日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


三世諸仏総勘文教相廃立 6 爾前経の不成仏


第5章 爾前経の不成仏

【故に三蔵教を修行すること三僧□百大劫〔さんそうぎひゃくだいこう〕を】
それ故に三蔵教を修行して三僧□〔そうぎ〕百大劫という長大な時間を経て、

【歴〔へ〕て終はりに仏に成らんと思へば、】
最終的に仏に成るであろうと思えば、

【我が身より火を出だして灰身〔けしん〕入滅〔にゅうめつ〕とて】
自分の身体から火が出て

【灰と成りて失せぬるなり。】
灰となって死んでしまい消え失せてしまうのです。

【通教を修行すること七阿僧□〔あそうぎ〕】
また通教を修行して七阿僧□〔あそうぎ〕

【百大劫を満〔み〕てゝ仏に成らんと思へば、】
百大劫という長大な時間を経て、最終的に仏に成るであろうと思えば、

【前の如く同様に灰身入滅して跡形〔あとかた〕も無く失せぬるなり。】
同様にその身が灰となって跡形も無くなってしまうのです。

【別教を修行すること】
また別教を修行して

【二十二大阿僧□百千万劫〔だいあそうぎひゃくせんまんこう〕を】
二十二大阿僧□〔あそうぎ〕百千万劫と云う

【尽くして終はりに仏に成りぬと思へば、】
長大な時間を経て、最終的に仏に成ると思えば、

【生死の夢の中の権教の成仏なれば、本覚の寤〔うつつ〕の法華経の時には、】
生死の夢の中の権教の成仏であれば、本覚の現実の法華経の時には、

【別教には実仏無し、夢中の果なり。】
別教では、真実の仏になる事は出来ないのです。すべて夢の中だけのことなのです。

【故に別教の教道には実の仏無しと云ふなり。】
それ故に別教の教えでは、実際に仏に成る事は出来ないと言うことなのです。

【別教の証道〔しょうどう〕には、初地〔しょじ〕に始めて】
別教の真理を証得するには、菩薩の第四十一位までの修行によって始めて、

【一分の無明を断じて一分の中道の理を顕はし、始めて之を見れば】
無明の一部を断じて中道の一部の論理を理解し、そこまで来て、初めて

【別教は隔歴不融〔きゃくりゃくふゆう〕の教と知りて、】
別教は、三諦、三身が別々に説かれている教えと気づいて、

【円教に移り入りて円人〔えんにん〕と成り已〔お〕はって、】
完全無欠の法華経によって正しい法華経の行者となって

【別教には留まらざるなり。上中下の三根の不同有るが故に、】
別教を捨ててしまうのです。菩薩にも上根、中根、下根の三根の差がある故に、

【初地・二地・三地乃至等覚までも円人と成る。】
初地、二地、三地から等覚までは、法華経の行者となるのです。

【故に別教の面〔おもて〕に仏無きなり。】
故に別教の経文上には仏は無いのです。

【故に有教無人〔うきょうむにん〕と云ふなり。】
それで教えは、あっても、成仏する人は、いないと言うのです。

【故に守護国界章〔しゅごこっかいしょう〕に云はく】
このことを伝教大師は、守護国界章で

【「有為〔うい〕の報仏は夢中の権果(前三教の修行の仏)、】
「有為無常の報身仏は、夢の中の権果(前三教の修行の仏)であり、

【無作の三身は覚前〔かくぜん〕の】
無作の三身如来は、真実を覚っている

【実仏(後の円教の観心の仏)なり」と。】
実仏である(後の円教の観心の仏)」と言っているのです。

【又云はく「権教の三身は未だ無常を免〔まぬか〕れず(前三教の修行の仏)、】
また「権教の三身は、未だ無常をまぬがれず(爾前教の修行の仏)、

【実教の三身は】
実教の三身は、

【倶体倶用〔くたいくゆう〕なり(後の円教の観心の仏)」と。】
体も用も備わる仏である(後の円教の観心の仏)」と言っているのです。

【此の釈を能く能く意得〔こころう〕べきなり。】
この伝教大師の解釈を、よくよく理解するべきなのです。

【権教は難行苦行して適〔たまたま〕仏に成ると思へば、】
権教は、難行苦行して、たまたま仏に成ると思えば、

【夢中の権の仏なれば、本覚の寤の時には実の仏無きなり。】
夢の中の権〔かり〕の仏であれば、本覚の現実では、真実の仏ではないのです。

【極果〔ごくか〕の仏無ければ有教無人なり。】
最終的な結果の仏で無ければ、教えはあっても成仏する人は、いないのです。

【況〔いわ〕んや教法実ならんや。】
それが真実の教えや法門と言えるでしょうか。

【之を取りて修行せんは聖教に迷へるなり。】
これを修行して、すべての人々は、釈迦牟尼仏の一代聖教に迷ってしまうのです。


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