御書研鑚の集い 御書研鑽資料
聖愚問答抄(下) 25 第24章 教主釈尊を範として真の孝養を示す
【されば教主釈尊は転輪聖王〔てんりんじょうおう〕の末、】
それゆえ、教主釈尊は、転輪聖王の末裔〔まつえい〕、
【師子頬王〔きょうおう〕の孫、浄飯〔じょうぼん〕王の嫡子として】
師子頬王の孫、浄飯王の跡継ぎとして、
【五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理をさとり】
大インドの大王になるであろうと言われたけれども、生死無常の理を悟り、
【出離解脱の道を願ひて世を厭〔いと〕ひ給ひしかば、浄飯大王是を歎き、】
出離解脱の道を願って、栄達を望まなかったので、浄飯大王は、これを嘆き、
【四方に四季の色を顕はして太子の御意を留め奉らんと巧〔たく〕み給ふ。】
城の東西南北に春夏秋冬の景色を造って、太子の心を引き留めようとしたのです。
【先づ東には霞たなびくた〔絶〕えま〔間〕より、】
まず東には、霞〔かすみ〕が絶えまなく、たなびき、
【かりがね〔雁音〕こしぢ〔越路〕に帰り、】
越冬を終えた雁が北に帰り、
【窓の梅の香玉簾〔たますだれ〕の中にかよ〔通〕ひ、】
窓の梅の香りが御簾〔みす〕の中にただよい、
【でうでう〔嫋嫋〕たる花の色、もゝ〔百〕さへづ〔囀〕りの鶯〔うぐいす〕】
柔らかな色の花や、鶯〔うぐいす〕がさえずる声で
【春の気色を顕はせり。】
春の景色を現したのです。
【南には泉の色白たへ〔妙〕にして、かの玉川の卯〔う〕の華、】
南には、泉がこんこんと涌き、清らかな川辺には、卯の花が咲き、
【信太〔しのだ〕の森のほとゝぎす夏のすがたを顕はせり。】
深緑の森のホトトギスによって夏の景色を現したのです。
【西には紅葉〔もみじ〕常葉〔ときわ〕に交はれば】
西には、紅葉が常葉樹に交わって、
【さながら錦〔にしき〕をおり交へ、荻〔おぎ〕ふ〔吹〕く風】
さながら錦を織りなし、荻の花を吹く風は、
【閑〔のど〕かにして松の嵐ものすごし。】
のどかで松を吹き渡る嵐は、激しい。
【過ぎにし夏のなごりには、沢辺に見ゆる蛍の光、あまつ空なる星かと誤まり、】
過ぎ去った夏の名残りには、沢辺に見える蛍の光を天空の星かと見まがい、
【松虫鈴虫の声々涙を催せり。】
松虫や鈴虫の鳴く声が涙を誘うのです。
【北には枯野の色いつしかものうく、】
北には、いつしか冬景色となって枯野の色が物憂く、
【池の汀〔なぎさ〕につらゝ〔氷柱〕ゐて谷の小川もをとさび〔音寂〕ぬ。】
池の汀には、氷が張って谷の小川の音も物寂しい。
【かゝるありさまを造りて御意をなぐさめ給ふのみならず、】
このような有り様を造って、御心を慰めようとされただけでなく、
【四門に五百人づつの兵を置きて守護し給ひしかども、】
四門に五百人ずつの兵士を置いて、護衛していたけれども、
【終〔つい〕に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比〔ころ〕、】
ついに太子が十九歳になる年の二月八日の夜半の頃、
【車匿〔しゃのく〕を召して金泥駒〔こんでいこま〕に鞍〔くら〕置かせ、】
使用人の車匿〔しゃのく〕を召して、金泥駒と言う名の白馬に鞍を置かせ、
【伽耶〔がや〕城を出でて檀特山〔だんどくせん〕に入り十二年、】
伽耶城〔がやじょう〕を出て、檀特山〔だんどくせん〕に入り、十二年間、
【高山に薪〔たきぎ〕をとり深谷〔みさわ〕に水を結んで難行苦行し給ひ、】
高い山で薪を採り、深谷に水を汲んで、難行苦行をされ、
【三十成道の妙果を感得して、三界の独尊一代の教主と成りて、】
三十歳の時、成道の妙果を感得して、三界の独尊、一代五十年の教主となって、
【父母を救ひ群生〔ぐんじょう〕を導き給ひしをば、】
父母を救い、衆生を導かれたのですが、
【さて不孝の人と申すべきか。】
さて、この釈尊を不孝の人と言うのでしょうか。
【仏を不孝の人と云ひしは九十五種の外道なり。】
この仏を不孝の人と言ったのは、九十五種の外道なのです。
【父母の命に背きて無為〔むい〕に入り、】
父母の命に背いて無為の道に入り、
【還りて父母を導くは孝の手本なる事、仏其の証拠なるべし。】
返って父母を導くのが、孝行の手本であることは、仏がその証拠なのです。
【彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王、外道の法に著して仏法に背き給ひしかども、】
彼の浄蔵、浄眼は、父の妙荘厳王が、外道の法に執著して仏法に背いたけれども、
【二人の太子は父の命に背きて雲雷音王仏〔うんらいおんのうぶつ〕の】
父の命に背いて、雲雷音王仏の
【御弟子となり、終に父を導きて】
御弟子になり、ついに父を導いて、
【沙羅樹〔しゃらじゅ〕王仏と申す仏になし申されけるは不孝の人と云ふべきか。】
沙羅樹王仏と言う仏にしたことは、不孝の人と言うべきでしょうか。
【経文には「恩を棄てゝ無為に入るは真実に恩を報ずる者」と説いて、】
経文には「恩を棄てて無為に入るのが、真実の報恩の者である」と説いて、
【今生の恩愛をば皆捨てゝ仏法の実の道に入る、】
今生の恩や愛を、すべて捨てて仏法の真実の道に入るならば、
【是実に恩をしれる人なりと見えたり。】
この人は、ほんとうの恩を知っている人であると言われているのです。