日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


大田乗明等御消息文 04 転重軽受法門


【転重軽受法門 文永八年一〇月五日 五〇歳】
転重軽受法門 文永8年10月5日 50歳御作

【修利〔すり〕槃特〔はんどく〕と申すは兄弟二人なり。】
修利〔すり〕槃特〔はんどく〕と言うのは、兄弟、二人の名前ですが、

【一人もありしかば、すり〔修利〕はんどく〔槃特〕と申すなり。】
一人であっても、修利〔すり〕槃特〔はんどく〕と言います。

【各々三人は又かくのごとし。】
大田左衛門尉殿、曾谷入道殿、金原法橋殿の三人も、また、これと同じなのです。

【一人も来たらせ給へば三人と存じ候なり。】
一人でも居られたら、三人が居られるのと同じことなのです。

【涅槃〔ねはん〕経に転重〔てんじゅう〕軽受〔きょうじゅ〕と申す法門あり。】
涅槃経に転重軽受と言う法門があります。

【先業の重き今生につ〔尽〕きずして、未来に地獄の苦を受くべきが、】
過去の重い宿業が今生で尽きずに、未来に地獄の苦悩を受けるべきところが、

【今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっとき〔消〕へて、】
今生に、このような重い苦悩にあえば、その地獄の苦みが、ぱっと消えて、

【死に候へば人・天・三乗・一乗の益をう〔得〕る事の候。】
死ねば、人天と、声聞、縁覚、菩薩の三乗、一仏乗に生まれる利益を得るのです。

【不軽〔ふきょう〕菩薩〔ぼさつ〕の悪口〔あっく〕罵詈〔めり〕せられ、】
(一)不軽〔ふきょう〕菩薩が悪口〔あっく〕罵詈〔めり〕され、

【杖木瓦礫〔がりゃく〕をかほ〔被〕るも、】
杖木〔じょうもく〕で叩かれ、瓦礫〔がりゃく〕を投げられるのも

【ゆへなきにはあらず。】
意味がないわけではありません。

【過去の誹謗〔ひぼう〕正法のゆへかとみへて】
それは、過去の正法を誹謗〔ひぼう〕した故であると思われるのです。

【「其罪〔ござい〕畢已〔ひっち〕」と説かれて候は、】
「其罪〔ござい〕畢已〔ひっち〕」と説れているのは、

【不軽菩薩の難に値ふゆへに、】
不軽〔ふきょう〕菩薩と同じ難にあって、

【過去の罪の滅するかとみへはんべ〔侍〕り(是一)。】
過去の罪の滅す事と思われるのです。

【又付法蔵〔ふほうぞう〕の二十五人は仏をのぞ〔除〕きたてまつりては、】
(二)また付法蔵の25人は、最初の釈迦牟尼仏を除いて、

【皆仏のかねて記しを〔置〕き給へる権者なり。】
すべて仏が兼ねてから説かれていた衆生救済の為の権〔かり〕の姿の者なのです。

【其の中に第十四の提婆〔だいば〕菩薩は外道にころ〔殺〕され、】
その中の第14番目の提婆〔だいば〕菩薩は、外道に殺され、

【第二十五師子尊者〔ししそんじゃ〕は檀弥栗〔だんみり〕王に、】
第25番目の師子尊者は、檀弥栗〔だんみり〕王に

【頸を刎〔は〕ねられ、】
頸〔くび〕を刎〔はね〕られ、

【其の外仏陀密多〔ぶっだみった〕・竜樹〔りゅうじゅ〕菩薩なんども】
その外、第9番目の仏陀密多〔ぶっだみった〕、第13番目の竜樹菩薩なども、

【多くの難にあ〔値〕へり。】
多くの難に会い、(付法蔵の順番については、諸説あります)

【又難なくして、王法に御帰依いみじくて、法をひろ〔弘〕めたる人も候。】
また、難が無く王法に従って仏法を弘めた人もいます。

【これは世に悪国・善国有り、法に摂受・折伏あるゆへかとみへはんべ〔侍〕る。】
これは、世の中には、悪国、善国が有り、法に摂受、折伏ある故と思われます。

【正像猶〔なお〕かくのごとし。中国又しかなり。】
正像は、このようであり、中国も、また、このようであるのです。

【これは辺土なり。末法の始めなり。かゝる事あるべしとは、】
しかし、日本は、辺土であり、また末法の始めなので、このような難があると、

【先にをも〔思〕ひさだ〔定〕めぬ。期〔ご〕をこそま〔待〕ち候ひつれ(是二)。】
前々から思っており、その時期を待っていたのです。

【この上〔かみ〕の法門は、いにし〔古〕え申しを〔置〕き候ひき、】
この転重軽受の法門は、過去に教えておいたもので、

【めづら〔珍〕しからず。】
別に珍しい教えでは、ありません。

【円教の六即の位に観行即と申すは】
天台大師が立てた法華円教を修行する菩薩の六即の位にある観行即とは、

【「行ずる所言ふ所の如く、言ふ所行ずる所の如し」云云。】
「行ずる所は、言う所の如く、言う所は、行ずる所の如し」とあります。

【理即・名字の人は円人なれども、】
それ以下の理即、名字即の人は、法華円教を信ずる人ではありますが、

【言のみありて真なる事かた〔難〕し。】
それは、言葉だけであって、現実に実行するのは、難しいのです。

【例せば外典の三墳〔さんぷん〕・五典〔ごてん〕は】
例えば、仏教以外の教えである三墳と五典などの教えを

【読む人かず〔数〕をしらず。かれ〔彼〕がごとくに世ををさ〔治〕め】
読む人は、数多く居ますが、その教えの通りに世の中を治め、

【ふ〔振〕れま〔舞〕う事、千万が一つもかたし。】
振る舞うことは、現実には、万に一つもないのです。

【されば世のをさ〔治〕まる事も又かたし。】
そうであれば、世の中が治〔おさ〕まる事も、また難しいのです。

【法華経は紙付〔かみつき〕に音〔こえ〕をあげてよ〔読〕めども、】
法華経を紙に書いてあるままに声を上げて読むけれども、

【彼の経文のごとくふ〔振〕れま〔舞〕う事かた〔難〕く候か。】
その経文の通りに行動することは、難しいのです。

【譬喩品に云く「経を読誦し書持〔しょじ〕すること有らん者を見て、】
法華経譬喩品に「法華経を読誦し書持し受持する者を見て、

【軽賎〔きょうせん〕憎嫉〔ぞうしつ〕して】
軽〔かろ〕んじ、賎〔いや〕しみ、憎み、嫉妬し、

【結恨〔けっこん〕を懐〔いだ〕かん」と。】
恨みを懐くであろう」とあり、

【法師品に云く「如来の現在すら猶怨嫉〔おんしつ〕多し、】
法華経法師品には「如来の現在ですら、なお怨嫉が多い、

【況んや滅度の後をや」と。勧持品に云く】
まして滅度の後においては」と説かれており、さらに法華経勧持品に

【「刀杖を加へ乃至数々〔しばしば〕擯出〔ひんずい〕せられん」と。】
「刀や杖を加え(中略)しばしば追放されるであろう」とあり、

【安楽行品に云はく「一切世間、怨〔あだ〕多くして信じ難し」と。】
法華経安楽行品には「一切の世間には怨が多く信じるのが難しい」とあります。

【此等は経文には候へども、】
これらの事は、経文には、説かれていますが、

【何〔いつ〕の世にかゝるべしともしられず。】
いつの世に、そのような難があるかは、わかりません。

【過去の不軽菩薩・覚徳比丘なんどこそ、身にあ〔当〕たりて】
過去世の不軽〔ふきょう〕菩薩や覚徳比丘などは、それを実際に身をもって

【よ〔読〕みまいらせて候ひけるとみへはんべ〔侍〕れ。】
読まれたと思われます。

【現在には正像二千年はさてを〔置〕きぬ。】
現在では、正法、像法の二千年は、しばらく置くとして、

【末法に入っては、此の日本国には当時は日蓮一人み〔見〕へ候か。】
末法に入って、この日本で身をもって、それを読んでいるのは、日蓮一人なのです。

【昔の悪王の御時、多くの聖僧の難に値ひ候ひけるには、又所従眷属等・】
過去の悪王の時代に、多くの正しい僧たちが難にあって、その一族や弟子、

【弟子檀那等いく〔幾〕そばく〔許〕かなげ〔歎〕き候ひけんと、】
檀那などが、どれほど嘆いたことでしょうか。

【今をもちてを〔推〕しはか〔量〕り候。】
現在、同じく難にあっているからこそ、それが思いやられるのです。

【今〔いま〕日蓮法華経一部よ〔読〕みて候。】
このように現在、日蓮は、法華経一部八巻を身をもって読んでいるのです。

【一句・一偈に猶受記をかほ〔被〕れり。】
法華経の一句一偈を身で読むことによって、仏から成仏を保証されているのです。

【何〔いか〕に況んや一部をやと、いよいよたの〔頼〕もし。】
ましてや法華経一部を読んだ場合は、なおさらであり、ますます間違いないのです。

【但をほけなく国土までとこそ、をも〔思〕ひて候へども、】
ただ、身のほどを知らずに国土の運命さえ変えようと思っていましたが、

【我と用ひられぬ世なれば力及ばず。】
自らの主張が用いられない世の中であり、力が及びませんでした。

【しげ〔繁〕きゆへにとゞ〔止〕め候ひ了んぬ。】
細々とした事は、煩〔わずら〕わしいので、これで筆を置くこととします。

【文永八年(辛未)十月五日    日蓮花押】
文永8年10月5日    日蓮花押

【大田左衛門尉殿】
大田左衛門尉殿

【蘇谷〔そや〕入道殿】
蘇谷入道殿

【金原〔きんばら〕法橋〔ほうきょう〕御房】
金原法橋御房

【御返事】
御返事


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