日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


池上兄弟御消息文 01 池上兄弟について

池上兄弟は、兄は、宗仲〔むねなか〕と言い、弟は、宗長〔むねなが〕と伝えられています。
池上家は、武蔵国〔むさしのくに〕、千束郷〔せんぞくごう〕池上(現在の東京都大田区池上)の地頭で、兄の宗仲は、右衛門〔うえもん〕大夫〔たいふ〕の志〔さかん〕、弟の宗長は、兵衛〔ひょうえ〕の志〔さかん〕と言う官職を持っており、日蓮大聖人は、それぞれの官職名で二人を呼ばれています。
父親は、康光と伝承されていますが、別の説もあります。
大聖人が左衛門大夫〔さえもんのたいふ〕と呼ばれていることから、官位の五位に昇っていたことがわかります。
官位が五位であると言うことは、当時の慣例では、執権ですら、四位、五位以上ではなかったことを思えば、鎌倉時代にあっては、池上家は、社会的な栄誉があり、武士としては、相当、高い身分であったといえます。
それと言うのも、池上家が、代々、鎌倉幕府の建物の造営や修理などの土木事業に携〔たずさ〕わり、それ相当の力を持っていたと考えられているからなのです。
兄の宗仲が日蓮大聖人に帰依した時期については、明確では、ありませんが、大聖人が立宗宣言されてから、3年後の建長8年(西暦1256年)頃、四条金吾らと同時期であったと思われます。
また、母親は、下総国、印東〔いんとう〕庄の領主、印東治郎左衛門尉祐昭〔すけあき〕の娘で、日昭は、この母の弟であり、同じく母方の従兄弟〔いとこ〕に日朗、日像がいます。
日昭は、建長5年(西暦1253年)11月と言う早い時期から、大聖人の弟子になっており、その日昭の甥〔おい〕であった池上兄弟は、その関係で入信したとも伝えられています。
父親の康光は、鎌倉幕府の庇護を受けていた極楽寺、良観の熱心な信者であった為、日蓮大聖人の信徒となった宗仲は、建治2年(西暦1276年)、そしてまた、建治3年(西暦1277年)の二度にわたり、父から勘当されました。
日蓮大聖人は、その良観に対して、極楽寺良観への御状(御書376頁)において「僣聖〔せんしょう〕増上慢〔ぞうじょうまん〕にして今生は国賊、来世は那落〔ならく〕に堕在〔だざい〕せんこと必定せり。」と指摘され、世間では聖人のように崇〔あが〕められているが、実際には、名聞名利を求める私利私欲の者であり、最終的には、その権力を使って仏に敵対する、法華経の勧持品に説かれている三類の強敵の第三、僣聖増上慢であると断罪されています。
その良観が文永8年(西暦1271年)に 雨乞〔あまご〕いの祈禱で日蓮大聖人に敗れて以来、それを逆恨みした良観は、日蓮大聖人を竜の口の首の座に据え、それに失敗すると佐渡へ流罪するなどの策謀を巡らしたあげく、文永11年(西暦1274年)に日蓮大聖人が佐渡流罪を赦免され、大聖人に対する弾圧が成功しないと見ると、今度は、四条金吾、南条時光、そして、この池上宗仲などの弟子、檀那に対して、その信心を妨害する行動に出たのです。
この池上宗仲が勘当された事も、そうした良観の策謀の一つでした。
この勘当で日蓮大聖人は、兄の池上宗仲よりも、弟の宗長の信心を心配されていました。
もし、宗仲が勘当されたままであれば、当然、家督は、弟である宗長が相続する事に成り、池上家そのものが宗長自身のものになるからです。
ただでさえ、家督を奪う為に兄弟同士がいがみ合い、最後は、血で血を洗う戦〔いくさ〕になるような時代なのです。
世間の常識であれば、宗長は、当然、兄ではなく、父親について、家督を継ぐのが当たり前なのであり、家督を譲られてから、兄の事を考えても十分であると考え、なにも兄弟そろって、勘当される必要などないと思うのが当然なのです。
しかし、弟の宗長も兄と同じ心であると知り、兄弟抄に「御同心と申し候へばあまりのふしぎ〔不思議〕さに別の御文をまいらせ候。未来までのものがたり〔物語〕なに〔何〕事かこれにす〔過〕ぎ候べき。」(御書984頁)と弟の宗長に対して、あまりに不思議なことであり、未来まで語り継がれるべき物語であると、驚きと称賛を述べられています。
さらに兄弟の夫人たちに対しても、兄弟抄で「女人となる事は物に随って物を随へる身なり。(中略)此の法門のゆへ〔故〕には設〔たと〕ひ夫に害せらるゝとも悔ゆる事なかれ。一同して夫の心をいさ〔諫〕めば竜女〔りゅうにょ〕が跡をつぎ、末代悪世の女人の成仏の手本と成り給ふべし。此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生〔じゅんじしょう〕に仏にな〔成〕したてまつるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文なり。」(御書987頁)と述べられ、もし、夫が信心をやめようとした時には、夫人同士で結束して諫めていくよう指導されています。
普通であれば、夫が家督を相続すれば、その妻も財産を手に入れ、その家来たちの生活や将来も安泰になるのです。
世間では、その妻や家来が夫をそそのかして、兄弟の仲を裂こうとするのも当たり前の事なのです。
しかし、この日蓮大聖人の「日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生〔じゅんじしょう〕に仏にな〔成〕したてまつるべし。」の言葉を信じて、池上兄弟は、夫婦ともども心を合わせて信心に励んだのです。
しかし、なぜ、正しい信仰をしているのに、このように父に勘当されるような難を受けるのかとの疑問に対して、日蓮大聖人は、一往は、過去世における正法誹謗の罪に依ると述べられ、父の康光のような念仏の強信者のもとに生まれ、良寛などの迫害に会わねばならぬ原因は、兄弟抄に「或は邪見の家に生まれ、或は王難に値ふ等云云。この中に邪見の家と申すは誹謗正法の父母の家なり。王難等と申すは悪王に生まれあうなり。此の二つの大難は各々の身に当たりてをぼへつべし。過去の謗法の罪の滅せんとて邪見の父母にせ〔責〕められさせ給ふ。」(御書981頁)とあるように過去世の自分の謗法に原因があると御教示されていますが、池上兄弟に与えられた兵衛志殿御返事では、「必ず三障四魔と申す障〔さわ〕りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。」(御書1184頁)と述べられ、正しい信心を貫〔つらぬ〕いているからこそ、その反動である三障四魔という障害が現れるとされています。
さらに真の孝養とは、兄弟抄に「父母の心に随はずして家を出でて仏になるが、まことの恩をほう(報)ずるにてはあるなり。」(御書983頁)とあるように、親にしたがう事ではなく、親を成仏に導く事であるとされています。
また、兄弟抄に「若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」(御書979頁)、「されば法華経を信ずる人のをそ〔恐〕るべきものは、賊人・強盗・夜打・虎狼〔ころう〕・師子等よりも、当時の蒙古のせ〔攻〕めよりも法華経の行者をなや〔悩〕ます人々なり。」(御書980頁)とあり、さらに「又第六天の魔王或は妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入って法華経の行者ををど〔脅〕し、或は父母の身に入って孝養の子をせ〔責〕むる事あり。」(御書980頁)と述べられているように、法華経の行者である日蓮大聖人を始めとする池上兄弟などを悩ます人々こそ、成仏を阻む悪知識であり、いかにも友人のような振りをして近づく悪知識こそ、正しい信仰をさせる本心を失わせるのです。
日蓮大聖人は、この娑婆世界は、この第六天の魔王の所領であり、正しい仏道修行をしている者を見ると、自分の所領が減るのを恐れて、妻子の身に入り、父母の身に入って、信心を邪魔しようと計るのであると教えられています。
釈迦牟尼仏ですら、出家する時に第六天の魔王が、王である父親や妃の身に入って邪魔をしたのです。
それで、この池上宗仲、宗長の場合も、第六天の魔王が、父である康光の身に入って、兄弟を退転させようと謀ったのです。
しかし、結果的には、兄弟二人の信心が揺るがずに、その父親の心を改めさせることができれば、その父親は、善知識とも言えるのです。
実際に、この池上兄弟は、日蓮大聖人の指導のもと純真な信心によって、再度の勘当を乗り越え、弘安元年(西暦1278年)に父を入信に導くことができたのです。
弘安3年、鎌倉の鶴岡八幡宮が火災で消失し、鎌倉幕府は、即座に再建の準備を始めた際には、世間の人達は、これまでの実績から、この仕事は、当然、池上家が関わると考え、おそらく兄弟もそう思ったでしょうが、実際には、その大任から外〔はず〕されたのです。
これは、鎌倉幕府が池上家との関係を断絶したようなもので、池上家の衝撃は、大変なものだったでしょう。
これに対し、日蓮大聖人は、八幡宮造営事で「さては八幡宮の御造営〔ごぞうえい〕につきて、一定〔いちじょう〕ざむそう〔讒奏〕や有らんずらむと疑ひまいらせ候なり。をや〔親〕と云ひ、我が身と申し、二代が間きみにめしつかはれ奉りて、あくまで御恩のみ〔身〕なり。設ひ一事相違すとも、なむ〔何〕のあらみかあるべき。わがみ賢人ならば、設〔たと〕ひ上よりつかまつるべきよし仰せ下さるゝとも、一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし。幸ひに讒臣〔ざんしん〕等が、こと〔事〕を左右によせば悦んでこそあるべきに、望まるゝ事一の失〔とが〕なり。」(御書1556頁)と仰せになり、八幡宮の造営について讒言があるだろうと思っていたが、鎌倉幕府に二代に渡って御恩を受けた身で一度、このような事態が起きたとしても、それを恨むべきではなく、また、八幡宮の焼失は、法華経に背く日本国を、すでに諸天善神が見捨てた証拠であり、その建物を再建しても、まったくの無意味であり、二度目の蒙古襲来は目前で、日蓮門下の池上家により八幡宮を造営すれば、世間の者は、池上家の信仰のせいで他国の侵略を受けたと批難するに違いなく、返って造営の任から外された事は、仏の計〔はか〕らいとして有り難く思うのが当然で、そう思わないのは、間違いであると指摘されています。
このように、蒙古襲来以来、物情騒然たる世相であり、熱原の法難など日蓮大聖人の門下に対する激しい迫害のあった中で、池上兄弟は、最後まで日蓮大聖人への信仰を貫〔つらぬ)いたのです。
弘安5年(西暦1282年)9月18日、日蓮大聖人が療養の為に常陸国(茨城県)へ旅する途中、武蔵国の、この池上宗仲の館に滞在し、10月13日、辰の刻(午前8時頃)、聖寿61歳をもって、この場所において御入滅されたのです。


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