日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


兄弟抄 01 背景と大意

兄弟抄 (御書977頁)

本抄は、建治二年(西暦1276年)四月、大聖人が55歳の御時に身延において、池上兄弟に対して与えられた御書です。 池上兄弟は、兄は、右衛門大夫宗仲〔うえもんのたいふむねなか〕と言い、弟は、兵衛志宗長〔ひょうえさかんむねなが〕と言って、鎌倉幕府に作事奉行〔さくじぶぎょう〕として仕えていた池上左衛門大夫康光〔さえもんのたいふやすみつ〕の子息です。
本来の姓は、藤原氏であるようで、当時の名門であり、武蔵国池上の千束〔せんぞく〕の郷を領土としていた為、池上を名乗っていたものと思われます。
日蓮大聖人が病気療養の為に湯治に向かわれる途中、この池上家の館で、弘安5年(西暦1282年)10月13日の辰の刻(午前8時頃)、61歳で御入滅されました。
現在の東京都大田区池上にある池上本門寺がその後ですが、この池上兄弟を開基としていながら、日蓮大聖人の正意を理解出来ずに他の日蓮宗同様の邪宗邪義となっています。 本書の御真筆は、この池上本門寺に現存しており、重要文化財に指定されています。
兄弟の父である康光は、吾妻鏡の中に将軍頼経〔よりつね〕の供として名があり、それからも家自体が相当高い身分であったことがわかります。
また兄弟は、建長5年から大聖人の弟子となっていた弁阿闍梨日昭の甥でもあったことから、建長8年(西暦1256年)の頃に大聖人に帰依したと伝えられ、当時27歳であった四条金吾に対して兄の宗仲が34歳であったように鎌倉の檀越〔だんのつ〕の中では最古参であったようです。
また安房の国の工藤吉隆もこの池上家に縁があると言われています。
しかし、父の康光は、律、念仏宗の極楽寺良観の熱心な信者であり、大聖人が律宗を国賊と破折し、良観を僭称増上慢と断言されていたことから、大聖人に対して憎しみを抱き、大聖人に帰依することに大反対でした。
建治二年のはじめ、その良観の策謀により、父康光が兄の宗仲を勘当し、さらに弟に対しては、家督を譲ることを条件に信心退転を迫ると言う事件が起きました。
この知らせを受けた大聖人は、四月十六日に本抄を認められたのです。
そして、このたびの勘当は、兄弟の正法修行により、三障四魔が父母、主君の身に入って兄弟の信心をためす為の魔の所為であり、今こそ、魔を魔と見破り、さらに強盛な信仰に励むよう激励されたのです。
さらに、この法門をいったん言い出せば、必ず魔が出来〔しゅったい〕するのであり、魔が競わなければ正法と知るべからずと述べられ、摩訶止観の第五の巻に「行解〔ぎょうげ〕既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏〔おそ〕るべからず。之に随へば将〔まさ〕に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」(御書986頁)と天台大師が著しており、この天台大師の解釈は、日蓮の身に当たるのみならず、門家の明鏡であり、謹んで習い伝へて未来の糧〔かて〕とせよと御教示されています。この中の三障と言うのは、煩悩障、業障、報障のことであり、この中の煩悩障と言うのは、自らの貪、瞋、癡によって起こり、業障と言うのは、妻子などによって起こり、報障と言うのは、国主、父母などによって起こると仰せです。
また、この四魔の中の天子魔〔てんじま〕とは、三障四魔の根源である第六天の魔王のことで、欲界の第六天にいる他化自在天のことです。
治病大小権実違目には「元品の無明〔むみょう〕は第六天の魔王と顕はれたり。」(御書1237頁)とあるように、御本尊を信じさせまいとする根本の障害は、この三障四魔の天子魔となって現れるのです。
まさに陰で糸を引く僭称増上慢の良観こそ、日蓮大聖人、また、この池上兄弟にとって三障四魔の第六天の魔王であるのです。

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