日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


大田乗明等御消息文 01 大田乗明などについて

千葉県の下総国〔しもうさのくに〕の有力檀那である富木常忍〔ときじょうにん〕が頂いた文永6年5月の問注得意抄(御書417頁)の宛名に「三人御中」とあり、この三人が正確に誰であるかは、わかりませんが、大田乗明の祖父は、源頼朝〔みなもとのよりとも〕が鎌倉幕府を開いた際、訴訟の受理などを扱った役所の問注所(現在の裁判所)の有力者であり、それ以来、乗明の父、乗明自身も問注所の役人を務めていたと思われます。
それら乗明の先祖は、高野山に大塔を供養するほどの熱心な真言の家系であり、乗明自身も当初は、深く真言に傾倒していたであろう事は、大田乗明が頂いた御書の至る所に真言への破折があることでもわかります。
文応元年(西暦1260年)8月27日、大聖人は、念仏者に松葉ケ谷〔まつばがやつ〕の草庵を襲撃されましたが、その後、大聖人は、一時、この富木常忍のもとに身を寄せられています。
このとき、富木常忍の屋敷の近隣に在住していた大田乗明、曾屋教信〔そやきょうしん〕は、初めて大聖人に親しく接し帰依したものと思われます。
曾谷二郎兵衛尉教信は、大野政清の子と伝えられ下総国、国分村曽谷(蘇谷)(千葉県市川市曾谷)の郷主で、その住処の名をとって曾谷殿と呼ばれていました。元仁元年(西暦1224年)の生れで、大聖人から法蓮日礼との法名を賜〔たま〕わっています。
富木常忍の屋敷は、大聖人の故郷である千葉県の安房の国小湊と同じ千葉県の下総国〔しもうさのくに〕葛飾郡八幡荘〔やはたのそう〕であり、現在の千葉県市川市の中山法華経寺の奥の院の境内が、その館跡とされていて、現在も中山、曾谷、八幡、若宮の地名が残っていることから、少なくとも富木常忍と曾谷教信とは、この近くに居住していたことは間違いないようです。
しかし大田乗明の住居については、現存する資料からは、場所を特定することはできていません。
しかし、数々の伝承から、大田乗明と富木常忍の屋敷は、すぐ近くに隣接していて、両方を併せたものが中山法華経寺の現在の境内になっていると考えられます。
つまり、大田乗明亡きあと、乗明の次男が出家し大聖人より日高の法号を賜り、その日高が、その屋敷跡を本妙寺とし、さらに、その後、富木常忍がその邸内に建立していた法華堂を法華経寺と改めた上で、両寺を併せて、現在の中山法華経寺としたとする説です。
なお、乗明聖人御返事に「相州鎌倉より青鳧〔せいふ〕二結〔ゆ〕ひ、甲州身延の嶺に送り遣〔つか〕はされ候ひ了〔おわ〕んぬ」(同1116頁)とあり、大田乗明が鎌倉から使者を通じて身延の大聖人に御供養を送っていることから、大田乗明の住まいが鎌倉にあったとする説もあります。これも大田乗明が鎌倉幕府の問注所の役人であった事と関係していると思われます。
また、曾谷入道殿許御書には「貴辺並びに大田金吾殿の越中の御所領」(同790頁)とあり、曾谷教信と大田乗明には、越中に所領があったことが分かり、住居がどこにあったにせよ、両者に領地に関しても深い関係があったものと思われます。
どちらにしても「貴辺は日来〔ひごろ〕は此等の法門に迷ひ給ひしかども、日蓮が法門を聞きて、賢者なれば本執を忽〔たちま〕ちに翻〔ひるがえ〕し給ひて、法華経を持ち給ふのみならず、結句〔けっく〕は身命よりも此の経を大事と思〔おぼ〕し食〔め〕す事、不思議が中の不思議なり」(御書1223頁)と称賛されている通り、大聖人が亡くなられる半年前の弘安5年4月8日に「予年来〔としごろ〕己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家〔もんけ〕の遺弟等定めて無慈悲の讒言〔ざんげん〕を加ふべし」(御書1595頁)と述べられている本門の戒壇建立を御遺命された重要御書、三大秘法禀承事〔ぼんしょうのこと〕(御書1593頁)を賜っており、大聖人がいかに大田乗明を信頼されていたかを知ることができます。
また、大聖人から漢文体の御書を送られているのは、この大田乗明、富木常忍、曾谷教信の三人以外には、大学三郎、波木井三郎、池上宗仲、妙一尼だけと思われ、この三人が漢文を読む素養があり、経文や中国の数々の注釈文を、そのまま理解できたと思われ、信徒の中で最も大聖人の本門への理解が深かったと思われます。
名前については、正式には、大田五郎左衛門尉乗明と言い、御書には、太田殿または、太田入道殿、他に大田左衛門尉殿、大田金吾入道、乗明聖人、乗明上人、乗明法師妙日、大田金吾殿などとあり、大田、あるいは太田が姓であることは明らかです。
次に、左衛門尉、金吾と言う呼称がありますが、これは、武士としての職務に関する呼称で左衛門は、近衛府、兵衛府、衛門府のそれぞれに左右が設けられた六衛府の中の左衛門府の略であり、また、尉は、令制における職務の位階の名称で、督、佐、尉、志の四等のうちの一つであり、また、金吾は、左右衛門府の中国の唐時代の制度における呼び名です。
乗明は名で、「のりあき」なのか「じょうみょう」であるのかは不明です。
妙日は、入道した際の日蓮大聖人から頂いた法名と考えられ、乗明聖人、乗明上人、乗明法師、妙日などの呼び名は、いずれも大田乗明が日蓮大聖人の法門についての理解が大変深かったことへの賞賛の故であることは明らかです。
しかし、これほどの強信者であった太田乗明も、病に悩まされ大聖人より「一には四大順ならざる故に病〔や〕む、二には飲食〔おんじき〕節せざる故に病む、三には坐禅調〔ととの〕はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む」(御書911頁)と、その原因について御教示されています。
これを解説すると、病気の原因について、一、人体を構成する地水火風の四大〔しだい〕のバランスが崩れる、二、不規則な生活、三、睡眠不足や精神的なストレス、四、細菌やウイルスに犯される、五、障魔の用〔はたらき〕による、六、過去の宿業によるとされ、この最後の罪障消滅の為には、正しい信仰に依らなければならない事を、この御書などで強調されている背景には、大聖人が長年に渡る大田乗明の家系の真言への信仰に依る罪業を心配されてのことと思われるのです。
そうして、大田乗明は、大聖人が亡くなられて半年後に後を追うように、大聖人に随順した76歳の生涯を終えられています。
この大田乗明、曾屋教信と共に転重軽受法門(御書480頁)の宛名にある金原法橋〔きんばらほうきょう〕については、まったくの不明ですが、この中の法橋は、名前ではなく、当時の僧の位のことで法眼に次ぐ位の法橋上人位の律師〔りっし〕を指し、仏法を橋渡しする人と言う意味です。
秋元御書(御書1447頁)と秋元殿御返事(御書334頁)の二編を頂いている秋元太郎兵衛尉〔あきもとたろうひょうえのじょう〕については、下総国〔しもふさのくに〕(千葉県北部)印旛郡〔いんばぐん〕白井荘〔しろいのしょう〕(千葉県白井市)の人で、秋元の名については、領地の上総国〔かずさのくに〕周淮郡〔すえぐん〕秋元郷(千葉県君津市)に由来すると考えられます。
曾谷氏や大田氏と親しく、富木氏とは、親類であったとも言われており、大聖人が松葉谷〔まつばがやつ〕の法難の後、難を避けて下総中山へ来られた時に同じく帰依したものと伝えられています。
この秋元殿御返事の「御文に云はく、末法の始め五百年にはいかなる法を弘むべしと、思ひまひらせ候ひしに、聖人の仰せを承り候に、法華経の題目に限りて弘むべき由聴聞申して御弟子〔みでし〕の一分に定まり候。」(御書334頁)の文章や、「師檀となる事は三世の契〔ちぎ〕り」(御書335頁)の文章、さらには、法華経化城喩品の「在々諸仏の土に常に師と倶に生まれん」(御書335頁)と言う金言などは、まさに富木常忍、大田乗明、曾屋教信、さらにまた、この秋元兵衛尉、金原法橋のことを示されていると言えるでしょう。


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