日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


当体義抄 4 本門寿量の当体蓮華


第三章 本門寿量の当体蓮華

【問ふ、一切衆生皆悉〔ことごと〕く妙法蓮華の当体ならば、】
このように、すべての衆生が皆、ことごとく妙法蓮華の当体であれば、

【我等が如き愚癡闇鈍〔あんどん〕の凡夫も即ち妙法の当体なりや。】
我々のように愚癡で道理に闇く理解も鈍い凡夫も、妙法の当体なのでしょうか。

【答ふ、当世の諸人之多しと雖も二人を出でず。】
それは、現在、人々の数は、多いけれども、全ての人は、二つに分けられるのです。

【謂〔いわ〕ゆる権教の人、実教の人なり。】
それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人であるのです。

【而して権教方便の念仏等を信ずる人をば、】
つまり、権教である方便の念仏などを信ずる人々は、

【妙法蓮華の体と云はるべからず。実教の法華経を信ずる人は、】
妙法蓮華の当体と言うことはできないのです。実教の法華経を信ずる人のみが

【即ち当体の蓮華、真如の妙体〔みょうたい〕是なり。】
当体蓮華であり、真如の不可思議な当体なのです。

【涅槃〔ねはん〕経に云はく「一切衆生、】
その文証として、涅槃経には「一切の衆生の中で、

【大乗を信ずる故に大乗の衆生と名づく」文。】
特に大乗教を信ずる人である故に大乗の衆生と名づけるのである」と説かれており、

【南岳大師の四安楽行〔あんらくぎょう〕に云はく】
また、南岳大師の四安楽行義には、

【「大強精進経〔だいごうしょうじんぎょう〕に云はく、】
「大強精進経にいわく、

【衆生と如来と同共〔どうぐ〕一法身〔いちほっしん〕にして】
信心によって九界の衆生も、仏界の仏と同じく、共に一つ法身であり、

【清浄妙〔しょうじょうみょう〕無比〔むひ〕なるを妙法華経と称す」文。】
清浄にして妙なること、比いなき故に妙法蓮華と称す」と説かれています。

【又云はく「法華経を修行するは】
また同じく南岳大師は「法華経を修行する者は、

【此の一心一学に衆果〔しゅか〕普〔あまね〕く備はり、】
この、すべての信心、修学にあらゆる果徳がそなわり、

【一時に具足して】
しかも、それは一度にして具〔そな〕わるのであって、

【次第入〔しだいにゅう〕に非ず。】
歴劫修行のように次第に得られるのではない。

【亦蓮華の】
それは、あたかも蓮華の華が開くと同時に、

【一華〔け〕に衆果を一時に具足するが如し。】
一つの華に、多くの果実を同時に具足するようなものであり、

【是を一乗の衆生の義と名づく」文。】
これを一乗の衆生の義と名づけるのである」と述べています。

【又云はく「二乗声聞及び鈍根の菩薩は、方便道の中の次第修学なり。】
また「二乗の声聞と鈍根の菩薩の修行は、方便の中での歴劫修行である。

【利根の菩薩は正直に方便を捨て、次第行を修〔しゅ〕せず。】
これに対して利根の菩薩は、正直に方便を捨てて歴劫修行などしない。

【若し法華〔ほっけ〕三昧〔ざんまい〕を証すれば衆果悉く具足す、】
もし、法華のさとりを証得するならば、一切の果徳がことごとく具足する。

【是を一乗の衆生と名づく」文。】
これを一乗の衆生と名づける」と述べられているのです。

【南岳の釈の意は、次第行の三字をば、】
南岳大師のこの解釈の中の「次第行」の三字を、

【当世の学者は別教なりと料簡〔りょうけん〕するなり。然るに此の釈の意は、】
世間一般の学者は、別教であると理解していますが、それは誤りであり、

【法華の因果具足の道に対して】
この解釈の意味は、法華経の因果俱時の完全な教えに相対して、

【方便道を次第行と云ふ故に、爾前の円・】
方便の道を次第行と言っているのです。故に次第行とは、爾前の円、

【爾前の諸大乗経並びに頓漸〔とんぜん〕】
爾前の諸々の大乗経や頓教〔とんぎょう〕、漸教〔ぜんきょう〕、

【大小の諸経なり。】
大小の諸々の経文すべてを言うのです。

【証拠は無量義経に云はく「次に方等〔ほうどう〕十二部経・】
その証拠として、法華経の開経である無量義経説法品第二に「次に方等十二部経、

【摩訶般若〔まかはんにゃ〕・華厳海空を説いて、】
大般若経、華厳経を説いて、

【菩薩の歴劫〔りゃっこう〕修行を宣説す」文。】
菩薩の歴劫修行を説明する」と説かれています。

【大強精進〔だいごうしょうじん〕経の同共〔どうぐ〕の】
この大強精進経の同共の

【二字に習ひ相伝するなり。】
二字に習って相伝するのですが、

【法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。】
法華経(御本尊)に同共つまり境智冥合する者は、妙法の当体であり、

【不同共は念仏者等なり、】
法華経に不同共の法華不信の念仏者などは、

【仏性・法身如来に背く故に妙経の体に非ず。】
すでに衆生所具の仏性や法身如来に背くゆえに妙経の当体ではないのです。

【此等の文の意を案ずるに、】
これらの文章の意義を考えてみれば、

【三乗・五乗・七方便・九法界・四味・三教・一切の凡聖〔ぼんしょう〕等をば】
三乗、五乗、七方便、九法界など、四味三教を修行する一切の凡夫、聖人などは、

【大乗の衆生、妙法蓮華の当体〔とうたい〕とは名づくべからず。】
大乗の衆生、妙法蓮華の当体と名づけるべきではないのです。

【設〔たと〕ひ仏なりと雖も、】
たとえ仏であっても、

【権教の仏には仏界の名言〔みょうごん〕を付くべからず。】
権教の仏に対しては、仏界と名づけるべきではないのです。

【権教の三身は】
なぜならば、権教の三身は、

【未だ無常を免れざる故なり。】
永遠の生命を説いていない故に、いまだ無常を免〔まぬが〕れないからなのです。

【何〔いか〕に況んや其の余の界々の名言をや。】
まして、その他の九界に対しては、どうして当体蓮華と名づけられるでしょうか。

【故に正像〔しょうぞう〕二千年の国王大臣よりも】
ゆえに正像二千年間の国王、大臣よりも、

【末法の非人は尊貴なりと釈するは此の意なり。】
末法に生まれた非人の方が尊貴であると解釈しているのもこの意味なのです。

【所詮〔しょせん〕妙法蓮華の当体とは、】
所詮、妙法蓮華の当体とは、

【法華経を信ずる日蓮が弟子檀那〔だんな〕等の父母所生の肉身是〔これ〕なり。】
法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身のことなのです。

【南岳釈して云はく「一切衆生、法身の蔵〔ぞう〕を具足して、】
南岳大師は安楽行義に「一切の衆生は、法身の蔵を具足しているので、

【仏と一にして異なり有ること無し。是の故に法華に云はく、】
仏と何ら異なることはない」と述べています。また、法華経法師功徳品第十九では、

【父母所生の清浄の】
「父母所生の清浄の

【常の眼〔げん〕・耳〔に〕・鼻〔び〕・舌〔ぜつ〕・身〔しん〕・意〔に〕、】
常の眼、耳、鼻、舌、身、意も

【亦復〔またまた〕是くの如し」文。】
また是くのごとし」と説かれています。

【又云はく「問うて云はく、何〔いず〕れの経の中に眼等の諸根を説いて、】
さらに安楽行義に「問うていわく、仏は、いずれの経の中で眼など諸根を説いて

【名づけて如来と為〔す〕るや。答へて云はく、】
名づけて如来としているのか。答えていわく、

【大強精進経の中に衆生と如来と】
大強精進経の中に、信心によって衆生(九界)と如来(仏界)は

【同共一法身にして清浄妙無比なるを】
共に同じ一法身であって、その清浄妙なることは、比類がない。

【妙法蓮華経と称す」文。】
それを妙法蓮華経と称するのである」と説いています。

【文は他経に有りと雖も、】
この大強精進経は、方便権教の文章ではありますが、

【下文〔げもん〕顕はれ已〔お〕はれば通じて】
法華経が、すでに説き顕されているから、会入の立ち場からすると、

【引用することを得るなり。】
引用することができるのです。

【正直に方便を捨て但法華経を信じ、】
正直に方便の教えを捨て、ただ法華経(御本尊)のみを信じ、

【南無妙法蓮華経と唱ふる人は、】
南無妙法蓮華経と唱える人は、

【煩悩〔ぼんのう〕・業〔ごう〕・苦の三道、法身・般若・解脱〔げだつ〕の】
煩悩、業、苦の三道が、法身、般若、解脱の

【三徳と転じて、三観〔さんがん〕・三諦〔さんたい〕即一心に顕はれ、】
三徳と転じて、三観、三諦がそのまま一心に顕われ、

【其の人の所住の処は常〔じょう〕寂光土〔じゃっこうど〕なり。】
その人のいる所は、そのまま常寂光土となるのです。

【能居〔のうご〕・所居〔しょご〕、身土〔しんど〕・色心、】
能居所居、身土、色心、

【倶体〔くたい〕倶用〔くゆう〕の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、】
俱体俱用、無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、

【日蓮が弟子檀那等の中の事なり。】
日蓮の弟子檀那などの中で正しい信心をする者のことなのです。

【是即ち法華の当体、】
これが妙法蓮華経の当体であり、

【自在神力〔じんりき〕の顕はす所の功能〔くのう〕なり。】
妙法に具わる自在神力の顕わす功徳なのです。

【敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。】
絶対に、これを疑ってはならないのです。

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