日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


当体義抄 1 背景と大意


当体義抄(御書692頁)

本抄は、文永10年(西暦1273年)、日蓮大聖人が52歳の御時に佐渡一谷〔いちのさわ〕において著わされ、最蓮房〔さいれんぼう〕に与えられました。
最蓮房は、最蓮房日浄と云い、かつては、天台宗比叡山の学僧でしたが、前年の1月16日、17日の両日に起こった塚原問答の際、多くの邪宗の僧侶、聴衆に対して、理路整然と折伏をされた大聖人の威風堂々とした御威徳に圧倒され、最蓮房御返事(御書585頁)に「過去無量劫より已来〔このかた〕師弟の契約有りしか。」とあるように佐渡流罪中に大聖人の弟子となったことがわかります。
相当、仏教に対して学識があった人のようで、天台の法門について重要な質問を数多くしています。日蓮大聖人も、この御書以外にも、生死一大事血脈抄や草木成仏口決、さらには、諸法実相抄、立正観抄、祈祷抄、十八円満抄など数々の重要法門書を最蓮房に与えられており、すべて文底の奥義から、これらの最蓮房の疑問について論ぜられ応えられています。
また、最蓮房が病弱であったことから、祈祷経送状では「仮使〔たとい〕山谷に籠居候とも、御病も平癒〔へいゆ〕して便宜〔びんぎ〕も吉く候はゞ身命を捨て弘通せしめ給ふべし」と身命を捨てて法華経を弘めるべきであると指南され、十八円満抄にも「末法に入って天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は、必ず無間大城に墜ちんこと疑ひ無し。貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし」と末法今時における天台の修行法が堕地獄の因であるから、日蓮大聖人門下となったからには、常に南無妙法蓮華経と唱えることを厳しく指導されています。
また、この当体義抄は、一往は、このような最蓮房に与えられた御書では、ありますが、送状に「国主信心あらんの後始めて之を申すべき秘蔵の法門なり」とあり、本抄を著わされたのは、後世の衆生のためであったことは、間違いなく、佐渡流罪中に門下となった最蓮房に「日蓮より最蓮房〔さいれんぼう〕に伝へ畢〔おわ〕んぬ。」と御遺命されています。
御真筆は、現存していません。
この御書に限らず、多くの御書を、日蓮大聖人は、愚者と智者、あるいは客人と主人と云う立場にたって問答形式で書き著されていますが、日寛上人は、立正安国論文段において「まさに知るべし、賓主問答を仮立したもう所以は、愚者をして解し易からしめんがためなり」と仰せになっているとおり、仏法に暗い人々に対しては、一方的な押しつけではなく、順々と相手を納得させながら、正しい仏法に導くことが大事であることを述べられ、そのために本抄においても、問いと答えで順々に話を先へ進められて行っていることを理解しておかなければなりません。その為に、本抄でも20に及ぶ(当体義抄送状の一問を含む)多くの問答がなされており、浅くから深くへと段々に答えが導かれていることに注意が必要です。
それを踏まえ、まず、本抄の最初では、妙法蓮華経の当体とは、何かとの問いに十界の依正が妙法蓮華の当体であることを御教示されています。さらにそれについて、我々のような一切衆生も妙法の全体であるのかとの問いにも、もちろんであると明確に答えられています。では、一切衆生の当体が、そのまま妙法の全体であるならば、地獄をふくむ九界の業因、業果も、すべて妙法の当体であるのかとの疑問についても、法性の妙理に染浄の二法があり、染法は、迷いと成り、浄法は、悟りと成り、また、悟りは、仏界であり、迷いは、衆生であると教えられ、この染浄の二法、迷いと悟りは、法性真如〔しんにょ〕の一理であり、譬えて言えば、水晶の玉が太陽の光を集め火を作り、また、その表面に水滴がつき、水を得る事が出来るようなものであり、一妙真如の理とは、言っても、悪縁に遇えば迷いとなり、善縁に遇えば悟りとなることを指摘され、悟りは、法性であり、迷いは、無明であり、悪迷〔あくめい〕の無明を捨てて、善悟〔ぜんご〕の法性を本とすることを御教示されています。
このように染浄の二法によれば、一切衆生がすべて妙法蓮華経の当体であり、我々のような愚かな凡夫も妙法の当体であると言っても、善悟〔ぜんご〕の法性を本とするならば、権教方便を信ずる人は、妙法蓮華の当体ではなく、実教を信じる人のみを妙法蓮華の当体と言うのであって、つまりは、権教を捨て、実教の法華経を信ずる人のみ当体蓮華であり、末法に於いては、日蓮大聖人の弟子のみが本門の当体蓮華と顕われるのです。
次に、天台大師は、妙法蓮華を当体蓮華と譬喩蓮華の二義に分けているが、それは、どのようなものなのかとの疑問に対して、当体蓮華とは、聖人が理によってすべての物に名前を付ける時、因果俱時、不思議の一法があって、これに妙法蓮華と名前を付けた。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠けることがなく、これを修行する者は、妙因妙果俱時に感得するとされ、これを当体蓮華とし、さらには、ある華草に聖人が蓮華と名前を付けたが、その蓮華が因果俱時であることが妙法の蓮華に似ているので、これを譬喩蓮華としたと答えられています。
それでは、誰人がその当体蓮華を証得したのかとの疑問に対して、釈迦牟尼仏が五百塵点劫の当初〔そのかみ〕に妙法の当体蓮華を証得して、世々に成道をして能証所証の本理である法華経を顕したのです。また、その法華経のいずれの品に当体蓮華、譬喩蓮華を説いているのかとの質問に舎利弗、迦葉、阿難などの声聞で論じれば、当体蓮華は、方便品、譬喩蓮華は、譬喩品、化城喩品に説かれており、その方便品においては「諸法実相」の文で当体蓮華を顕しており、一念三千を明かしているのです。そのことは、当世の学者が、伝教大師の妙法蓮華経義の「法華経は何を以て体と為すや。答ふ、諸法実相を以て体と為す」との文を秘して、その文の名前を隠しており、また、当世の学者は、当体蓮華の現証は、法華経宝塔品の釈迦、多宝、分身の三仏、観世音菩薩普門品の三十三身、妙音菩薩品の三十四身と理解しているが、ここで、日蓮大聖人は、方便品の「諸法実相」の文と神力品の「結要付嘱」の文をあげておられるのです。
なぜ、ここで日蓮大聖人が、この神力品に一文を挙げられているのかと言うと、神力品の結要付嘱の「如来一切所〔しょ〕有〔う〕之法」の文は、地涌の菩薩に本門の当体蓮華を付嘱ことを示す実に深い意味があるのです。
もし、諸宗の人が来て当体蓮華について質問した時は、法華経の何れの文を出すべきなのでしょうかとの疑問に、法華経二十八品の最初にある妙法蓮華経の題名を出す可きであると答えられ、それについて、天台大師は、法華経の題名は、譬喩蓮華であると言っているのに、なぜ法華経の題目を当体蓮華と言うのかとの問いに、それは、妙法蓮華経の題名の蓮華は、当体蓮華と譬喩蓮華を合説するが故に、この題目を当体蓮華とすると言われ、法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩であると御教示されています。
しかしながら、当体蓮華と譬喩蓮華の合説については、経文では、明確ではなく、天親の法華論「妙法蓮華とは二種の義有り」や竜樹菩薩の大論「蓮華とは法譬並び挙ぐるなり」の文章によって理解するしかなく、伝教も守護国界章の巻中に「此の義解し難し、喩へを仮るに解し易し。」と言われて「事相即理体なり、理体即事相なり。故に法譬一体と云ふなり。」と法譬一体を結論付けられているのです。
さらに、釈迦牟尼仏の在世で、この当体蓮華を証得した者がいるのかと云う質問に、本門寿量の教主を除いて、誰も、この当体蓮華の名を聞かず、地涌の菩薩のみが当体蓮華を証得したのであり、末法においても、無得道の権教方便を信仰して法華の当体蓮華を毀謗する故に法華経譬喩品第三に「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種〔ぶっしゅ〕を断ぜん。乃至其の人命終〔みょうじゅう〕して阿鼻獄に入らん」とある通り、大阿鼻地獄の当体を証得する人は、多いが、この当体蓮華を証得したのは、地涌の菩薩の意義を持つ末法の法華経の行者である日蓮大聖人とその弟子、檀那のみであるのです。
それでは、なぜ、南岳大師、天台大師、伝教大師などは、法華経によって一乗円宗の教法を弘通しているのに、未だ南無妙法蓮華経と唱えていないのは、なぜなのでしょうか。また、そうであるならば、これらの大師達は、未だ当体蓮華を知らず、また証得していないのでしょうかとの疑問に、南岳大師は、観音菩薩の化身であり、天台大師は、薬王菩薩の化身であり、これらの正師は、内鑑冷然で己心の中では、当体蓮華を証得されていたのです。故に南岳大師は、法華懺法に「南無妙法蓮華経」とあり、天台大師も「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」、「稽首妙法蓮華経」、「帰命妙法蓮華経」と唱えられ、伝教大師も臨終において「南無妙法蓮華経」と唱えられたのです。
しかし、この大師達は、霊山の法華経の会座に於て本門寿量の説を聞いて、当体蓮華を証得したと言っても、未だ時が末法ではなく、時が至らざるが故に、また、釈迦牟尼仏が地涌の菩薩に付属された血脈がなかった為、それ故に妙法の名字を替えて止観と号し、一念三千、一心三観を修行したのです。
最後の質問として、当体義抄送状に、どの経文に「当体蓮華は、非常に理解し難いので譬喩蓮華をもって之を顕す」と云う証拠があるのでしょうかとの問いに、法華経の従地涌出品第十五の「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し、地より涌出す」と言う文をあげられて、これが地涌〔じゆ〕の菩薩〔ぼざつ〕の当体蓮華のことであり、この譬喩をよくよく理解すべきであり、この法門が妙経の究極の理であり、釈迦如来の本懐〔ほんがい〕であり、地涌の菩薩に付嘱した末法に弘通する経文の肝心であると御教示されています。
この地涌の菩薩こそ、末法の御本仏、日蓮大聖人のことであり、この末法に弘通する経文の肝心とは、弘安二年に御図顕の戒壇の大御本尊のことなのです。それ故に、末法の私たちは、日蓮大聖人の御金言を信じ、本因下種の大御本尊を受持、信行することにより、必ず、妙法の当体蓮華を証得し、広大な功徳妙用を我が身に顕すことができるのです。

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