日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


当体義抄 10 如来在世の証得


第九章 如来在世の証得

【問ふ、如来の在世に誰か当体蓮華を証得せるや。】
では、仏の在世においては、いったい誰が当体の蓮華を証得したのでしょうか。

【答ふ、四味三教の時は、】
それは、法華経以前の四味三教の時は、

【三乗・五乗・七方便・九法界、帯権〔たいごん〕の円の菩薩】
三乗、五乗、七方便、九法界、権教の教主によって説かれた爾前の円教の菩薩や、

【並びに教主乃至法華迹門の教主、】
その教主、さらには、法華迹門の教主にいたるまで、

【総じて本門寿量の教主を除くの外は、】
総じて本門寿量品の教主を除くすべてのものは、

【本門の当体蓮華の名をも聞かず、】
本門の当体蓮華の名目さえ聞かなかったのです。

【何に況んや証得せんをや。】
まして、証得することなどが、どうしてできるでしょうか。

【開三顕一の無上菩提〔ぼだい〕の蓮華、】
声聞、縁覚、菩薩の教えを開いて、一仏乗を顕した迹門における蓮華の法門でさえ、

【尚四十余年には之を顕はさず。】
四十余年の間には、これを顕わさなかったのです。

【故に無量義経に「終〔つい〕に無上菩提を成ずることを得ず」とて、】
それ故に無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」と述べて、

【迹門開三顕一の蓮華は】
迹門で説かれた開三顕一の蓮華は、

【爾前〔にぜん〕に之を説かずとなり、】
爾前、四十余年の間には、これを説かなかったと言われているのです。

【何に況んや開近顕遠、本地〔ほんち〕難思〔なんし〕の】
まして、開近顕遠、本地難思、

【境智〔きょうち〕冥合〔みょうごう〕、】
境智冥合、

【本有〔ほんぬ〕無作〔むさ〕の当体蓮華をば】
本有無作の文底の当体蓮華を、

【迹化〔しゃっけ〕の弥勤〔みろく〕等之を知るべけんや。】
迹化の弥勒菩薩などが知り得ることなどあるでしょうか。

【問ふ、何を以て知ることを得るや、爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は、】
それでは、いかなるわけで爾前の円の菩薩や迹門の円の菩薩などが、

【本門の当体蓮華を証得せずと云ふ事を。】
本門の当体蓮華を証得しなかったと云うことを知ることができるのでしょうか。

【答ふ、爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず、】
それは、爾前の円の菩薩は、迹門の蓮華を知らず、

【迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり。】
また迹門の円の菩薩は、本門の蓮華を知らなかったのです。

【天台云はく「権教の補処〔ふしょ〕は迹化の衆を知らず、】
それ故に天台大師は「爾前権経の等覚の大菩薩でも、迹化の衆を知らない。

【迹化の衆は本化〔ほんげ〕の衆を知らず」文。】
同様に、迹化の衆生は、本化の衆生を知らない」と言っています。

【爾前の円の菩薩等の今経に大衆八万有って具足の道を】
爾前の円の菩薩などが法華経の座に連なり、八万の大衆となって具足の道を

【聞かんと欲す云云。】
聞かんと欲すと仏に願ったのは、このことを意味しているのです。

【伝教大師云はく「是直道〔じきどう〕なりと雖も大直道ならず」云云。】
また、伝教大師が無量義経巻二に「これは直道ではあるが、大直道ではない」

【或は云はく「未だ菩提の大直道を知らざる故に」云云、】
あるいは同巻三に「未だ、菩提の大直道を知らない故に」と言っているのは、

【此の意なり。爾前迹門の菩薩は、】
このことを指しているのです。したがって、爾前迹門の菩薩は、

【一分の断惑〔だんなく〕証理〔しょうり〕の義分有りと雖も、】
一往の断惑証理の意義があるとは言っても、

【本門に対するの時は】
それらは、本門に相対してみたときは、

【当分の断惑にして跨節〔かせつ〕の断惑に非ず、】
あくまで一往の断惑であって、一重、立ち入った最終的な断惑ではないから、

【未断惑と云はるゝなり。】
結局、未断惑の者と言われているのです。

【然れば「菩薩処々に入ることを得〔う〕」とは釈すれども、】
したがって爾前経においても、菩薩が処々に得道したと理解されていますが、

【二乗を嫌ふの時は】
それは、声聞、縁覚の二乗を糾弾するために、

【一往得入〔とくにゅう〕の名を与ふるなり。】
一往、菩薩に得道の名を与えたまでなのです。

【故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり。】
故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を悟ることができるのは、本門の時なのです。

【真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり。天台大師、涌出品の】
つまり真実の断惑は、寿量品の一品を聞いた時であり、天台大師が、涌出品の

【「五十小劫、仏の神力の故に、諸〔もろもろ〕の大衆をして】
「五十小劫と言う長い年月を、仏は、神通力をもって諸の大衆に、

【半日の如しと謂〔おも〕はしむ」の文を釈して云はく】
わずか半日の短時日のように思わせた」と言う経文を解説して、

【「解者は短に即して】
法華文句の巻九の上に「地涌の菩薩は、短い時間に即して長い時間を、

【長なれば、五十小劫と見る。】
また、半日を五十小劫という長い年月と悟ることができるのです。

【惑者〔わくしゃ〕は長に即して短なれば、】
逆に、迹化の菩薩は、五十小劫の長い年月をわずか

【半日の如しと謂へり」文。】
半日としか見れない」と説明しているのです。

【妙楽之〔これ〕を受けて釈して云はく】
妙楽大師は、この天台の解説を受けて、法華文句記の巻九で

【「菩薩已〔すで〕に無明を破す、之を称して解と為す。】
「本化の菩薩は、すでに無明惑を破っている。これを称して解とするのである。

【大衆仍〔なお〕賢位に居〔こ〕す、】
迹化の大衆は、無明を破ることができずに賢位すなわち十信の位にとどまり、

【之を名づけて惑〔わく〕と為す」文。】
これを名づけて惑とするのである」と解釈されています。

【釈の意分明なり。】
この解釈によって意味は明らかなのです。

【爾前迹門の菩薩は惑者なり、】
すなわち爾前迹門の菩薩たちは、惑う者であり、

【地涌の菩薩のみ独〔ひと〕り解者なりと云ふ事なり。】
ただ地涌の菩薩のみが、地涌の菩薩であると云うことなのです。

【然るに、】
このように両者の差がはっきりしているにもかかわらず、

【当世天台宗の人々の中に本迹の同異〔どうい〕を論ずる時、】
当世の天台宗の学者の中には、本門と迹門の同異を論ずるときに、

【異なり無しと云って此の文を料簡〔りょうけん〕し、】
本迹の相異はないと言って、この文章を間違って理解し、

【解者の中に迹化の衆を入れたりと云ふこと大いなる僻見〔びゃっけん〕なり。】
地涌の菩薩の中に迹化の菩薩も入っているのだと云う大僻見をもっているのです。

【経の文、釈の文分明〔ふんみょう〕なり。】
どうして、そのような間違った考えをすることができるのでしょうか。

【何ぞ横計〔おうけい〕を為すべけんや。】
そうでないことは、経文、そして天台などの解釈の意義は、明らかなのです。

【文の如くんば、地涌の菩薩五十小劫の間如来を称揚〔しょうよう〕したまひ、】
涌出品の文は「地涌の菩薩が五十小劫の長い間、仏を讃めたたえたことを、

【霊山〔りょうぜん〕迹化の衆は半日の如く謂〔おも〕へりと説き給ふを、】
霊山の迹化の菩薩の衆は、わずか半日のように思った」と説き明かされたのを、

【天台は解者・惑者を出だして、】
天台大師が地涌の菩薩と迹化の菩薩とを比較して、

【迹化の衆は惑者の故に半日と思へり、是〔これ〕即ち僻見なり。】
「迹化の菩薩は、惑う者であったために僻見で半日のように思った。

【地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る、】
地涌の菩薩は、地涌の菩薩であるために正見で五十小劫の長時日と見る。

【是即ち正見なりと釈し給へるなり。】
これが正しい見解である」と説明されているのです。

【妙楽之〔これ〕を受けて、】
妙楽大師は、さらにこの天台大師の解釈をうけて、

【無明を破する菩薩は解者なり、】
「無明を破した菩薩は、地涌の菩薩であり、

【未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給ひし事、】
未だ無明を破すことのできない菩薩は、惑う者である」と解釈していることは、

【文に在って分明なり。迹化の菩薩なりとも、】
文章によって、まさに明らかなのです。迹化の菩薩であっても

【住上の菩薩をば已に無明を破する菩薩なりと云はん学者は、】
初住以上の位に登った菩薩は、すでに無明を破した菩薩であるなどという学者は、

【無得道の諸経を有得道と習ひし故なり。】
無得道の爾前経で得道できると習ったために間違っているのです。

【爾前迹門にも当分には妙覚の仏有りと雖も、】
爾前、迹門は、一時的に一往、妙覚の位があると言ったけれども、

【本門寿量の真仏に望むる時は、】
それは、本門寿量品の真実の仏に相対したときには、

【惑者仍〔なお〕賢位に居すと云はるゝ者なり。】
あくまでも惑う者で賢位と云う位をでない者とされているのです。

【権教の三身の未だ無常を免れざる故は、】
権教における法報応の三身が、いまだ無常を免れない理由は、

【夢中の虚仏〔こぶつ〕なるが故なり。】
夢の中のできごとと同様で、架空の仏だからなのです。

【爾前の衆と迹化の衆とは、本門に至る時は未断惑の者、】
爾前と迹化の衆とは、まだ本門を聞かないうちは、未断惑の者と言われ、

【正しく初住〔しょじゅう〕に叶〔かな〕ふと云はるゝなり。】
本門に来た時に初めて初住すなわち不退地に住することができたのです。

【妙楽の釈に云はく】
故に妙楽大師は、法華玄義釈籤の巻一に

【「開迹顕本せば皆初住に入る」文。】
「迹を開いて本を顕した時に、皆が初住の位に入るのである」と記されています。

【「仍〔なお〕賢位に居す」の釈、】
この意味と先に述べた「大衆は、いまだに賢位に居る」と云う解釈とを

【之を思ひ合はすべし。爾前迹化の衆は、惑者】
思い合わせてみなさい。爾前、迹化の菩薩は、惑う者であって、

【未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云ふ事、真実なり真実なり。】
未だ無明惑を破っていない仏、菩薩であると云うことは、まさに真実なのです。

【故に知んぬ、本門寿量の説〔せつ〕顕はれての後は、】
故に本門の寿量品が説き顕わされた後は、

【霊山一会〔いちえ〕の衆皆悉く】
霊山の会座の大衆は、すべて、ことごとく、

【当体蓮華を証得するなり。】
当体蓮華を証得したことがわかるのです。

【二乗・闡提〔せんだい〕・定性〔じょうしょう〕・】
声聞、縁覚の二乗も、不信誹謗の一闡提も永遠に成仏できない決定性の者も、

【女人等も悪人も本仏の蓮華を証得するなり。】
女人や悪人なども、皆、久遠本仏の蓮華を証得したのです。

【伝教大師、一大事の蓮華を釈して云はく】
伝教大師は、一大事の蓮華を守護国界章の巻下に

【「法華の肝心、一大事の因縁は、蓮華の所顕なり。】
「法華経の肝心である一大事の因縁は、蓮華の顕わすところである。

【一とは一実の行相なり、】
一とは、ただ一つの根本の中道実相であり、

【大とは性〔しょう〕広博〔こうばく〕なり、】
大とは、その性質が広大である故に大であり、

【事〔じ〕とは法性の事なり、】
事とは、法性すなわち、本来そなわっているところの事実の姿、振る舞いである。

【一究竟の事とは理教の智・行・円なるのみ。】
一究竟の事とは、理境、教義、智慧、修行と円の法身、般若、解脱の三徳とである。

【若し一乗に達すれば】
これによって、もし一仏乗に達すれば、

【三乗・定性・不定性・内道・外道・阿闡〔あせん〕・阿顛〔あてん〕、】
三乗、決定性、不定性、内道、外道、成仏を願わない者、正法を信じない者など、

【皆悉く一切智地に到る。是の一大事、】
すべての者が、ことごとく成仏したのである。故に、この一大事によって、

【仏の知見を開示〔かいじ〕悟入〔ごにゅう〕して一切成仏す」云云。】
仏の知見を開示悟入して、すべて成仏する」と説明しています。

【女人・闡提・定性・二乗等の極悪人、】
これは、在世の女人、一闡提、決定性、二乗などの極悪人が

【霊山に於て当体蓮華を証得するを云ふなり。】
霊鷲山において、当体蓮華を証得することを言っているのです。

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