日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


種々御振舞御書 16 臨終の相


第15章 臨終の相

【皆人をぼ〔思〕するやうは、いかでか弘法・慈覚等を】
あらゆる人が思い込んでいるのは、弘法や慈覚を謗〔そし〕る人を、

【そしる人を用ゆべきと。】
どうして、もちいられようかと言う事なのです。

【他人はさてをきぬ。安房国〔あわのくに〕の東西の人々は】
しかし、他人は別として、安房の国の東条と西条の人々は、

【此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり、】
この事を信ずべきであるのです。なぜなら、眼の前に現証があるからなのです。

【いのもりの円頓〔えんどん〕房、】
いのもりの円頓房、

【清澄〔きよすみ〕の西尭〔さいぎょう〕房・道義〔どうぎ〕房、】
清澄の西堯房、道義房、

【かたうみの実智〔じっち〕房等はたう〔尊〕とかりし僧ぞかし。】
片海の実智房などは、貴いと言われてきた僧であったのですが、

【此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。】
これらの人々の臨終の姿は、どうであったろうかと尋ねてみるべきなのです。

【これらはさてをきぬ。円智〔えんち〕房は清澄の大堂にして】
これらは、さておきますが、円智房は、清澄の大堂において

【三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて】
三か年の間、一字三礼の法華経を自身で書写し、

【十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよま〔読〕れしぞかし。】
十巻を暗誦し、五十年の間、昼夜に二部づつ読まれたのです。

【かれをば皆人は仏になるべしと云云。】
ですから、彼を人は、皆、必ず仏になるだろうと言っていたのです。

【日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは】
これに対して日蓮だけが「念仏者よりも道義房と円智房こそ

【無間地獄の底にを〔堕〕つべしと申したりしが、】
無間地獄の底に堕ちるであろう」と言って来ましたが、

【此の人々の御臨終はよく候ひけるかいか〔如何〕に。】
この人々の臨終の姿は、どうであったのでしょうか。

【日蓮なくば此の人々をば】
もし、日蓮がいなかったならば、

【仏になりぬらんとこそをぼすべけれ。】
この人々を世間では、仏になったであろうと思ったに違いないのです。

【これをもってしろしめせ。】
これをもって知りなさい。

【弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、】
弘法、慈覚は、臨終の姿があまり悲惨で、あきれるほどであったけれども、

【弟子ども隠せしかば、公家もしらせ給はず。】
それを弟子どもが隠したために、朝廷においても、その事実を知ることが出来ず、

【末の代はいよいよあを〔仰〕ぐなり。】
時代が下るにつれて、末の世では、ますます尊敬しているのです。

【あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし。】
もし、それを顕わす人がいなければ未来永劫までも、そのまま通ってしまうのです。

【拘留〔くる〕外道は】
昔、天竺の拘留外道は、石となって

【八百年ありて水となり、】
八百年過ぎてから、陳那〔ちんな〕菩薩に責められて、融けて水となり、

【迦毘羅〔かびら〕外道は一千年すぎてこそ】
迦毘羅外道は、石と化して一千年後に、同じく陳那菩薩に責められたために

【其の失〔とが〕はあらわれしか。】
その間違いが顕われたではないですか。今もまた同じなのです。

【夫〔それ〕人身をうくる事は五戒の力による。】
人身を受けると言うことは、五戒の力によるのです。

【五戒を持てる者をば】
また人と生まれてからも五戒を持っている者に対しては、

【二十五の善神これをまぼ〔守〕る上、】
二十五の善神がこれを守る上に、

【同生同名〔どうしょうどうみょう〕と申して二つの天、生まれしよりこのかた、】
同生同名といって左神、右神の二つの天神が生まれたときから、

【左右のかた〔肩〕に守護するゆへに、】
その人の左右の肩の上にいて守護しているために、

【失なくて鬼神あだむことなし。】
その人に失〔とが〕がなければ、鬼神が仇〔あだ〕をすることはないのです。

【しかるに此の国の無量の諸人なげきをなすのみならず、】
しかるに、この日本の無数の諸人が三災七難に遇〔あ〕って悲嘆しているばかりか、

【ゆき〔壱岐〕・つしま〔対馬〕の両国の人皆事にあひぬ。】
壱岐、対馬の両国の人は、皆大事件に遇〔あ〕ってしまったのです。

【大宰府又申すばかりなし。】
筑紫の太宰府も、また言うまでもなく、さんざんな状態なのです。

【此の国はいかなるとが〔失〕のあるやらん。】
このように大難に遇〔あ〕うのは、この国にどのような罪があるのでしょうか。

【し〔知〕らまほし〔欲〕き事なり。】
これこそ、何としても知りたいことではないでしょうか。

【一人二人こそ失もあるらめ、】
一人や二人であるならば失〔とが〕もあるでしょうが、

【そこばく〔若干〕の人々いかん。】
大勢の人々に失〔とが〕があるということは、一体どういうことなのでしょうか。

【これひとへに法華経をさぐ〔下〕る】
これは、ひとえに法華経を見下して誹謗〔ひぼう〕する

【弘法・慈覚・智証等の末の真言師、善導・法然が末の弟子等、】
弘法、慈覚、智証などの末端の真言師や、善導、法然の末端の弟子など、

【達磨等の人々の末の者ども国中に充満せり。】
また、達磨などの人々の末端の者どもが国中に充満して、

【故に梵・釈・四天等、法華経の座の誓状のごとく、】
邪法を弘めているゆえに、梵釈、四天王などが法華経の会座の誓状の通りに、

【頭破作七分〔ずはさしちぶん〕の失にあてらるゝなり。】
頭破作七分の罰を加えているのではないでしょうか。


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