日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


三世諸仏総勘文教相廃立 21 三世諸仏の勘文


第20章 三世諸仏の勘文

【大綱〔だいこう〕の三教を】
釈迦牟尼仏の一代聖教を理解するには、大綱である三つの教えを、

【能く能く学すべし。】
よくよく学ばなければならないのです。

【頓〔とん〕と漸〔ぜん〕と円〔えん〕とは三教なり。】
この大綱である三つの教えとは、頓教と漸教と円教の三教です。

【是一代聖教の総の三諦なり。】
この三教を一代聖教の総の三諦と言うのです。

【頓・漸の二は四十二年の説なり。】
頓教と漸教の二つは、法華経以前の四十二年の説法であり、

【円教の一は八箇年の説なり。】
円教は、法華経の八年間の説法なのです。

【合して五十年なり。】
合わせて釈迦牟尼仏の五十年の説法なのです。

【此の外に法無し。何に由ってか之に迷はん。】
この外に法は無く、どうして、これに迷うことがあろうか。

【衆生に有る時には此を三諦〔たい〕と云ひ、】
衆生で有る時は、これを三諦と言い、

【仏果を成ずる時には此を三身〔じん〕と云ふ。一物の異名なり。】
仏果を成ずる時には、これを三身と言うのです。

【之を説き顕はすを一代聖教と云ふ。】
これを説き顕わしたものを一代聖教と言い、

【之を開会〔かいえ〕して只一の総の三諦と成す時に成仏す。】
これをまとめて、ただ一つの総の三諦と成す時に成仏するのです。

【此を開会と云ひ此を自行と云ふ。又他宗所立の宗々は此の】
これを、まとめて自行と言うのです。また、他宗派の立てている教義は、

【総の三諦を分別して八と為す。】
この総の三諦をばらばらにして、その為に八宗派になってしまっているので、

【各々に宗を立つるに依って、円満の理を欠〔か〕いて成仏の理無し。】
その宗派の立てている教義は完全な論理ではなく、成仏する理由がないのです。

【是の故に余宗には実の仏無きなり。】
これでは、他宗派では実際に成仏など有り得ないのです。

【故に之を嫌〔きら〕ふ意〔こころ〕は】
それゆえに、これらの宗派を忌み嫌うのですが、その主旨は、

【不足なりと嫌ふなり。】
道理として完全ではないという意味なのです。

【円教を取って一切の諸法を観ずれば、】
円教である法華経によって、すべての法を観察すると、

【円融〔えんゆう〕円満〔えんまん〕して十五夜の月の如く、】
まんまるで十五夜の満月のように完全な円形であれば、

【不足無く満足し究竟〔くきょう〕すれば】
それに究竟すれば、

【善悪をも嫌はず、折節〔おりふし〕をも撰〔えら〕ばず、】
善であっても悪であっても、時代を選ぶこともなく、

【静処〔じょうしょ〕をも求めず、人品〔じんぴん〕をも択〔えら〕ばず。】
良い場所を求めることもなく、人柄の良し悪しを考える事もなく、

【一切の諸法は皆是仏法なりと知れば諸法を通達す。】
すべての法は、みんな仏法であると理解すれば、諸法を理解できるのです。

【即ち非道を行ずとも仏道を成ずるが故なり。】
要するに、たとえ非道であっても仏道を成じる事が出来るのです。

【天地水火風は是】
天空、地面、水火、風力は、そのものが真言密教で説くところの

【五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在〔じゅうざい〕して】
五智の如来の姿なのです。これが、すべての衆生の心の中に存在し、

【片時〔かたとき〕も離るゝこと無きが故に、】
片時も離れる事が無いので、

【世間と出世と和合して心中に有って、】
周りの環境である外界と自分の仏法への求道心が、

【心外〔しんげ〕には】
そのまま心の中に有って、その信心と外界には、

【全く別の法無きなり。故に之を聞く時、立ち所に速〔すみ〕やかに】
それ以外にまったく、法はないのです。そうであるので、これを聞く時に瞬時に

【仏果を成ずること滯〔とどこお〕り無き道理至極なり。】
仏果を成じることは間違いないのです。これこそ究極の道理であるのです。

【総〔そう〕の三諦〔さんたい〕とは】
総の三諦とは、

【譬〔たと〕へば珠〔たま〕と光と宝との如し。】
たとえるならば珠と光と宝のようなものなのです。

【此の三徳有るに由って如意宝珠〔にょいほうじゅ〕と云ふ。】
この三通りの利益があるので、これを如意宝珠と言うのです。

【故に総の三諦に譬ふ。】
だからこそ総の三諦にたとえる事が出来るのです。

【若し亦珠の三徳を別々に取り放さば何の用にも叶ふべからず。】
もし、珠の三つの利益が別々であるならば、何の意味があるのでしょうか。

【隔別〔きゃくべつ〕の方便教の宗々も亦是くの如し。】
隔別の方便の教えである各宗派も、このようなものなのです。

【珠を法身に譬へ、光を報身に譬へ、宝を応身に譬ふ。】
つまり、この珠を法身にたとえ、光を報身にたとえ、宝を応身にたとえるのです。

【此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌ふなり。】
この総の三徳を別々にして宗派を立てるので完全ではないと嫌っているのです。

【之を丸めて一と為すを総の三諦と云ふ。】
これらを、すべて一つにする事を総の三諦と言うのです。

【此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。】
この総の三諦こそ、三身即一の本覚の如来なのです。

【又寂光〔じゃっこう〕をば鏡に譬へ、】
また、寂光を鏡にたとえ、

【同居〔どうこ〕と方便と実報〔じっぽう〕の三土をば】
同居と方便と実報の三土を

【鏡に遷〔うつ〕る像〔かたち〕に譬ふ。】
鏡にうつる映像にたとえているのです。

【四土も一土なり。三身も一仏なり。】
法華経では、この四つ国土も一つの国土であり、三身も一仏なのです。

【今は此の三身と四土と和合して】
末法の現在においては、この三身と四土を合わせて、

【仏の一体の徳なるを寂光の仏と云ふ。】
仏の究極の覚りとし、それを寂光の仏と言うのです。

【寂光の仏を以て円教の仏と為〔な〕し、】
そして法華経においては、寂光の仏を円教の仏とし、

【円教の仏を以て、寤〔うつつ〕の実仏と為す。】
円教の仏を現実の真実の仏とするのです。

【余の三土の仏は夢中の権仏〔ごんぶつ〕なり。】
その他の三つの国土の仏は、すべて夢の中の仮の仏であるのです。

【此は三世の諸仏の只同じ語に勘文〔かんもん〕し給へる総の教相なれば、】
この三世諸仏は、まったく同じ言葉で、勘文した総の教相であれば、

【人の語も入らず、会釈〔えしゃく〕も有らず。】
勝手に人の言葉を付け加える事も出来ず、その解釈も必要ないのです。

【若し之に違はゞ三世の諸仏に背〔そむ〕き奉る大罪人なり、】
もし、これを護らなければ、三世諸仏に背く大罪人であり、

【天魔〔てんま〕外道〔げどう〕なり。永く仏法に背くが故に。】
天魔外道の行いなのです。これらの人々は、永久に仏法に背く故に、

【之を秘蔵して他人には見せざれ。】
これを秘蔵して他人には見せてはならないのです。

【若し秘蔵せずして妄〔みだ〕りに之を披露〔ひろう〕せば、】
もし、秘蔵せずに、みだりに、これを披露すれば、

【仏法に証理〔しょうり〕無くして】
仏法に証拠となる論理がなくなってしまい、

【二世に冥加〔みょうが〕無からん。】
現在と未来において諸天の加護は、なくなるでしょう。

【謗〔ぼう〕ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に、】
万が一にも、これを見せて誹謗する人が出れば、三世の諸仏に背く故に、

【二人乍〔なが〕ら倶〔とも〕に悪道に堕〔お〕ちんと識〔し〕るが故に】
これを見せた人も誹謗した人も、ともに悪道に堕ちると知っているので、

【之を誡〔いまし〕むるなり。】
このように厳しく戒〔いまし〕めているのです。

【能く能く秘蔵して深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相叶ひ、】
よくよく秘蔵して深くこの論理を証得し、三世の諸仏の本意にかない、

【二聖・二天・十羅刹〔らせつ〕の擁護〔おうご〕を蒙〔こうむ〕り、】
薬王と勇施菩薩、毘沙門と持国天、十人の羅刹(鬼神)女の支援を受けて、

【滞り無く上々品の寂光の往生を遂〔と〕げ、】
たちどころに上々品の寂光の往生をとげ、

【須臾〔しゅゆ〕の間に九界生死の夢の中に還〔かえ〕り来〔き〕たって、】
瞬く間に九界生死の夢の中に帰って来て、

【身を十方法界の国土に遍し、】
身体を十方法界の国土に行き渡らせて、

【心を一切有情〔うじょう〕の身中に入れて、】
信心する思いを、すべての有情の身体の中に入れ、

【内よりは勧発〔かんぼつ〕し、外よりは引導〔いんどう〕し、内外相応し、】
仏法を教え、正法へ案内し、内外相応し、

【因縁和合して自在神通の慈悲の力を施〔ほどこ〕し、】
因縁和合して自由自在の神通の慈悲の力を施し、

【広く衆生を利益すること滞り有るべからず。】
広く衆生を利益して滞ることがないのです。


ページのトップへ戻る