日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


種々御振舞御書

種々御振舞御書 (御書1055頁)

この御書は、建治二年(西暦1276年)、55歳の時に身延において御述作されたものです。
その内容が佐渡流罪の前後の顛末〔てんまつ〕を詳しく述べられていることから別名を「佐渡抄」とも言い、日蓮大聖人と同郷の安房国〔あわのくに〕の現在の千葉県天津〔あまつ〕の光日房に宛てたものとされていますが、実際のところは不明です。
この光日房は、息子の弥四郎が大聖人に帰依したのを、きっかけに入信した人で、弘安三年の「光日尼御返事」、次の年の弘安四年の「光日上人御返事」と同一人物ではないかと思われています。
本抄は、その題名が示す通り、日蓮大聖人の御生涯の中で、最も重要な時期であった文永5年(西暦1268年)から建治2年(西暦1276年)までの九年間の御振舞いを記されたものです。
その間の竜の口の法難についても、詳しく、その詳細が述べられており、後世の我々がそれを知る事が出来るのは、偏〔ひとえ〕にこの書の存在ゆえと言えるでしょう。しかし、その御真筆は、明治八年(西暦1875年)1月10日の身延山久遠寺の大火によって焼失したとされています。
その為、その内容があまりに劇的な為に偽書ではないかとの疑いの目を持つ者がいますが、ここに顕されている難の数々は、真実であり、また竜の口の法難においても日蓮大聖人の命が助かっているのは厳然とした事実であるので、本抄を拝読して、大聖人の御一生の偉大さに驚嘆する者も多く、事実、明治の文豪、高山樗牛なども「世界最高の文章なり」などと感嘆しているのですが、しかし、これらは、未だ日蓮大聖人の真の姿を理解していない人の言葉なのです。
それは、まさしく、本抄にある数々の御振舞いは、末法の主師親三徳兼備の御本仏の証拠で有り、日蓮大聖人こそ、末法万年尽未来際の一切衆生を救済される御本仏であることは、本抄を拝せば心あるものならば、あまりにも明らかなのです。
さらに「経王殿御返事」に「日蓮がたましひ〔魂〕をすみ〔墨〕にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意〔みこころ〕は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」(御書685頁)。報恩抄に「日蓮が慈悲曠大〔こうだい〕ならば南無妙法蓮華経は万年の外〔ほか〕未来までもながる〔流布〕べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。」(御書1036頁)。聖人御難事に「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計〔ばか〕りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。」(御書1396頁)と述べられていることからも、それが明らかなのです。
このように日蓮大聖人の御一生は、末法万年の一切衆生を救済する為に法体の広宣流布である弘安2年(西暦1279年)10月12日御図顕の一閻浮提総与の大御本尊を顕すためであったのです。それゆえに多くの大難を受けられ、数々の不思議な現象を顕されたのです。これこそ「されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。」(御書540頁)と仰せの日蓮大聖人の大慈大悲であり、出世の本懐なのです。
それ故に、大御本尊建立に立ち返り、日蓮大聖人御一代の弘教を拝するならば、一切の御説法、御振舞いの真意は明白となるのです。

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