日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


真言見聞 1 背景と大意

真言見聞 (御書608頁)

真言宗と言えば、現代でも四国の霊場巡りなどで知られていますが、その教義など人々が知るべくもなく、ただただ無条件に現世利益を求めて、護摩焚きや荒行に明け暮れている真言師を有難がっているのです。
これらは、すべて鎌倉時代に日蓮大聖人によって真言亡国と断じられているのであって、その事がこの御書によって明らかにされているのです。
文永九年(西暦1272年)七月、日蓮大聖人、五十一歳の御時に佐渡の一谷〔いちのさわ〕において三位房〔さんみぼう)日行に対して認〔したた〕められました。
三位房日行は、詳しいことは不明ですが、下総国(千葉県)の出身で、早くから大聖人の弟子となり、京都の比叡山延暦寺に三年前の文永六年頃に遊学しており、その遊学間のない時期に京都の公家に招かれ、持仏堂で説法をして、面目を施すほど学才が優れていました。
さらに「十章抄」には、延暦寺の学僧の中にあっては、摩訶止観の講義にも出席しており、しかも止観をその後、同席の学僧に末法における止観行について説くことのできる立場であったことが「止観よみあげさせ給はゞすみ〔速〕やかに御わたり候へ。」と言う文章から伺〔うかが〕え、三年余りの叡山遊学を終えて鎌倉の大聖人のもとに帰ったと思われます。
このように日興上人の富士方面の弘教や、諸宗との問答を日蓮大聖人に命じられ、「頼基陳状」では、建治三年(西暦1277年)六月九日の鎌倉桑ケ谷〔くわがやつ〕での天台僧・竜象房〔りゅうぞうぼう〕との問答において、完膚なきまでに論破した様子を述べられおり、居合わせた聴衆は、その見事さに大いに歓喜し、三位房に説法を請うほどだったと言われています。
しかし、その半面、自らの学才に溺れ、京都の公家に招かれて説法したことを喜ぶような名聞を尊ぶ心があり、「法門申さるべき様の事」に「日蓮をいやしみてかけるか。総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう、」(御書430頁)とあり、そうした虚栄心を大聖人から厳しく叱責されています。
御書によっては、三位公、三位殿、三位阿闍梨などと日蓮大聖人から尊称で呼ばれるなど天台教学に詳しく、幾多の法論で功をなしてはいますが、得てして御本仏である日蓮大聖人を軽んじる姿勢が随所にあり、最終的には、才智におぼれ慢心を起こし、大聖人の御指南に背くことが重なって、弘安二年(西暦1279年)に起きた熱原法難で退転し、不慮の死を遂げたと思われます。
御真筆は、現存しませんが、民部日向〔みんぶにこう〕の講義を集めた「金綱集」の中の「真言見聞集」に、三分割されて収録されています。
日蓮大聖人は、佐渡以後の文永十一年頃より天台密教の破折を始められましたが、本抄は、それ以前の佐渡在島中に書かれている為、真言に対する破折はありますが、天台密教を取り入れた円珍以後の比叡山延暦寺に対する破折はありません。
この御書において真言亡国の理由について、真言の誹謗正法の故であると明かされ、真言は、無量の五逆罪にも過ぎた無間地獄に堕ちる悪法であり、真言三部経には、二乗作仏、久遠実成が説かれておらず、現世利益を尊ぶ真言に対して、根本となる法理がない目の前の刹那的な現実だけを重んじている外道と同じであると破折されており、そのような非論理的な邪法を行ずる者が、国家を祈祷しても何の意味もなさず、むしろ逆に人々を惑わし、狂信的な独裁国家になっていくことを示されています。


ページのトップへ戻る