日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


三世諸仏総勘文教相廃立 10 爾前と法華を譬える


第9章 爾前と法華を譬える

【一切経の語は夢中の語とは、譬〔たと〕へば扇〔おうぎ〕と樹との如し。】
一切経の言葉は、たとえれば扇と樹であり、夢の中の言葉のようなものなのです。

【法華経の寤〔うつつ〕の心を顕はす言〔ことば〕とは譬へば月と風との如し。】
法華経の言葉は、たとえれば月と風であり、現実の心を現わすようなものなのです。

【故に本覚の寤の心の月輪の光は無明〔むみょう〕の闇を照し、】
それ故に本覚の現実の心の月の光は、無明の闇を照し、

【実相般若〔じっそうはんにゃ〕の智慧の風は】
実相般若の智慧の風は、

【妄想〔もうぞう〕の塵〔ちり〕を払ふ。】
妄想の塵を払うのです。

【故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ。】
それによって夢の言葉の扇と樹をもって現実の心の月と風とを知らしめ、

【是の故に夢の余波〔なごり〕を散じて寤の本心に帰せしむるなり。】
それによって夢の続きを見る事を止めさせて現実の本心に戻らせるのです。

【故に止観〔しかん〕に云はく】
そうであるから魔訶止観には

【「月、重山〔じゅうざん〕に隠〔かく〕るれば扇を挙げて之に類し、】
「月が山に重なって隠れてしまえば、扇を挙げて月が出ている場所を教え、

【風、大虚〔たいこ〕に息〔や〕みぬれば樹を動かして】
大空の風が止まってしまえば、樹を動かして風が吹く

【之を訓〔おし〕ふるが如し」文。】
様子を教えるようなものである」と書かれているのです。

【弘決〔ぐけつ〕に云はく】
止観輔行伝〔ぶぎょうでん〕弘決には

【「真常性〔しんじょうしょう〕の月煩悩〔ぼんのう〕の山に隠る。】
「真実である常住の月は、煩悩の山に重なって見えない。

【煩悩は一に非ず故に名づけて重と為す。】
煩悩は、一つではないので重なると言うのである。

【円音〔えんのん〕の教風は化を息めて寂に帰す。】
そして、円音教である法華経の教化である風を止めて、寂滅に帰すのである。

【寂理無碍〔じゃくりむげ〕なること】
寂滅の論理を妨げる事がない無碍の姿そのものが、

【猶〔なお〕大虚の如し。】
大空が無風であるようなものなのです。

【四依〔しえ〕の弘教は扇と樹との如し。】
四依の菩薩の弘教は、扇と樹のようなもので、

【乃至月と風とを知らしむるなり」(已上)。】
月と風とを教えるようなものなのです。」と書かれています。

【夢中の煩悩の雲重畳〔ちょうじょう〕せること山の如し。】
夢の中の煩悩の雲が重さなって、真実である月が見えない山のようなものなのです。

【其の数八万四千の塵労〔じんろう〕にして、心性本覚の月輪を隠す。】
八万四千の塵〔ちり〕によって、心の働きである本覚の月を隠しているのです。

【扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て、】
扇と樹とのような経論の文字や言語の教えでもって、

【月と風との如くなる本覚の理を覚知〔かくち〕せしむる聖教なり。】
月と風のような本覚の論理を理解させようとしている聖教なのである。

【故に文と語とは扇と樹との如し文。】
そうであるから文章と言葉は、扇と樹のようなものである。」と書かれています。

【上の釈は一往の釈とて実義に非ざるなり。】
しかし、この解釈は、一往の解釈であって本当の説明ではないのです。

【月の如くなる妙法の心性の月輪と、】
月のような妙法の心の動きである悟りと、

【風の如くなる我が心の般若〔はんにゃ〕の慧解〔えげ〕とを】
風のような自身の心の般若の慧解とを、

【訓へ知らしむるを妙法蓮華経と名づく。故に釈籖〔しゃくせん〕に云はく】
教え知らしめるものを妙法蓮華経と名づけたのです。それ故に法華玄義釈籖には

【「声色〔しょうしき〕の近名〔ごんみょう〕を尋ねて】
「仏の声や姿を説いた法を聞いて

【無相の極理〔ごくり〕に至る」(已上)。】
無相の極理を知る」と書かれているのです。

【声色の近名とは扇と樹との如くなる】
仏の現実の声や姿を説いた法を聞いてとは、扇と樹のように

【夢中の一切の経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる】
夢の中のすべての経論の言葉や説法なのです。無相の極理とは、月と風のように

【寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。】
現実の自身の心の動きであり、寂光の極楽のことなのです。


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