日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


当体義抄 3 染浄の二法


第二章 染浄の二法

【問ふ、一切衆生の当体即妙法の全体ならば、】
それでは、すべての衆生の当体が、そのまま妙法の全体であるならば、

【地獄乃至九界の業因・業果も】
地獄界から菩薩界までの九界の業因、業果も、

【皆是妙法の体なるや。】
また、すべてが妙法の当体なのでしょうか。

【答ふ、法性〔ほっしょう〕の妙理に染浄〔ぜんじょう〕の二法有り。】
それは、法性真如の不思議な理論として「染浄の二法」と云うものがあります。

【染法〔ぜんぽう〕は薫〔くん〕じて迷ひと成り、】
染法が働くときは、迷いと言い、

【浄法〔じょうほう〕は薫じて悟りと成る。】
浄法が働けば、悟〔さと〕りとなります。

【悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。】
この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのです。

【此の迷悟〔めいご〕の二法、】
この染浄の二法、迷いと悟りの二法は、二つであっても、

【二なりと雖も然も法性真如〔しんにょ〕の一理なり。】
その根底においては、法性真如の一理なのです。

【譬へば水精〔すいしょう〕の玉の日輪〔にちりん〕に向かへば火を取り、】
譬えて言えば、水晶の玉は、太陽の光を集めて火を作り、

【月輪〔がつりん〕に向かへば水を取る、】
月が出る夜には、その表面に水滴がつき、曇るようなものなのです。

【玉の体一なれども縁に随って其の功〔く〕同じからざるが如し。】
このように水晶は、一つですが、その縁によって働きが異なるのです。

【真如の妙理も亦復〔またまた〕是くの如し。】
十界に具〔そな〕わった真如の妙理も、また、このようなものなのです。

【一妙真如の理なりと雖も、】
法性真如の理論は、このような一つの不思議な真如の理論ではあるのですが、

【悪縁に遇〔あ〕へば迷ひと成り、】
悪縁にあえば迷いとなり、

【善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、】
善縁にあえば悟りとなるのです。その悟りとは、すなわち法性であり、

【迷ひは即ち無明〔むみょう〕なり。】
迷いは、そのまま無明となります。

【譬へば人〔ひと〕夢に種々の善悪〔ぜんなく〕の業を見、】
譬えば人が夢の中において数々の善悪の身口意の所作が見えて、

【夢覚〔さ〕めて後に之を思へば、】
その夢から覚めて、これを思い返してみると、

【我が一心に見る所の夢なるが如し。】
すべて自分自身の心の中の夢の所作であるのです。

【一心は法性真如の一理なり。】
このように自分の心の中に実際に存在する一心が法性真如の一理であり、

【夢の善悪は迷悟の無明・法性なり。】
夢の中の悪は、迷いの無明となり、夢の中の善は、悟りの法性となるのです。

【是くの如く意〔こころ〕得〔う〕れば、悪迷〔あくめい〕の無明を捨て、】
このように理解したならば、悪であり迷いである無明を捨てて、

【善悟〔ぜんご〕の法性を本と為すべきなり。】
善である悟りの法性にもとづいて生きていくべきでしょう。

【大円覚修多羅了義〔だいえんがくしゅたらりょうぎ〕経に云はく】
大方広円覚修多羅了義経〔だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう〕には、

【「一切の諸〔もろもろ〕の衆生の無始〔むし〕の】
「すべての衆生の無始以来の

【幻〔げん〕・無明〔むみょう〕は、皆諸の如来の】
幻〔まぼろし〕である無明は、すべて衆生の本質である本覚の法身如来の

【円覚〔えんがく〕の心より建立す」云云。】
円覚の心から作り出したものである」と説かれています。

【天台〔てんだい〕大師〔だいし〕の止観〔しかん〕に云はく】
また、天台大師は、摩訶止観の第五の巻に

【「無明の癡惑〔ちわく〕は本〔もと〕是〔これ〕法性なり、】
「無明の癡惑は、本来それ自身が法性と一体なのである。

【癡迷〔ちめい〕を以ての故に法性変じて】
しかし、愚痴の本質上、その働きによる迷いのために法性が変じて、

【無明と作〔な〕る」云云。】
無明となるのである」と述べています。

【妙楽大師云はく】
また、妙楽大師の法華玄義釈籖〔しゃくせん〕の第一巻には、

【「理性は体無し、全く無明に依る。】
「理性と云っても、別に存在するのではなく、すべて無明の働きによるのである。

【無明は体無し、】
また無明と云っても、無明に別の実体があって実在するのではなく、

【全く法性に依る」云云。】
すべて法性の中に存在するのである」と説かれています。

【無明は所断〔しょだん〕の迷、法性は所証〔しょしょう〕の理なり、】
しかし、無明は、断じ尽くすべき迷いであり、法性は、証得すべき道理であり、

【何ぞ体一なりと云ふやと】
このように、まったく異なるものであるのに、

【云へる不審は、】
どうして無明と法性とが一体なのかと云う疑問は、

【此等の文義を以て意得べきなり。】
以上の数々の経文や解説書の文章の内容によって正しく理解すべきなのです。

【大論九十五の夢の譬へ、】
大智度論の巻九十五に説かれた夢の譬えや、

【天台一家の玉の譬へ、】
天台大師の水晶の譬えは、共に無明、法性が一体であることを、よく説明しており、

【誠に面白く之を思ふ。】
まことに面白い譬えだと思います。

【正しく無明・法性其の体一なりと云ふ証拠は、法華経に云はく】
このように無明と法性の実体が同一であると云う証拠は、法華経の方便品第二の

【「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云。大論に云はく】
「この法は、法位に住して世間の相は常住なり」の文章なのです。大智度論には、

【「明〔みょう〕と無明と異無く別無し。】
「明と無明とは、その本質において何の差異もなく区別もないのです。

【是〔か〕くの如く知るをば是を中道と名づく」云云。】
このように知ることを中道と名づけるのである」と述べられています。

【但〔ただ〕真如の妙理に染浄〔ぜんじょう〕の二法有りと云ふ事、】
真如の妙理に、染浄の二法が存在すると云う

【証文之〔これ〕多しと雖も、】
証拠の文章は、多いけれども、ただ、

【華厳経に云ふ「心と仏と及び衆生と是の三差別無し」の文と、】
華厳経の「心と仏と衆生の三つは、まったく差別がない」と云う文章と、

【法華経の「諸法実相」の文とには過ぐべからざるなり。】
法華経の「諸法実相」の文章に優るものはないのです。

【南岳大師の云はく「心体に染浄の二法を具足〔ぐそく〕して】
南岳大師は、「心の実態に染法と浄法の二つの法を具足して、

【而も異相〔いそう〕無く一味平等なり」云云。】
しかも異なった姿はなく、まったく一味平等である」と述べられ、

【又明鏡〔みょうきょう〕の譬へ真実〔まこと〕に一二〔つまびらか〕なり。】
また同じく南岳大師の明鏡の譬えは、まことに上手く、これを説いているのです。

【委しくは大乗止観の釈の如し。】
詳しくは、大乗止観の解釈のとおりなのです。

【又能〔よ〕き釈には籤の六に云はく】
また、優れた解釈の文章としては、妙楽大師の法華玄義釈籤〔しゃくせん〕の六に

【「三千理に在れば同じく】
「一念三千の道理が、ただ衆生の理具として、とどまっているだけであれば、

【無明と名づけ、】
それを無明と名づけ、

【三千果〔か〕成ずれば咸〔ことごと〕く常楽〔じょうらく〕と称す、】
「一念三千が仏果として成就したのであれば、それを常楽と云うのである。

【三千改むること無ければ無明〔むみょう〕即明〔そくみょう〕、】
いずれにしても、一念三千という実相は、不変なのであるから、無明、即明であり、

【三千並びに常なれば倶体〔くたい〕倶用〔くゆう〕なり」文。】
三千が衆生、仏ともに常住であるがゆえに俱体俱用である」と述べているのです。

【此の釈分明〔ふんみょう〕なり。】
この解釈によって、その内容は明確と云えるでしょう。

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