御書研鑚の集い 御書研鑽資料
撰時抄 13 多造塔寺堅固の時を示す
【像法に入って四百余年と申しけるに、】
それから、像法時代に入って四百余年過ぎた頃、
【百済〔くだら〕国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等日本国にわたる。】
百済国から一切経および教主釈尊の木像、僧尼などが日本へ渡って来ました。
【漢土の梁〔りょう〕の末、陳〔ちん〕の始めにあひあたる。】
このころの中国は梁の末で陳の初めであり、天台大師の時代でした。
【日本には神武〔じんむ〕天王よりは】
日本では、神武天皇から
【第三十代、欽明〔きんめい〕天王の御宇なり。】
第三十代の欽明天皇の時代でした。
【欽明の御子〔みこ〕、用明〔ようめい〕の太子に上宮〔じょうぐう〕王子】
欽明の御子、用明天皇の太子に聖徳太子がおり、
【仏法を弘通し給ふのみならず、並びに法華経・浄名経・勝鬘〔しょうまん〕経を】
大いに仏法を弘通した上に法華経、浄名経、勝鬘経を
【鎮護国家の法と定めさせ給ひぬ。其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に】
鎮護国家の法と定められました。その後、第三十七代の孝徳天皇の時代に、
【三論宗・成実宗を観勒〔かんろく〕僧正百済国よりわたす。】
三論宗と成実宗を観勒僧正が百済国から日本に伝えました。
【同じき御代に道昭〔どうしょう〕法師漢土より法相宗・倶舎宗をわたす。】
同時代に道昭法師は、中国から法相宗と倶舎宗を日本に伝えました。
【人王第四十四代元正天王の御宇に】
第四十四代元正天皇の時代には、
【天竺〔てんじく〕より大日経をわたして有りしかども、】
インドから大日経を持って来ましたが、
【而も弘通せずして漢土へかへる。】
弘めないまま中国へ帰ってしまう者がおり、
【此の僧をば善無畏三蔵という。】
それが善無畏三蔵でした。
【人王第四十五代に聖武天王の御宇に、審祥〔しんじょう〕】
第四十五代聖武天皇の時代に、審祥大徳は、
【大徳新羅〔しらぎ〕国より華厳宗をわたして、】
新羅国から華厳宗を日本に伝え、
【良弁〔ろうべん〕僧正聖武天王にさづけたてまつりて、】
良弁僧正は、聖武天王にそれを授けて
【東大寺の大仏を立てさせ給えり。】
東大寺の大仏を建立しました。
【同じき御代に大唐の鑑真〔がんじん〕和尚天台宗と律宗をわたす。】
同時代に唐から鑑真和尚が天台宗と律宗を日本に伝えましたが、
【其の中に律宗をば弘通し、小乗の戒場を東大寺に建立せしかども、】
律宗のみを弘め、小乗の戒壇を東大寺に建立しましたが、
【法華宗の事をば名字をも申し出ださせ給はずして入滅し了んぬ。】
法華経の事は、名前すら出さないで入滅してしまいました。
【其の後人王第五十代、像法八百年に相当たって桓武天王の御宇に】
その後、人王第五十代の時代、釈迦滅後千八百年の桓武天皇の時代に
【最澄と申す小僧出来せり。後には伝教大師と号したてまつる。】
最澄と云う小僧が出て来ました。後に伝教大師と名乗られました。
【始めには三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗、】
最澄は、始めに三論、法相、華厳、倶舎、成実、律の六宗および禅宗などを
【並びに禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給ひし程に、】
近江国、崇福寺に住んでいる行表僧正に学んでいましたが、
【我と立て給へる国昌寺、後には比叡山と号す。】
のちに自らが建てた国昌寺に住みました。ここは、後の比叡山となります。
【此にして六宗の本経本論と宗々の人師の釈とを】
この六宗の本経、本論と後代の人師の解釈とを
【引き合はせて御らむ〔覧〕ありしかば、彼の宗々の人師の釈、】
引き合わせて研究した結果、あの六宗の人師の解釈は、
【所依の経論に相違せる事多き上、】
その宗派の拠処としている経文や本論に相違している事が多い上、
【僻見〔びゃっけん〕多々にして信受せん人】
自分勝手な見解が多く、信じている人は、
【皆悪道に堕ちぬべしとかんが〔考〕へさせ給ふ。】
みんな、悪道に堕ちると考えられました。
【其の上法華経の実義は宗々の人々】
その上に、法華経の実義を各宗の人々は、
【我も得たり我も得たりと自讃ありしかども】
我も得たりと自分で自分を褒めているけれども、
【其の義なし。】
実際には、そのような法華の実義などは、まったく説かれていないのです。
【此を申すならば喧嘩〔けんか〕出来すべし。】
これを最澄が言い出したならば、諸宗と大喧嘩になってしまったでしょう。
【もだ〔默〕して申さずば】
しかし、黙って、その誤りを見過ごせば、
【仏誓にそむきなんと、をも〔思〕ひわづらわせ給ひしかども、】
仏滅後の正法弘通の誓いに背く事になると思い、
【終に仏の誡めををそれて桓武皇帝に奏し給ひしかば、】
ついに仏の戒〔いまし〕めを恐れて桓武皇帝にそれを訴えたのですが、
【帝〔みかど〕此の事ををどろかせ給ひて】
桓武天皇は、この事にたいそう驚かれ、
【六宗の碩学〔せきがく〕に召し合はさせ給ふ。】
奈良六宗の大学者と最澄とを対面させ討論させたのです。
【彼の学者等始めは慢幢〔まんどう〕山のごとし、】
あの六宗の学者達は、始めは、そのうぬぼれが山のように高く、
【悪心毒蛇のやうなりしかども、】
また、その悪心が毒蛇のように大きかったのですが、
【終に王の前にしてせめをとされ、】
ついに王の前で最澄から攻め落とされ、
【六宗七寺一同に御弟子となりぬ。】
六宗派と七寺が一人残らず最澄の弟子となったのです。
【例せば漢土の南北の諸師、】
たとえば、中国の南三北七と云われた十宗の論師たちが、
【陳殿〔ちんでん〕にして天台大師にせめをとされて】
陳の国王の宮殿で天台大師に攻め落とされて、
【御弟子となりしがごとし。】
天台の弟子となったのと同じなのです。
【此は是、円定〔えんじょう〕・円慧〔えんね〕計りなり。】
しかし天台は、戒定慧の三学のうち円定、円慧ばかりを弘め、
【其の上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし、】
最澄は、天台がまだ打ち破らなかった小乗の別受戒を攻め落とし、
【六宗の八大徳に梵網〔ぼんもう〕経の大乗別受戒をさづけ給ふのみならず、】
六宗の八人の高僧に梵網経の大乗の別受戒を授けたのみならず、
【法華経の円頓〔えんどん〕の別受戒を叡山に建立せしかば、】
法華経の円頓の別受戒を授けるべき迹門の戒壇を比叡山延暦寺に建立したのです。
【延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、】
ゆえに比叡山延暦寺の円頓の別受戒は、日本第一であるのみか、
【仏の滅後一千八百余年が間身毒〔けんどく〕・尸那〔しな〕・一閻浮提に】
釈尊滅後一千八百年間、インドにも中国にも全世界の
【いまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる。】
未だ何処にも、なかった霊山の大戒、法華の大戒が、日本国に始められたのです。
【されば伝教大師は、其の功を論ずれば】
されば伝教大師の功績を論ずるならば、
【竜樹・天親にもこえ、】
インドでもっとも有名な竜樹、天親よりも優れ、
【天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり。】
中国の天台、妙楽よりも優れている聖人なのです。
【されば日本国の当世の東寺・園城・七大寺・諸国の八宗、浄土・】
ゆえに日本国、当世の東寺、園城、七大寺は、もとより、諸国の八宗、浄土、
【禅宗・律等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。】
禅宗、律宗等の諸僧等は、誰人も伝教大師の円戒に背いて良いはずはないのです。
【かの漢土九国の諸僧等は円定・円慧は天台の弟子にに〔似〕たれども、】
中国では、九国の僧侶達が、円定と円慧ばかりは、天台の弟子に似ているが、
【円頓一同の戒場は漢土になければ、】
円頓の戒壇が中国には、建てられなかったので、
【戒にをい〔於〕ては弟子とならぬ者もありけん。】
戒においては、必ずしも天台の弟子では、ない者もあったのです。
【この日本国は伝教大師の】
この日本国は、法華迹門の戒壇が建てられて、
【御弟子にあらざる者は】
ことごとく伝教大師の弟子となったからには、
【外道なり悪人なり。】
伝教大師の戒を受けて御弟子とならない僧は、外道であり、悪人なのです。
【而れども漢土日本の天台宗と真言の勝劣は】
しかしながら、中国でも日本でも天台宗と真言宗の優劣をはっきりさせなかったので
【大師、心中には存知せさせ給ひけれども、】
伝教大師自身は、はっきりと知ってはいたのですが、
【六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるゆへにや、】
奈良の六宗と天台宗のように公場において勝負をつけなかった為か
【伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、】
伝教大師以後には、東寺、七寺、園城の諸寺を始め、日本全国一同に
【真言宗は天台宗に勝れたりと】
真言宗が天台宗に優れていると
【上一人より下万人にいたるまでをぼ〔思〕しめ〔召〕しをもえり。】
上一人より下万人にいたるまで思ってしまったのです。
【しかれば天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。】
しかれば、天台法華宗は、伝教大師の在世の時代だけであったのです。
【此の伝教の御時は像法の末、】
この伝教の時代は、像法時代の末であり、
【大集経の多造塔寺堅固の時なり。】
大集経の予言では、多造塔寺堅固の時であり、
【いまだ於我法中・闘諍言訟・】
未だ「我が法の中において闘諍言訟して
【白法隠没の時にはあたらず。】
白法隠没せん」と予言された末法の時代ではなかったのです。