日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


当体義抄 9 当体、譬喩の合説


第八章 当体、譬喩の合説

【問ふ、当流の法門の意は、諸宗の人来たって当体蓮華の証文を問はん時は、】
それでは、当門流の法門の真意は、他宗の者が当体蓮華の証文を訊ねた場合、

【法華経の何れの文を出だすべきや。】
法華経のどの文章で説明すれば、よいのでしょうか。

【答ふ、二十八品の始めに妙法蓮華経と題す、】
それについては、二十八品のまず始めに妙法蓮華経と題してあるが、

【此の文を出だすべきなり。】
まずは、この題目を出すべきでしょう。

【問ふ、何を以て品々の題目は】
なぜ、二十八品の始めの妙法蓮華経と云う題目が、

【当体蓮華なりと云ふ事を知ることを得ん。】
当体蓮華であると云うことを知ることができるのでしょうか。

【故は天台大師今経の首題〔しゅだい〕を釈する時、】
天台大師は、法華経の首題を解釈するときに、

【蓮華とは譬喩を挙ぐると云って譬喩蓮華と釈し給へる者をや。】
この蓮華は、譬喩であると言って、譬喩蓮華と説明しているではありませんか。

【答ふ、題目の蓮華は当体・譬喩を合説〔がっせつ〕す。】
それについては、題目の蓮華は、当体、譬喩の両方の蓮華を合説しているのです。

【天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり。】
天台大師のその時の解釈は、両方の譬喩の場合を解釈したものなのです。

【玄文〔げんもん〕第一の本迹の六譬は此の意なり。】
玄義の文章の第一にある本迹の六譬は、この意味なのですが、

【同じく第七には当体の辺を釈するなり。】
それに対して、玄義の文章の第七は、当体蓮華の場合を解釈しているのです。

【故に天台は題目の蓮華を以て】
それ故に天台は、題目の蓮華をもって、

【当体・譬喩の両説を釈する故に失〔とが〕無し。】
当体蓮華、譬喩蓮華の両方を解釈している故に間違いは無いのです。

【問ふ、何を以て題目の蓮華は】
それでは、どうして題目の蓮華が、

【当体・譬喩合説すと云ふ事を知ることを得ん。】
当体、譬喩の両方を合説することを、どうして知ることができるのでしょうか。

【南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるが故に、】
南岳大師も妙法蓮華経の五字を解釈する時に「妙とは、衆生が妙であるからであり、

【法とは衆生法なるが故に、】
法とは、衆生が法そのものであるからである。

【蓮華とは是〔これ〕譬喩を借るなり」文。】
蓮華とは、草花の蓮華を借りて譬えたのである」と安楽行義の中で述べており、

【南岳・天台の釈に既に】
このように南岳も天台も共に

【譬喩蓮華なりと釈し給ふは如何。】
譬喩蓮華と解釈しているのではないでしょうか、この点はいかがでしょうか。

【答ふ、南岳の釈も天台の釈の如し云云。】
それは、この時の南岳の解釈も天台の解釈と同様なのです。

【但〔ただ〕当体・譬喩合説すと云ふ事】
ただ、当体、譬喩の両方の意義を合わせ説いたと言うことは、

【経文に分明〔ふんみょう〕ならずと雖も、】
経文上では、必ずしも明確でなくても、

【南岳・天台既に天親〔てんじん〕・竜樹〔りゅうじゅ〕の論に依って】
南岳も天台も、すでに天親の法華論と竜樹の大智度論によって、

【合説の意を判釈〔はんじゃく〕せり。】
当体と譬喩の合説の意義を判断して説明しているのです。

【所謂〔いわゆる〕法華論に云はく「妙法蓮華とは二種の義有り。】
いわゆる天親の法華論には「妙法蓮華とは、二種の義がある。

【一に出水〔しゅっすい〕の義、乃至泥水〔でいすい〕を出づるをば、】
第一は、出水の義である。つまり、蓮華が泥水から水面に出ると言うことは、

【諸の声聞〔しょうもん〕、如来、大衆の中に入って坐すること、】
諸の声聞が仏と大衆の中に交わり話し合うのは、

【諸の菩薩の蓮華の上に坐するが如く、】
諸々の菩薩たちが蓮華の上に座っている姿と同じで、

【如来無上の智慧、清浄の境界〔きょうがい〕を説くを聞いて、】
如来の無上の智慧、清浄の境界を説くのを聞いて、

【如来の密蔵〔みつぞう〕を証するを喩ふるが故に。】
如来の秘密の蔵を証得することを譬える為なのである。

【二に華開〔けかい〕とは、諸の衆生、大乗の中に於て、】
二に華開とは、多くの衆生が大乗の中にあって、

【其の心怯弱〔こうにゃく〕にして信を生ずること能〔あた〕はず。】
その心が弱く臆病で信じる事が出来ずにいるのですが、

【故に如来、浄妙〔じょうみょう〕の法身を開示して、】
それゆえに如来が自ら浄妙法身を開示して、

【信心を生ぜしめんが故に」文。】
信心を生ぜしめようとするが為である」と説かれています。

【諸の菩薩の諸の字は、法華已前〔いぜん〕の大小の諸の菩薩、】
この文章の諸菩薩の「諸」の字は、法華以前の大乗、小乗の菩薩が、

【法華経に来たって仏の蓮華を得んと云ふ事、】
法華経の会座にきて、はじめて仏の蓮華を得ることができると言うことが、

【法華論の文に分明なり。】
法華論の文章で明らかになっているのです。

【故に知んぬ「菩薩処々〔しょしょ〕に入ることを得〔う〕」とは方便なり。】
したがって菩薩が法華以前に処々で悟りを得たと云うのは、方便なのです。

【天台此の論の文を釈して云はく「今〔いま〕論の意を解するに、】
天台大師は、この法華論の文章を玄義巻七に「この論文の意味を理解すれば、

【若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言はゞ、】
法華論で、仏が衆生に対して浄妙法身を開示して見せしめると言う意味は、

【此〔これ〕妙因の開発〔かいほつ〕を以て蓮華と為るなり。】
妙法の因の下種によって仏界を開き顕すことをもって蓮華とすることである。

【若し如来、大衆の中に入って蓮華の上に坐すと言はゞ、】
また、仏が大衆の中に入って蓮華の上に座ると云うのは、

【此は妙報〔みょうほう〕国土〔こくど〕を以て蓮華と為るなり。】
妙法の因の下種される国土を指して蓮華とすることなのである。

【若し声聞此に入ることを得れば、】
若し声聞がここに入ることが出来れば、

【即ち妙報国土を以て蓮華と為るなり」と。】
ここが、そのまま妙報国土となって蓮華と為るのである」と記してあります。

【又天台が当体・譬喩合説する様を委細〔いさい〕に釈する時、】
また、天台大師が当体、譬喩の両義を合わせ説く意義を詳細に顕された時、

【大集経の「我今〔いま〕仏の蓮華を敬礼〔きょうらい〕す」と云ふ文と、】
大集経の「我れ今、仏の蓮華を敬い礼拝する」という文章と、

【法華論の今の文とを引証して釈して云はく】
法華論の今の文章とを引いて、それを証拠として次のように言っているのです。

【「若し大集に依らば行法〔ぎょうぼう〕の因果を蓮華と為す。】
「若し大集経によれば、修行上の因果を蓮華とする。

【菩薩上〔うえ〕に処すれば則ち是〔これ〕因の華〔け〕なり。】
菩薩が蓮華の上に座っていれば、これは因の華である。

【仏の蓮華を礼〔らい〕すれば則ち是〔これ〕果の華なり。】
仏の蓮華を礼拝するならば、すなわち、これは果の華である。

【若し法華論に依らば依報〔えほう〕の国土を以て蓮華と為す。】
若し法華論によれば、依報の国土を蓮華とするのである。

【復〔また〕菩薩は蓮華の行を修するに由って、】
また菩薩が、蓮華の法を修行することによって、

【報〔ほう〕に蓮華の国土を得〔う〕。当に知るべし、】
その果報として蓮華の国土を得るのである。これによって正に知るべきである。

【依正〔えしょう〕・因果悉く】
依報の国土も正報の自身も因である菩薩も果である仏も、

【是〔これ〕蓮華の法なり。】
ことごとくが蓮華の法であることを。

【何ぞ譬へをもって顕はすことを須〔もち〕ひん。】
したがって、どうして譬えを借りて顕すことを必要とするのであろうか。

【鈍人〔どんにん〕の法性〔ほっしょう〕の蓮華を解せざるを為〔もっ〕ての故に】
しかしながら、鈍根で、法性の蓮華を理解できない者のために、

【世の華を挙げて譬へと為す。】
あえて草花の蓮華を挙げて譬えとしたとしても

【亦〔また〕応に何の妨げかあるべけん」文。又云はく】
なにか問題になることがあろうか」と述べられ、また、

【「若し蓮華に非ずんば何に由ってか】
「もし蓮華でなければ、何によって、

【遍く上来の諸法を喩へん。】
以上、述べた法華の諸法を譬えることが、できるであろうか。

【法譬〔ほっぴ〕双〔なら〕び弁ずるが故に妙法蓮華経と称するなり」文。】
法と譬えとを並べ論ずるが故に妙法蓮華と称するのである」と述べられています。

【竜樹菩薩の大論に云はく】
竜樹菩薩の大論には、

【「蓮華とは法譬並び挙ぐるなり」文。】
「蓮華とは、法と譬えとを共に並べあげた表現である」と述べられています。

【伝教大師が天親・竜樹の二論の】
伝教大師は、守護国界章巻中で、この天親の法華論と竜樹の大智度論の

【文を釈して云はく「論の文但〔ただ〕妙法蓮華経と】
文章を解説して「法華論の文章は、ただ妙法蓮華経と

【名づくるに二種の義有り。】
名づけるのに、二種の意義があると言っているのであり、

【唯〔ただ〕蓮華と名づくるに二種の義有りと謂〔い〕ふには非ず。】
ただ、華草の蓮華に二種の意義があると言っているのではない。

【凡〔およ〕そ法譬とは相似するを好しと為す。】
およそ、法と喩えとは、互いに良く似ていることが望ましいのであり、

【若し相似せざれば何を以てか他を解せしめん。】
もし、似ていなければ、どうして、他の人々を理解させられようか。

【是の故に釈論に法譬並び挙ぐ。】
それ故に大論には、法と喩えを並べ挙げられたのである。

【一心の妙法蓮華とは因華・果台倶時〔ぐじ〕に増長す。】
一心の妙法蓮華とは、因の華と果の台とが同時に存在するのである。

【此の義解〔げ〕し難し、喩へを仮るに解し易し。】
この義は、非常に理解しがたい。しかし、喩えを仮りれば理解しやすいのである。

【此の理教を詮〔せん〕ずるを名づけて妙法蓮華経と為す」文。】
この理が教をあらわす故に妙法蓮華経と名づけるのである」と記されているのです。

【此等の論文〔ろんもん〕・】
これらの法華論、大智度論の文章や、

【釈義〔しゃくぎ〕分明なり、】
天台、伝教の解釈によって法譬合説は、明らかなのです。

【文に在って見るべし。】
これらの文章について、よくよく検討すべきです。

【包蔵〔ほうぞう〕せざるが故に合説〔がっせつ〕の】
包み隠すところは、まったくなく、法譬合説の意義は、

【義極成〔ごくじょう〕せり。】
このように完全に説き尽くされているのです。

【凡そ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。】
およそ、法華経の真意は、譬喩即法体、法体即譬喩なのです。

【故に伝教大師釈して云はく】
故に伝教大師は、法華経を解釈して、

【「今経は譬喩多しと雖も大喩〔だいゆ〕は是七喩なり。】
「法華経には、譬喩が多くあるけれども、大きな喩えは七つであり、

【此の七喩は即法体、法体は即譬喩なり。】
この七つの喩えは、そのまま法体であり、法体はそのまま、譬喩である。

【故に譬喩の外に法体無く、法体の外に譬喩無し。】
故に譬喩の外に法体はなく、法体の外に譬喩はない。

【但し法体とは法性の理体なり、譬喩とは即ち妙法の事相の体なり。】
ただし、法体とは、法性の理体であり、譬喩とは、そのまま妙法の事相の体である。

【事相即理体なり、理体即事相なり。】
事相がそのまま理体であり、理体がそのまま事相である。

【故に法譬一体と云ふなり。】
故に法譬一体というのである。

【是を以て論文の山家〔さんげ〕の釈に、】
以上の理由によって竜樹、天親や南岳、天台等の解釈には、

【皆蓮華を釈するには法譬並び挙ぐ」等云云。】
皆、蓮華を釈する時は、法体と譬喩とを並べあげている」と述べられているのです。

【釈の意分明なり、故に重ねて云はず。】
このように解説の意味は、明らかで重ねて論ずることはしません。

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