日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


三世諸仏総勘文教相廃立 11 仏の内証の悟り


第10章 仏の内証の悟り

【此の極楽とは十方法界の正報〔しょうほう〕の有情と、】
この極楽とは、十方法界の正報の有情と、

【十方法界の依報〔えほう〕の国土と和合して一体三身即一なり。】
十方法界の依報の国土が和合した一体の三身即一の心を言うのです。

【四土〔しど〕不二にして法身の一仏なり。】
仏、菩薩、二乗が住む四土は、すべて同じであって法身の一仏なのです。

【十界を身と為〔な〕すは法身なり。十界を心と為すは報身なり。】
十界を身とすれば法身であり、十界を心とすれば報身であり、

【十界を形と為すは応身なり。十界の外に仏無し。】
十界を形とすれば応身となるのです。十界の外に仏などいないのです。

【仏の外に十界無く依正〔えしょう〕不二なり、】
仏の外に十界は無く、依と正は、不二なのです。

【身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云ふ。】
身と土は、不二なのです。一仏の身体である事をもって寂光土と言うのです。

【是の故に無相の極理と云ふなり。】
この故に無相の極理と言うのです。

【生滅無常の相を離るゝが故に無相と云ふなり。】
生滅無常の相を離れるが故に無相と言うのです。

【法性の淵底〔えんでい〕玄宗の極地なり。故に極理と云ふ。】
法性の淵底玄宗の極地なのです。故に極理と言うのです。

【此の無相の極理なる寂光の極楽は、】
この無相の極理である寂光の極楽は、

【一切有情の心性の中に有って清浄無漏〔しょうじょうむろ〕なり。】
一切有情の心の中にあって、清浄であって煩悩など、まったくないのです。

【之を名づけて妙法の心蓮台〔しんれんだい〕と云ふなり。】
これを妙法蓮華三昧秘密三摩耶経にある妙法の心蓮台と言うのです。

【是の故に心外無別法〔しんげむべつほう〕と云ふ。】
この故に心外無別法と言うのです。

【此を一切の法は皆是仏法なりと通達解了〔つうだつげりょう〕すと云ふなり。】
これを一切法は、すべて、これ仏法であると完全に理解できたというのです。

【生と死と二つの理は生死の夢の理なり。】
生と死と二つの論理は、生死の夢の論理であり、

【妄想なり□倒〔てんどう〕なり。】
妄想であり、現実と夢がひっくり返ったものなのです。

【本覚の寤を以て我が心性を糾〔ただ〕さば、】
本覚の現実をもって自身の心を追求すれば、

【生ずべき始めも無きが故に、死すべき終はりも無し。】
生ずべき始めもないので、死すべき終はりもないのです。

【既に生死を離れたる心法に非ずや。】
そうであれば、まさに生死を離れた心の動きを理解する法門ではないでしょうか。

【劫火〔ごうか〕にも焼けず、水災にも朽〔く〕ちず、】
猛火によっても焼けず、水害によっても朽ちず、

【剣刀にも切られず、弓箭〔きゅうせん〕にも射〔い〕られず。】
刀剣でも切れず、弓矢でも射られないのです。

【芥子〔けし〕の中に入るれども芥子も広からず、】
小さい芥子粒の中に入れても、その小さい芥子であっても広がらず、

【心法も縮まらず。】
心法も芥子に入れるには大きすぎると言うことはない。

【虚空〔こくう〕の中に満〔み〕つれども虚空も広からず、】
大空に満たしても、その大きい空でさえ広すぎるということはなく、

【心法も狭〔せま〕からず。】
心法が大空に入れるには大きすぎると言うことはない。

【善に背〔そむ〕くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。】
善に背くことを悪と言い、悪に背くことを善と言うのです。

【故に心の外に善無く悪無し。】
故に心の外に善はなく悪はないのです。

【此の善と悪とを離るゝを無記と云ふなり。】
この善と悪から離れる事を無記と言うのです。

【善悪無記、此の外には心無く、】
善悪無記〔ぜんなくむき〕、これ以外には心はなく、

【心の外には法無きなり。】
心の外には、法は、ないのです。

【故に善悪も浄穢〔じょうえ〕も】
それ故に、善も悪も、浄いという事も穢れという事も、

【凡夫聖人も天地も大小も東西も南北も】
凡夫も聖人も、天も地も、大も小も、東も西も、南も北も、

【四維〔しい〕も上下も言語道断〔ごんごどうだん〕し】
その間の方向も、上も下も、言語で言い現わされず、

【心行所滅〔しんぎょうしょめつ〕す。】
心がまったく動くことが出来ず、いくら頭で考えても理解できないのです。

【心に分別して思ひ、言ひ顕はす言語なれば、】
心によって物事を理解するしかないので、それを言い現わす言語がなければ、

【心の外に分別も無し。】
その心以外で理解しようとしても、それは、どうしようもないのです。

【分別も無ければ言〔ことば〕と云ふは】
言葉でしか言い現わすことが出来ないのであれば、言葉は、

【心の思ひを響かして声に顕はすを云ふなり。】
心の思いを響かせて声に現わすことを言うのです。

【凡夫は我が心に迷ふて知らず覚らざるなり。】
凡夫は、自身の心に迷って、それを知らず、覚らないのです。

【仏は之を悟り顕はして神通と名づくるなり。】
仏は、これを悟って、現わし、神通力と名前を付けたのです。

【神通とは神〔たましい〕の一切の法に通じて】
神通力とは、魂〔たましい〕が、すべて法に通じていて、

【碍〔さわ〕り無きなり。】
そう考えても、まったく問題がないことを言うのです。

【此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。】
この自由自在の神通力は、すべての生きている者の心に有るのです。

【故に狐狸〔こり〕も分々に通を現ずること、】
それ故にキツネやタヌキにも、少しは、それを現じることができるのは、

【皆心の神の分々の悟りなり。】
すべては、心の中の魂〔たましい〕を少しは悟っているからなのです。

【此の心の一法より国土世間も出来する事なり。】
この心の一つの法門より、国土世間も現れるのです。

【一代聖教とは此の事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云ふなり。】
一代聖教とは、この事を説いているのです。これを八万四千の法蔵と言うのです。

【是皆悉〔ことごと〕く一人の身中の法門にて有るなり。】
これらは、みんな、ことごとく一人の身体の中の法門であるのです。

【然れば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記文書なり。】
そうであれば八万四千の法蔵は、我が身一人の日記であり文書なのです。

【此の八万の法蔵を我が心中に孕〔はら〕み持ち懐〔いだ〕き持ちたり。】
この八万の法蔵を我が心の中に生じさせ懐〔いだ〕き続けているのです。

【我が身中の心を以て仏と法と浄土とを、】
我が身体の中の心にある仏と法と浄土を、

【我が身より外に思ひ願ひ求むるを迷ひとは云ふなり。】
我が身体の外にあると思い願い求める事を迷いと言うのです。

【此の心が善悪の縁に値ひて善悪の法をば造り出だせるなり。】
この心が善悪の縁にあって善悪の法を作り出すのです。

【華厳〔けごん〕経に云はく「心は工〔たく〕みなる画師〔えし〕の】
華厳経に「心は、巧みな絵師が

【種々の五陰〔ごおん〕を造るが如く、】
数々の五陰を作るように、

【一切世間の中に法として造らざること無し。】
すべての世間の中の法として作らないことなどないのです。

【心の如く仏も亦爾〔しか〕なり。仏の如く衆生も然〔しか〕なり。】
心も仏も同じなのです。衆生もまた同じなのです。

【三界唯一心なり。心の外に別の法無し。】
三界は、すべて、ただ一人の心であるのです。心の外に別に法などないのです。

【心仏及び衆生是の三差別無し」(已上)。】
心と仏と衆生の三つは、まったく差別がないのです。」と説かれているのです。

【無量義〔むりょうぎ〕経に云はく】
無量義経には

【「無相不相〔むそうふそう〕の一法より無量義を出生す」(已上)。】
「無相、不相の一法より無量義が出ている」と説かれています。

【無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり。】
無相、不相の一法とは、すべての衆生の一念の心なのです。

【文句〔もんぐ〕に釈して云はく「生滅〔しょうめつ〕無常〔むじょう〕の】
法華文句に「生滅、無常の

【相無きが故に無相と云ふなり。】
相が無い故に無相と言うのです。

【二乗の有余〔うよ〕・無余〔むよ〕の】
二乗の身体を残した有余涅槃と灰身滅智した無余涅槃の

【二つの涅槃の相を離るが故に不相と云ふなり」云云。】
二つの涅槃の相を離れるゆえに不相と言うのです」と解釈されています。

【心の不思議を以て経論の詮要〔せんよう〕と為〔す〕るなり。】
この心の不思議をもって経論の肝要とするのです。

【此の心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。】
この心を悟り理解することを如来と言うのです。

【之を悟り知って後は十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。】
これを悟り理解した後は、十界は、我が身であり、我が心であり、我が姿なのです。

【本覚の如来は我が身心なるが故なり。】
本覚の如来は、我が身心であるからなのです。

【之を知らざる時を名づけて無明〔むみょう〕と為〔な〕す。】
これを理解できない時を名づけて無明と言うのです。

【無明は明〔あき〕らかなること無しと読むなり。】
無明とは、明らかなること無しと読むのです。

【我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。】
我が心の有り様を正しく理解できないのです。

【之を悟り知る時を名づけて法性〔ほっしょう〕と云ふ。】
これを悟り理解した時を名づけて法性と言うのです。

【故に無明と法性とは一心の異名なり。】
それ故に無明と法性とは、一人の心の異名なのです。

【名と言は二なりと雖も心は只一つ心なり。】
名前と言葉は、二つなのですが、その心は、ただ一つの心なのです。

【斯〔こ〕れに由りて無明をば断ずべからざるなり。】
こういう事で無明を断じてはいけないのです。

【夢の心の無明なるを断ぜば寤〔うつつ〕の心を失ふべきが故に。】
夢の心が無明であると断じてしまえば、現実の心まで失ってしまうからなのです。

【総じて円教の意は】
総じて完全な教えという意味は、

【一毫〔いちごう〕の惑をも断ぜず。】
少しの煩悩さえ断じてはいけないという意味なのです。

【故に一切の法は皆是仏法なりと云ふなり。】
それ故にすべての法は、全部、仏法であると言っているのです。


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