日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


頼基陳状 01 背景と大意

頼基陳状(1126頁)

建治三年六月九日(西暦1277年)に鎌倉の桑ケ谷で当時衆目を集めていた比叡山から鎌倉に下って来た元天台宗の僧侶、竜象房を大聖人の弟子である三位房が徹底的に破折した桑ヶ谷問答が起きました。
この問答で三位房は、問答に先立ち四条金吾頼基のもとを訪ねて、問答の場に誘いましたが、四条金吾頼基は公用のため同行できず、その公用を済ませた後に、その場に行って問答を傍聴したのです。
それから二週間を経た六月二十三日に、島田左衛門入道と山城民部入道の両人の取り次ぎにより主君江馬氏から命令文書である下し文が発せられ、六月二十五日、四条金吾頼基のもとに届いたのです。
それには、四条金吾頼基に法華経の信仰を捨てることを誓う起請文を書くことや、その命令に背けば所領を没収し、家臣からも追放する等と記されていたと思われます。
下し文を突きつけられた四条金吾頼基は、即座に身延の日蓮大聖人に桑ヶ谷問答の顛末を報告するとともに、たとえ所領を没収されても法華経の信仰を捨てる起請文は書かないとの誓状を送りました。
大聖人は、四条金吾頼基の強い決意と、正法弘通に対する覚悟を受け止められ、建治三年六月二十五日、大聖人五十六歳の御時に、身延において本抄を執筆されたのです。
内容は、江馬氏からの下し文に記される条文を挙げて四条金吾頼基がそれに応える形式をもって、大聖人が四条金吾頼基に代わって筆を執られ、その潔白を証明して主君、江馬氏の誤解を解き、四条金吾頼基に対する起請文提出の命令を取り下げると共に、讒言をなした者たちと召し合わせて真相を糾明するように、その冤罪を訴えられた陳述書となっています。
その為、本抄は、別名を三位房竜象房問答記と呼ばれ、御真蹟は現存しませんが、日興上人の写本が現在は日蓮宗の北山本門寺に所蔵されています。 はじめに、桑ヶ谷問答の場に四条金吾頼基が武装の徒を率いて狼藉を働いたとの下し文に対して、桑ヶ谷での問答は、以前から竜象房が「もし不審がある者は私の所へ来て問答し、その不審を晴らしなさい」と吹聴していたことによるものであり、六月九日も竜象房が説法中に同様の言葉を発したことから、その説法が終わって三位房が法華経と爾前経の正邪について質問したことから問答になったのであって、その問答が進む中、返答に窮した竜象房が「古の賢人哲人を疑うのはいけない」「弘法大師や法然上人を悪く言うと聴衆等が怒り乱れるので、これ以上の問答はできない」など言い逃れをし、最終的には、進退極まって口を閉ざしてしまったのに対して、三位房が法華経の経文を挙げ「真の智者ならば、世に悪法が弘まるのを見過ごさずに諫めるべきであり、真の聖人ならば自らの身命を惜しまず、世間や人を憚らず、正法を弘めて正義に導くべきである」「私の師匠である日蓮大聖人は、身命を惜しまず、幾多の難に遭おうとも、正法弘通に徹してこられた正師である」等と述べた上で、竜象房に向かって「あなたの法門理解の程度で説法をするならば、人を救うどころかかえって師檀ともに無間地獄に堕ちてしまうため、今後このような説法は、止めるべきである。本来ならば、このような発言は控えるべきとも思ったが、あなたの無責任な説法を聴聞している人々が悪道に墮ちることが不憫に思われたので敢えて申し上げた」と警告して問答が終結したことなど、三位房と竜象房による問答の応酬について詳しく記された上で、四条金吾頼基自身は法座に遅れて参じた一傍聴者に過ぎないので、武装して乱人することなど有り得ないことを強調されると共に、問答のあった桑ヶ谷付近で四条金吾頼基を知らない者はいないので、この話は、四条金吾頼基を妬む人による讒言であると考えられ実際に讒訴した者たちと江間氏の前で対面し真相の糾明を果たしたいと要求されます。
次に主君が尊信している極楽寺良観と竜象房に対して、四条金吾頼基は、批判を加えているとの下し文に対して、良観は、表面上は、いかにも上人を装って「生き草でさえ伐るべからず」と振舞っているが日蓮大聖人を陥れようと暗躍している張本人であり、さらに文永8年(西暦1271年)の祈雨の時の実態を通して、その良観の誑惑ぶりを教えられ、竜象房についても、本抄には、「彼の竜象房は洛中〔らくちゅう〕にして人の骨肉を朝夕の食物とする由〔よし〕露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起〔ほうき〕して、世末代に及びて悪鬼国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加へむとて、住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に、」(御書1132頁)とあり、天台僧であったにもかかわらず京都市中において真言密教の修法として人肉を食していたことが発覚し、建治元年四月に、比叡山の山門派の衆徒によって住坊を焼き払われ、所を追われていたことを指摘されています。
これに関しては「天台座主記」の建治元年の項目にも「四月二十七日、山門の衆徒、群下りて東光寺に集会し、公友並びに犬神人を差し遣わし、竜象上人の住房に於ては之を焼き払い、中山の住房に於ては、犬神人等之を破り取る」とあり、上文中の犬神人とは、京都祗園社において清掃や警固、葬儀の埋葬などを行った身分の低い下級神職のことで祇園社が比叡山延暦寺の末社であったため延暦寺の兵卒となることもあり、この中の竜象上人と鎌倉へ流れてきた竜象とが同一人物であったことは、間違いありません。しかも上人と呼ばれるほどの高僧でもあったのです。
また、人肉を食すという修法については、秋元御書にも「真言師・禅宗・持斎〔じさい〕等人を食する者国中に充満せり。」(御書1450頁)とあることから、当時、このような真言密教の修法が全国的に行われていたようです。
竜象房は、比叡山の衆徒から追放される直前に逃亡し、二年ほど影をひそめていましたが建治三年ごろに鎌倉へ出没し、前述の偽善者の極楽寺良観と相通じ、鎌倉大仏殿の西にある桑ヶ谷に住して、日夜、言葉巧みに民衆を惑わす説法をするようになったのです。
それが三位房との問答で徹底的に破折されたために、ついに良観と謀り、鎌倉の代表的檀越であった四条金吾頼基に狙いをつけ、このような流言飛語を撒き散らして迫害をなしてきたのです。
このように良観と竜象房は、僧とは名ばかりの外道の名聞名利の者であり、このような良観と竜象房の虚像を排し、その実像を示して両人への江間氏の帰依を諫められています。
また主君に従わないのは、神、仏の教えにも世間の常識にも反しているとの下し文の指摘に対し、世法における礼節の大切さや、仏法においても報恩が大事である事を指摘されながらも世間においても主君や親が道理に反する場合は、臣下や子が諫言すべきこと、さらには、仏法の報恩の意義に照らせば、耆婆大臣が阿闍世王を諌言して救った故事を述べられて、今、主君の妄信を破り正法に導くことこそ、真の報恩で有り、もし、この主君の謗法を諌めずに放置するならば、四条金吾頼基も与同罪に陥ることを述べられて、主君に対して捨邪帰正の大事を訴えられています。
また四条家は、父、頼員の時代から親子ニ代にわたって江馬氏に仕えており、中でも四条金吾頼基は、文水八年の二月騒動の主君の窮状においても、いちはやく江間氏へ馳せ参じたことを指摘され、世間の常識からしても家臣として江間氏に忠誠を尽くしており、仏法の上からも四条金吾頼基が日蓮大聖人の教えこそが末法の正しい信仰であると確信して主君ともどもの成仏を願って祈ってきたことを記されています。
さらに、平安時代の伝教大師以降、日本は、法華経を国是として来たにも関わらず真言によって謗法の国となったのに加え、鎌倉時代に至っては、禅や念仏などの邪法邪義が蔓延したため諸天善神が未曽有の天変地夭をもって警告したのに一向に謗法を改めないので諸天善神がさらに隣国に命じて法華経誹謗の人々を治罰するに至ったことを説明されています。
このように災難の根本的な原因を日蓮大聖人ただ御一人だけが知っておられることから、四条金吾頼基は法華経を深く信仰し、この日蓮大聖人の正義に比べれば良観房の律宗は、小乗戒に偏執するもので経文に照らしても、濁悪の末法に於いては、全く無意味な教えであることを示して、もし四条金吾頼基が法華経を捨てると言う起請文を書くならば、仏法の厳格な因果の道理に照らして、主君の身の上に法華経の罰が現われ、名越の公達が横死したことと同じようになってしまうと訴えられています。
さらに、このような竜象房や良観房の策謀による讒言を真に受けた主君の不当な命令を受けても起請文を提出せずに主君を救おうとして来た四条金吾頼基が主君のもとを去るようなことになれば、江間氏は、法華誹謗の罪に依って無間地獄に堕ちてしまうであろうと訴えられています。
最後に、重ねて、このような讒言をしている者達と引き合わせた上で、事の真相を糾明されるよう述べられて本抄を結ばれます。
このような苦境にあっても四条金吾頼基は、動揺することなく、直ちに大聖人の御指示を仰ぎ、常に仏法の正義を中心にしながら主君への忠誠を尽くすことに徹しました。
そのため、一時は所領没収などの境遇に遭いましたが、その後、流行病を患った主君に対し、医術の面から懸命に治療、施薬し、主君の命を救うことに尽力したため、次第に主君の誤解も解けて、建治四年の一月頃には、新たに三カ所の領地を授かるなど以前よりも大きな信頼を得るに至りました。
どれほどの苦境や困難に遭っても、大聖人の御教導に従い、身軽法重・死身弘法の折伏実賤を貫き通し、見事に妙法受持の大功徳を顕わした四条金吾頼基の姿こそ信仰の模範です。

ページのトップへ戻る