御書研鑚の集い 御書研鑚資料
三世諸仏総勘文教相廃立 17 三世諸仏の譲り状
第16章 三世諸仏の譲り状
【安楽行品〔あんらくぎょうほん〕には、末法に入って近来〔このごろ〕、】
法華経安楽行品には、末法に入って
【初心の凡夫法華経を修行して、成仏すべき様を説き置かれしなり。】
仏法の初心者が法華経を修行して成仏すべき様子を説かれています。
【身も安楽行、口も安楽行、意も安楽行なる自行の三業も、】
身の安楽行、口の安楽行、意の安楽行である自行の身口意の三業も、
【誓願〔せいがん〕安楽〔あんらく〕の化他の行も、】
また誓願安楽の化他の行も、
【同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時となり云云。】
同じく、釈迦牟尼仏の滅後の末法の世界において、
【此は近来の時なり。】
仏法が滅しようとする時と説かれている現在の為なのです。
【已上四所に有り。薬王品〔やくおうほん〕には二所に説かれ、】
これと同じ内容が安楽行品に四箇所に有り、薬王菩薩本事品には二箇所に説かれ、
【勧発品〔かんぼつぽん〕には三所に説かれたり。
普賢菩薩勧発品には三箇所に説かれています。
【皆近来を指して譲り置かれたり。】
これらはみな現在を指して説かれているのです。
【正しき文書を用ひずして凡夫の言に付き、】
この正しい文書を用いずに、凡夫の言葉を信じて
【愚癡〔ぐち〕の心に任せて三世諸仏の譲り状に背〔そむ〕き奉り、】
愚かな心に任せて三世諸仏の譲り状に背いて、
【永く仏法に背かば、三世の諸仏何〔いか〕に】
永く仏法に背けば、三世の諸仏は、どれほど、
【本意無く口惜しく心憂〔う〕く歎〔なげ〕き悲しみ思し食すらん。】
悔しく嘆き悲しまれることでしょうか。
【涅槃〔ねはん〕経に云はく「法に依って人に依らざれ」云云。】
涅槃経に「法に依って人に依るべきではない」と説かれているのはこの事なのです。
【痛ましいかな悲しいかな、】
ほんとうに痛ましく、悲しい事に、
【末代の学者仏法を習学して還〔かえ〕って仏法を滅す。】
末法の学者たちが仏法を習学して還って仏法を破壊しているのです。
【弘決〔ぐけつ〕に之を悲しんで曰く】
妙楽大師の止観輔行伝弘決には、これを悲しんで
【「此の円頓〔えんどん〕を聞いて崇重〔そうじゅう〕せざることは、】
「この円頓の法華経を聞いて、これを崇重しないことは、
【良〔まこと〕に近代大乗を習ふ者の雑濫〔ぞうらん〕に由るが故なり。】
ほんとうに現在の大乗教を習う者が仏法の正邪を雑濫したからなのである。
【況〔いわ〕んや像末情〔こころ〕澆〔にご〕り信心寡薄〔すくなく〕、】
まして像法時代、末法時代になると人の心が濁り、信心は薄くなり、
【円頓の教法蔵〔くら〕に溢〔あふ〕れ函〔はこ〕に盈〔み〕つれども、】
円頓の法華経は、法蔵にあふれ、誰でも学ぶことが出来るのに、
【暫〔しばら〕くも思惟〔しゆい〕せず、】
少しも、それを読んで思索せずに、
【便〔すなわ〕ち目〔め〕を瞑〔ふさ〕ぐに至る。】
目を閉じて学ぼうとしないのです。
【徒〔いたずら〕に生じ徒に死す、】
意味もなく生じ、意味もなく死ぬのです。
【一に何ぞ痛ましきかな」(已上)。】
ほんとうに痛ましい事ではないでしょうか。」と書かれているのです。
【同四に云はく】
また、止観輔行伝弘決の第四巻には
【「然も円頓の教は本凡夫に被〔こうむ〕らしむ。】
「しかも円頓の法華経は、もともと凡夫の為に説かれているのです。
【若し凡に益するに擬〔ぎ〕せずんば、】
もし、凡夫の為ではないとすれば、
【仏何〔なん〕ぞ自ら法性〔ほっしょう〕の土に住して】
仏は、なぜ自らの法性の国土に住して
【法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして、】
法性の身体を以て、多くの菩薩の為にこの円頓の教え説かずに、
【何ぞ諸の法身の菩薩の与〔ため〕に凡身を示し、】
なぜ、多くの法身の菩薩の為に凡身を示して、
【此の三界に現じたまふことを須〔もち〕ひんや。】
この三界に現れたのでしょうか。
【乃至一心凡〔ぼん〕に在〔あ〕れば】
凡夫一人の心の中にそれを学ぼうとする仏性があるから、
【即ち修習すべし」(已上)。】
それを修行する事が出来るのです。」と説かれているのです。