日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


三世諸仏総勘文教相廃立 19 自行化他の力用


第18章 自行化他の力用

【自行と化他とは得失の力用〔りきゆう〕なり。】
自行と化他の違いは、結局は、得失の違いなのです。

【玄義〔げんぎ〕の一に云はく「薩婆悉達〔さるばしった〕、】
法華玄義の第一巻には「釈迦牟尼仏が、

【祖王の弓を彎〔ひ〕いて満〔みつ〕るを名づけて力〔りき〕と為〔な〕し、】
その祖父の王の強弓を満月の形に引きしぼった姿を名づけて力とし、

【七つの鉄鼓〔てっく〕を中〔やぶ〕り、】
放った矢が七つの鉄製の鼓を突き破り、

【一つの鉄囲山〔てっちせん〕を貫〔つらぬ〕き地を洞〔とお〕し、】
一つの鉄の山をつらぬき、大地を突き抜け、

【水輪に徹〔とお〕る如きを名づけて用〔ゆう〕と為す(自行の力用なり)。】
太洋を通るを名づけて用とするのです。(自行の力用である)

【諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭〔きゅうせん〕の如し。】
方便の教えの力用が非常に弱いのは、凡夫が弓矢を引いているようなものなのです。

【何となれば昔の縁は】
なぜならば、昔の縁は、

【化他の二智を稟〔う〕けて理を照すこと遍〔あまね〕からず、】
化他の権実の二智を受けたが、理を照す事は出来ず、

【信を生ずること深からず、疑を除くこと尽くさず(已上化他)。】
信心を深める事も出来ず、疑いを晴らすことも出来なかったのです。

【今の縁は自行の二智を稟けて仏の境界を極め、】
今の縁は、自行の権実の二智を受けて、仏の境界を極め、

【法界の信を起こして円妙〔えんみょう〕の道を増し、】
法界の信心を起こして、円妙の道を増し、

【根本の惑〔わく〕を断じて変易〔へんにゃく〕の生を損〔そん〕ず。】
根本の惑いを断じて変易の生死を捨て去ることが出来るのです。

【但生身〔しょうじん〕及び生身〔しょうじん〕得忍〔とくにん〕の】
ただ生身の菩薩、そして生身得忍の

【両種の菩薩のみ倶〔とも〕に益するのみに非ず、】
菩薩の二つの種類の菩薩だけに利益するだけではなく、

【法身と法身の後心との】
法身の菩薩、そして法身の最上位の等覚位の菩薩との

【両種の菩薩も亦以て倶に益す。】
両種の菩薩を利益することが出来るのです。

【化〔け〕の功〔こう〕広大に利潤弘深〔りにんぐじん〕なる、】
教化の功徳が広大であり、その利潤が広大で甚深であるのです。

【蓋〔けだ〕し茲〔こ〕の経の】
それがこの法華経の

【力用なり(已上自行)」と。】
力用であるのです。(以上が自行の力用)」と述べられています。

【自行と化他との力用〔りきゆう〕、勝劣】
自行と化他との力用の優劣は、

【分明〔ふんみょう〕なること勿論なり。能く能く之を見よ。】
このように明らかなのです。よくよく、この法華玄義の文章を読むべきなのです。

【一代聖教を鏡に懸〔か〕けたる教相〔きょうそう〕なり。】
これこそが釈迦牟尼仏の一代聖教を鏡に映しだした教相なのです。

【極仏境界〔ごくぶつきょうがい〕とは十如是の法門なり。】
この極仏境界とは、十如是の法門のことなのです。

【十界互ひに具足〔ぐそく〕して十界十如の因果、】
十界が互いにそなわって十界十如の因果、

【権実の二智二境は我が身の中に有りて一人も漏るゝこと無しと】
権実の二智二境は、我が身の中に有って一人も漏れることが無しと

【通達〔つうだつ〕し解了〔げりょう〕して、】
通達し理解して、

【仏語を悟〔さと〕り極〔きわ〕むるなり。】
仏の言葉を悟り極める事が出来るのです。

【起法界信〔きほうかいしん〕とは十法界を体と為〔な〕し、】
法界の信を起すという意味は、十法界を身体とし、

【十法界を心と為し、十法界を形と為したまへる】
十法界を心と為し、十法界を形とする

【本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず。】
本覚の如来が我が身の中に有ると信じることを言うのです。

【増円妙道〔ぞうえんみょうどう〕とは自行と化他との二は】
円妙の道を増しという意味は、自行と化他との二つは

【相即円融〔そうそくえんゆう〕の法なれば、】
相即円融の法であれば、

【珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し。】
珠と光と宝との三つの違いは、ただ一つの珠の相違なのです。

【片時も相離れず、仏法に不足無し、】
これらは、片時も相離れず、仏法にそなわっており、

【一生の中に仏に成るべしと】
これを信じれば、一生の中に仏に成る事が出来るという

【慶喜〔きょうき〕の念を増すなり。】
喜びが増すという意味なのです。

【断根本惑〔だんこんぽんわく〕とは一念無明〔むみょう〕の眠りを】
根本の惑を断じという意味は、一念の無明の眠りから

【覚まして本覚の寤〔うつつ〕に還〔かえ〕れば、】
覚めて本覚の現実に帰れば

【生死〔しょうじ〕も涅槃〔ねはん〕も倶〔とも〕に】
生と死も涅槃も、ともに

【昨日の夢の如く跡形〔あとかた〕も無きなり。】
昨日の夢のように跡形も無くなるという意味なのです。

【損変易生〔そんへんにゃくしょう〕とは】
変易の生を損ずという意味の、その変易の生とは、

【同居土〔どうごど〕の極楽と方便土の極楽と】
仏法を志す六道が住む凡聖同居土の極楽と二乗が住む方便有余土の極楽と

【実報土〔じっぽうど〕の極楽との三土に往生〔おうじょう〕する人、】
菩薩が住む実報無障礙土の極楽の三つの国土に生まれたそれぞれの衆生が

【彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間、】
それぞれの国土で菩薩の道を修行して仏に成ろうと思っている間のことであり、

【因は移り果は易〔か〕はりて次第に進み昇り、】
因は、移り、果は、変わって、次第に修行の位が進み、

【劫数を経〔へ〕て成仏の遠きを待つを変易〔へんにゃく〕の生死と云ふなり。】
劫数を経ながら、遠く成仏が出来る時を待っているのを変易の生死と言うのです。

【下位を捨つるを死と云ひ、】
その変易の生死の中の生死とは、下位を捨てる事を死と言い、

【上位に進むを生と云ふ。】
上位に進む事を生と言うのです。

【是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり。】
このように変易する生死は、極楽である浄土における苦悩であるのです。

【爰〔ここ〕に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、】
ここに凡夫の私たちが、この穢土において法華経を修行すれば、

【十界互具、法界一如〔いちにょ〕なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ、】
十界互具、法界一如であるから、浄土の菩薩の変易の生の意味はなくなり、

【仏道の行は増して、変易の生死を】
仏道の修行は、一挙に進んで変易の生死を一生の中の事に縮めてしまい、

【一生の中に促〔つづ〕めて仏道を成ず。】
一生の中で仏道を成じてしまうのです。

【故に生身〔しょうじん〕】
それ故に未だ煩悩を断じていない生身の菩薩も

【及び生身得忍〔しょうじんとくにん〕の両種の菩薩、】
煩悩を断じ尽くした生身得忍の菩薩も、

【増道損生〔ぞうどうそんしょう〕するなり。】
ともに仏道修行の利益を増し変易の生死を損ずるのです。

【法身の菩薩とは生身を捨てゝ実報土に居するなり。】
法身の菩薩とは、煩悩を断じ尽くして実報無障礙土に住んでいるのです。

【後心〔ごしん〕の菩薩とは等覚〔とうがく〕の菩薩なり。】
後心の菩薩とは、仏の覚りと等しい位の菩薩のことです。

【但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。】
ただし、法華経迹門では、生身及び生身得忍の菩薩を利益するのです。

【本門には法身と後身との菩薩を利益す。】
法華経本門では、法身の菩薩と後身の菩薩に利益するのです。

【但し今は迹門を開して本門に摂〔おさ〕めて】
しかし、末法である現在は、迹門を開いて本門の中に納めて

【一の妙法と成す。】
一つの妙法とするのです。

【故に凡夫の我等穢土〔えど〕の修行の行の力を以て浄土の十地・等覚の菩薩を】
それ故に凡夫である私たちが穢土での修行の力用で、浄土の十地、等覚の菩薩を

【利益する行なるが故に、化の功広大なり(化他徳用)。】
利益するので、化他の功徳は広大なのです。(化他徳用)

【利潤弘深〔りにんぐじん〕とは(自行徳用)、円頓〔えんどん〕の行者は】
利潤弘深という意味は、自行の徳用の事なのです。円頓の行者は、

【自行と化他と一法をも漏〔も〕らさず一念に具足して、】
自行と化他との一法をも漏〔も〕らさず一念に具足して、

【横に十方法界に遍〔へん〕するが故に弘なり。】
横には、十方法界に遍満〔へんまん〕する故に弘というのです。

【竪〔たて〕には三世に亘〔わた〕って】
縦には、三世に渡って法性の

【法性の淵底〔えんでい〕を極むるが故に深なり。】
淵底を極める故に深と言うのです。

【此の経の自行の力用此くの如し。】
この経の自行の力用は、このようなものなのです。

【化他の諸経は自行を具せざれば】
化他の諸経は、自行が備えなければ、

【鳥の片翼〔へんよく〕を以て空を飛ばざるが如し。】
鳥が片翼では、空を飛べないのと同じなのです。

【故に成仏の人も無し。】
そうであるから、成仏する人もいないのです。

【今の法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、】
現在の法華経は、自行化他の二行を開会して両方を備えているので、

【鳥の二翼〔によく〕を以て飛ぶに障〔さわ〕り無きが如く】
鳥が左右の二翼で空を飛べるように

【成仏滯〔とどこお〕り無し。】
成仏もまったく問題がないのです。

【薬王品には十喩〔ゆ〕を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。】
法華経の薬王品には、十の譬喩によって自行と化他の力用の優劣を説いています。

【第一の譬〔たと〕へに云はく「諸経は諸水の如し、】
その第一番目の譬喩では「諸経は、川のようなもので、

【法華は大海の如し」云云取意。実に自行の法華経の大海には】
法華経は、大海のようなものなのです。」と説かれています。自行の法華経の大海に

【化他の諸経の衆水〔しゅすい〕を入ること昼夜に絶えず。】
化他の諸経の川の水が昼夜に渡って流れるこむのです。

【入ると雖も増せず減ぜず。不可思議の徳用を顕はす。】
それでも、増えもせず減りもしないのです。このように不思議な事が起こるのです。

【諸経の衆水は片時〔かたとき〕の程も】
しかし、逆に諸経の川の水が、ひと時であっても

【法華経の大海を納〔い〕ること無し。】
法華経の大海を納めてしまう事はないのです。

【自行と化他との勝劣是くの如し。】
自行と化他の優劣は、このようなものであるのです。

【一を以て諸を例せよ。上来の譬喩〔ひゆ〕は皆仏の所説なり。】
この一例をもって信じなさい。この譬喩は、すべて仏の説いた教えなのです。

【人の語を入れず。此の旨を意得〔こころう〕れば】
世間の人々の言葉を入れずに、この主旨を心得れば

【一代聖教は鏡に懸〔か〕けて陰〔くも〕り無し。】
一代聖教の優劣は、まったく曇りがない鏡のように明らかなのです。

【此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや。】
この経文や解釈を読んで誰がこの優劣に迷い惑うことがあるでしょうか。

【三世の諸仏の総勘文〔そうかんもん〕なり、】
三世の諸仏の総勘文であり、

【敢〔あ〕へて人の会釈〔えしゃく〕を引き入るべからず。】
あえて世間の人々の解釈を加えるべきではないのです。

【三世諸仏の出世の本懐〔ほんがい〕なり。】
三世諸仏の出世の本懐であり、

【一切衆生成仏の直道〔じきどう〕なり。】
一切衆生の成仏の直道なのです。


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