた静岡県の日蓮宗玉澤妙法華寺〔たまざわみょうほっけじ〕に現存し、残りの二紙が京都府の日蓮宗立本寺などの四カ所に、後の一紙が無くなっている状態です。身延の日蓮宗久遠寺には、かつて妙法華寺本とは、別の御真筆が残されていましたが、明治八年(西暦1875年)の大火で焼失してしまいました。
第二祖日興上人は「富士一跡門徒存知事」に本抄を御書十大部の一つに選定されると共に、日興上人の遠縁にあたる「駿河の国西山由比某」(御書1870頁)に与えられた御書であることが記されています。
総本山第二十六世日寛上人は「撰時抄愚記」に本抄の題名を通別の両釈から、「撰」は、「撰捨」、「撰取」。「時」は、正像末の三時の事であり、「撰」は、「撰取」であり、「時」は「末法」と定められ、題号の本意は、正像二時を「撰捨」し、ただ末法の時を「撰取」する事にあると御教示されています。さらに、別しては、末法の「時」を「撰取」する本意に、一には必ず「文底深秘の大法」が広宣流布する事、二には「大聖人をもって下種の本尊」とすべき事の両意があると御教示されています。
また、題号の下に自署された「釈子日蓮述」の「釈子」について、蓮祖は、「本化の再誕」「能く正邪を糾す」「謗法を呵責」「此の経を読持」の四項以外に、これ「本因妙の釈尊」である故に(文段291頁)とその理由をあげられています。「本因妙の釈尊」とは、文底下種仏法の釈尊の意味で、日蓮大聖人こそ末法の御本仏であるという意味です。
本抄では、その題名が示す通り、仏法を学ぶ時は、必ず時を習うべきであると御教示され、出世して十小劫の間、一経も説かずに時を待った大通智勝仏、成道してから四十余年の間、法華経を説かなかった教主釈尊、兜率天の内院に籠って出世の時を待った弥勒菩薩などの事例をあげられています。ましてや仏法を修行するときには、時を知り、いかなる経文に依るかを糾〔ただ〕す事が重要であることを御指南されています。現在においては、日蓮大聖人の仏法だけが時に適っており、日蓮正宗の甚深の教義だけが正しい事を知ることが、経を糾すことになるのです。
釈迦牟尼仏が最初に説法をした華厳経の寂滅道場においても、十方の諸仏、優れた機根の大菩薩たちが集まったにも関わらず、仏は、二乗作仏、久遠実成を隠して、その名すら秘していました。即身成仏、一念三千の肝心のその義を述べず、その理由を法華経方便品第二では「説く時が、いまだ至らざるゆえ」と説いてあり、ようやく、法華経の霊鷲山会〔りょうじゅせんえ〕で同じく方便品で「今正〔まさ〕しく是〔これ〕其の時なり、決定して大乗を説く」と説いて、親不孝の代表である阿闍世王や、謗法の代表である提婆達多などの下劣の機根の者に、九界即仏界、仏界即九界の一念三千を説かれた事を示して、仏教は、機根ではなく時を基準として、説くべき経文がある事を明かされています。法華経を説くか説かないかは、経文によって両説があり、時が至らざれば説かず、時に適うのみであると述べられているのです。
そして、どのような時に法華経を説くべきなのかとの質問に、大集経では、釈迦滅度の日から最初の五百年間を解脱堅固、第二の五百年間を禅定堅固、第三の五百年間を読誦多聞堅固、第四の五百年間を多造搭寺堅固と定められ、第五の五百年間には、闘諍堅固となり、像法時代の日本に出現した法然が考えるところによると、天台、真言、律の諸宗は、最初の五百年間から第四の五百年間までの正像二千年の正しい仏教、白法であって最後の第五の五百年間の末法においては、法華経では、たとえ行ずる人があっても一人として生死を離れる事が出来ず、この事を曇鸞、道綽、善導が難行道、未有一人得者、千中無一と云って、浄土の三部経、弥陀称名の一行だけが大白法として出現し、これを行ずる者は、いかなる悪人、愚人であっても、十即十生、百即百生、唯浄土一門と云い、通るべき道は、これだけであると主張したのです。日本国一同に、この義になって五十余年が経ち、末法の始めに日蓮大聖人がこの悪義を破り、確かに現在は、間違いなく大集経で説かれる五の五百歳の末法ではあるが、釈迦仏法である白法が隠没する今こそ法華経の肝心である南無妙法蓮華経が広宣流布される時であると明かされたのです。
また、第五の五百歳について、法華経第四巻に「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」とあり、同じく第五の巻には「一切世間に怨多くして信じ難し」また「悪世の中の比丘」、「或は阿蘭若に有り」、「悪鬼其の身に入る」とあり、この五の五百歳には、悪鬼の入った僧侶が国中に充満し、その時に一人の智者が現れ、その智者は、法華経を弘める故に時の権力者や悪鬼の入った僧侶によって王臣、万民から悪口罵詈され、杖木瓦礫され、流罪、死罪に及ぶと説かれており、釈迦、多宝、十方の諸仏が地涌の大菩薩などに命じられ、梵天、帝釈、日月天、四天などによって多くの天変地夭が起こり、それでも国主がその諫めを聞かなければ、他国の国王に仰せつけ、前代未聞の大闘諍が一閻浮提に起こり、その時に智者を迫害した多くの者たちが、一切の仏、菩薩に祈るとも、その験〔しるし〕なく、最後には、自らが憎む一人の智者を信じて一同に南無妙法蓮華経と唱えると仰せになっているのです。
伝教大師は、「末法太〔はなは〕だ近きに有り」と嘆かれ、梁の武帝の発願の文には「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし。寧ろ提婆達多と成って無間地獄には沈むとも欝頭羅弗〔うずらんほつ〕とはならじ」と日蓮大聖人の仏法に巡り合える末法に生まれあわせる幸運を述べられています。
しかし、そのような中で、玄奘三蔵という人が中国からインドに渡り、多くの経文を持ち帰り、華厳第一、法華第二、涅槃第三と立てました。その後、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵が、大日経、金剛頂経、蘇悉地経をインドから中国に持って来て、真言宗を立てました。この宗の立義では、教文に二種類あり、一には、釈迦の顕教、つまり、それが華厳、法華であり、二には、大日の密教、つまり、それが大日経である云うのです。
さらに像法八百年間の多造塔寺堅固の時代、日本国に伝教大師最澄が現れ、桓武皇帝の前で奈良の六宗の碩学と討論をして、比叡山に法華経の円頓戒壇を建立したことを挙げ、これは、釈尊滅後一千八百年間、インドにも中国にも全世界の何処にも未だ、なかった法華の大戒が、日本国に始められたものであり、そうであれば、伝教大師は、インドの竜樹、天親、中国の天台、妙楽よりも優れた聖人であると述べられ、そして、この日本国に円頓戒壇が立てられたからには、伝教大師の弟子でないもの者は、すべて外道であり、悪人であると云われているのです。しかし、この時は、いまだ末法ではなく、於我法中、闘諍言訟、白法隠没の時ではないのです。
しかし、日蓮大聖人御在世である鎌倉時代は、末法に入って二百年が経ち、まさに大集経の於我法中、闘諍言訟、白法隠没の時にあたり、仏の言葉が真実であるならば一閻浮提に闘諍言訟の五の五百歳の時代であり、法華経の大白法が一閻浮提に広宣流布する事は間違いがないのです。五の五百歳の釈迦仏法が滅してしまう時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たせて謗法一闡提の輩の良薬にしようと、梵帝、日月、四天、竜神などに仰せつけられた言葉が虚妄となる事はないのです。
闘諍堅固の時、この仏の使いとして南無妙法蓮華経を流布しようとする日蓮大聖人は、日本国の王臣並びに万民が、悪口し、流罪し、打擲し、弟子、眷属を種々の難にあわせるのを、どんなにか恨んでいる事と思うでしょうが、法華経を弘める者は、日本の一切衆生の父母であり、念仏者、禅衆、真言師の師範であり、又、主君なのです。そうであるならば、日蓮大聖人こそが日本国の人々の父母、師範、主君である三徳兼備の仏である事がここで示されているのです。このように日蓮大聖人は、閻浮第一の法華経の行者であり、また、末法の主師親の三徳を持つ御本仏であり、その日蓮大聖人を上下万民が迫害しているので、多くの人々が閻浮第一の大難に遭うのです。これが今日の正嘉の大地震や文永の大彗星という大難となって起きたとその原因を述べられているのです。釈迦滅後、仏法を行ずる者が現在のこのような迫害に遭うことは一度もなく、さらには、南無妙法蓮華経を一切衆生に唱えさせようとした者は、いまだかつていなかったのです。このように衆生の機に随って法を説くは僻見であり、そういう理由で未だ時が来ていない故に正法時代の竜樹、天親は、像法時代の天台のように法華経を宣揚しなかったのです。
像法時代にインドから妙法蓮華経を中国に伝えた羅什三蔵は、私が漢土の一切経を見ると皆、梵語の原本と意味が違っている。この事をどうやって人々に教えるべきであろうかと思い、私が死んだときには、必ず火葬しなさい。その時に舌が焼失すれば、私が翻訳した経文を捨てよと常に講義で言われていたのです。そして、実際に火葬した際には、「不浄の身は皆灰となりぬ。御舌計り火中に青蓮華生ひて其の上にあり、五色の光明を放ちて夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給ひ」と羅什三蔵の舌だけが焼けずに残ったのです。日本の桓武天皇は、これを道理と思って天台法華宗を重くもちいて比叡山に戒壇を建立したのです。
こうして見るとすでに像法時代の終わりに円頓戒壇が建立され日本国一同が伝教大師の弟子になって、法華経が広宣流布されたように思えるのですが、この時は、闘諍堅固の末法ではなく、未だ法華経の円頓戒壇が建立されていないのです。「いまだ弘通されていない最大の深秘の正法、経文の面に現前なり、この深法、今末法の始め五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審無極なり」と述べられており、ここで云われるところの「末法の始め五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべき」とは、本門戒壇の大御本尊様の事なのです。
その上に伝教大師の弟子である慈覚大師が、像法時代の戒壇がある天台宗をかすめとり真言宗にしてしまったのです。また、比叡山の慧心僧都や顕真座主が法然の弟子となり、日本国、皆一同に法然の弟子となったのです。この事により、残った叡山東寺の僧は、多くの人々に馬鹿にされて笑われたのです。また、正覚房覚鑁と云う人は、舎利供養式の講演の中で「法華、華厳、般若、深密経などは、真言師に対すれば履物取者〔はきものとり〕にも足らず」と書いているのです。慈覚大師は、伝教大師の第三番目の弟子でしたが真言宗が法華経に優れていることは、当たり前であり、安然和尚と云う叡山第一の古徳は、第一真言宗、第二禅宗、第三天台法華宗、第四華厳宗などと云い、その姿は、まさに「師子の身中の虫の師子を食らふ」と仏記にある姿そのままだったのです。
慈覚大師は、法華経は、理秘密であり、真言の三部経は、事理倶密であれば、その差は天地雲泥であると思っていたのですが、この二経の注釈書を作るにあたり、この書が仏意に適っているかどうかを考えて、七日七夜、心を込めて深い祈りを行ったので、その五日目の明け方、日輪が弓矢にあたって地に堕ちた夢を見て、仏意に適っていると確信したのです。しかし、この夢の原因は、真言が法華経より優れていると決めつけていたからであり、しかも、日輪を射ると云う夢がよい夢であるわけがないのです。しかし、その後、桓武、伝教の日本国の寺塔は、すべて真言の寺となってしまい、公家も武家も一同に真言師を師匠と仰ぎ、寺を預け、仏事の際も木画の開眼供養は、一同に大日仏眼の印真言となってしまったのです。しかし、法華経を誹謗する真言僧をもちいたならば、国は、必ず亡ぶのです。これらの謗法を仏は、諸天に命じて度々諫められたけれども、いよいよ、仇をなす故に天の計らいとして隣国の聖人に仰せ付け、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし自界反逆をさせたのです。瑞相〔きざし〕が大きければ難多いのは、道理であって、仏滅後二千二百三十余年が間、未だ出現する事がなかった大彗星、未だ起きなかった大地震が起きたのです。
それは、最上の機根の竜樹、天親の正法時代にも、法華の淵底を極めた天台大師、円頓の戒壇を建立した伝教大師の像法時代も、真の法華経が流布される時ではなく、また正像二時の諸師は、法華経の実義を明かしていない事を示して、正像二千年に未だ弘通されていない最大深秘の正法が、末法に広まる前兆である事を示されています。ここで云われるところの最大深秘とは、まさしく本門戒壇の大御本尊の事なのです。
権大乗経の題目である法華経以前に説かれた双観経、観経、阿弥陀経の題名を唱える念仏が広宣流布するのは、実大乗経である、法華経の題目が流布する為の序分にあたるのです。心ある人は、そのことを心に留めるべきなのです。権経が流布すれば、実経が流布し、権経の題目が流布すれば、実経の題目も又流布するのです。このように念仏を捨てて南無妙法蓮華経と唱へよと他人にも勧め、我も唱えたる智人がどこにいるでしょうか。日蓮大聖人こそ日本第一の法華経の行者である事は、疑いようがないのです。
正嘉大地震、文永の大彗星がどのような理由によって出現したのかを説明するならば、まず上行菩薩が大地より出現した時にも、弥勒菩薩、文殊師利菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩などの四十一品の無明を断じた菩薩さえ、元品の無明を断じていない為に愚人と云われ、寿量品の南無妙法蓮華経を末法に流布する為に上行菩薩を召し出された事がわからなかったのです。また、天台宗の慈覚、安然、慧心などを法華経、伝教大師の戒壇を滅ぼす、師子の身中の虫であり、大謗法の根源であると糾〔ただ〕した日蓮大聖人を迫害する事により、天神も惜み、地神も怒り、天変地異が起こったのです。ようするに日蓮大聖人がこの一閻浮提第一の大事を言った為に、最第一の瑞相がここに現れたのです。
しかし、日本の邪宗の高僧たちは、その事がわからず、日蓮大聖人を敬うどころか、その言葉を無視し続けたのです。提婆達多は、釈尊の身体から出血させるという五逆罪を犯したけれども、臨終の時には南無と唱へ、後に続いて仏と唱えれば地獄に堕ちずに済んだのですが、罪業深くして、ただ南無とだけ唱えて仏と言わずに地獄に堕ちたのです。このように日本の高僧たちも南無日蓮大聖人と唱えようとしますが、提婆達多のように、ただ南無だけで終わって地獄に堕ちるのです。現在の日本においても南無妙法蓮華経と口に出す邪教は多いのですが、日蓮大聖人を仏として敬い、本門戒壇の大御本尊様を本尊とする宗教は、世界広しと云えども日蓮正宗だけであるのです。
また、外典では、まだ兆しがない事を知る者は、聖人であるとし、内典では、三世を知るを聖人と云うとありますが、日蓮大聖人は、ここで自らの三度の世間に名をなした前例をあげられています。第一には、文応元年七月十六日に最明寺入道北条時頼に立正安国論を上奏した時にそれを仲介した宿谷入道に禅宗と念仏宗とを止めよと云われ、もし、この諫言を聞かないならば、北条一門より内乱が起こり、さらには他国に責められると訴えられた事。第二には、文永八年九月十二日に平左衛門尉に向かって、日蓮は日本国の棟梁であり、それを失ふ事は、日本国の柱を倒す事と同じであり、そうなれば、自界反逆難の同士討や他国侵逼難が起こって、この国の人々は他国殺されるのみならず、多く生け捕りとなると発言され、一切の念仏者、禅僧の塔寺を焼きはらい、彼等の頸を由比の浜にて切らずば、日本が必ず滅ぶと訴えられた事、第三には、文永十一年四月八日、同じく平左衛門尉に、もし、真言師に蒙古調伏を依頼するならば、いよいよ国が亡ぶと述べられて、頼綱のそれは、いつ頃なのかとの問いに今年中と正確に予見出来た事を挙げられています。そして、この三つの大事は、日蓮が述べたのではない、偏に釈迦如来の魂が身に入り語ったものであり、我が身ながら悦び身にあまる事と云われ、法華経の一念三千と申す大事の法門とは、このことであり、所謂諸法如是相との文章は、十如是の始めの相如是が一番大事であるので、仏は、世に出現されたのであると御教示されています。
そうであれば、法華経を持つ者は、満月であり、世の智者は、星のようなものであり、そうであるからこそ、法華経を持つ者に供養し讃歎する者は、今世に於いて現実の果報を得るとされ、法華経の巻八の普賢菩薩勧発品の二つの文章、亦於現世得其福報、当於今世得現果報の八文字は日蓮が今生に大果報を得なければ、仏の金言そのものが、すべて虚言となり、仏教ではなくなると断言され、自らの弟子に法華経に書かれている通りに身命も惜しまず修行して、それが正しいかどうかを試してみなさいと勧められています。
そして、この身命も惜しまずとは、どう云う事かと言えば、法華経が一切経の頂点にあると主張する事が法華経の行者であり、これを言えば、必ず身命に及ぶと云うのです。これは、日蓮大聖人の身にあたる御生涯そのものであり、日蓮大聖人のような低い地位で、法華経の文章が正しければ、法華誹謗の輩は無間地獄間違いなしと主張するのは、身命にも及ぶ大変な事なのです。法華経の行者を守護するとの誓いを立てた諸天の守護がなければ、自らの身命さえ無事では有り得ないとの確信でこの撰時抄を結ばれています。
日寛上人は「法華取要抄文段」に、「時を知るとは、具〔つぶさ〕には撰時抄の如し。今、一言を以て之を示さん。末法今時は本門三箇の秘法広宣流布の時なり。当まさに知るべし、今末法に入り小大・権実・顕密共に皆悉〔ことごと〕く滅尽す」(御書文段535頁)と、末法とは、五の五百歳、すなわち白法隠没の時であり、釈尊が説かれた小乗、大乗、権教、実教、顕教、密教の教えには一切衆生を救済する力がなくなる時であることを御教示されています。この正法、像法、末法の時代の違いを正しく知り、現在の末法においては、三大秘法が広宣流布すべき時であることを知ることが、時を知る事となるのです。「せんずるところ機にはよらず、時いたらざればいかにもとかせ給はぬにや」と、人々の機根の上下や善悪によって論ずるのではなく「されば機に随って法を説くと申すは大なる僻見なり」と誰に対しても日蓮大聖人の仏法を弘めていかなくてはならないのです。