日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


聖愚問答抄 01 背景と大意

聖愚問答抄 上(御書381頁)下(御書395頁)

この御書は、御真筆が存在しておらず、対告衆も不明であり、文章全体が大聖人の他の御書と違っており、その内容も多少の問題があるとされて、古来より、偽書ではないかと言う説があります。
しかし、身延久遠寺の第十二世日意の「録外御書註文」には「聖愚問答抄・上下二帖」とあるほか、「三宝寺録外」や「刊本録外」などにも、その存在が記録されている為、聖愚問答抄を偽書であるとする確実な根拠はありません。
また対告衆についても、問答の愚人について、本文に「我は弓箭〔きゅうせん〕に携〔たずさ〕はり、兵杖をむねとして未だ仏法の真味を知らず。」(御書407頁)とあることから、武士の身分の者が頂いたものと拝されます。
著作時期についても、文永二年説、文永四年説、文永五年説、弘安四年説など多数がありますが、日蓮正宗においては、種々の理由から、文永五年の御述作としています。
本抄は、上下二巻に分けられており、全体として愚人と聖人との問答形式となっており、また、内容においても大きく前段と後段に分かれていて、上巻には、前段と後段の一部が含まれ、下巻に後段の残り部分が述べられています。
まず、前段では、律僧、専修念仏の居士、真言師、禅の修行者が次々と愚人を訪れ、他の宗派を批判し、自宗に対する信仰を勧めます。
後段では、愚人は、それまでの諸宗の主張に迷い、求道の旅に出て法華受持の真実の聖人と出会い、聖人は、爾前〔にぜん〕権教〔ごんぎょう〕は、すべて悪道、悪道に堕ちる業因となり、ただ法華経のみが釈尊の出世の本懐であり、真実の経典であることを示して、まず善導〔ぜんどう〕、法然〔ほうねん〕の念仏の邪義を示し、念仏宗が無間地獄への道であると述べ、次に真言密教を日本に弘めた弘法大師空海の邪義を破します。ここまでが上巻です。
下巻では、禅宗の主張である拈華微笑〔ねんげみしょう〕、不立文字〔ふりゅうもんじ〕について、これも経文であり文字であると教外別伝〔きょうげべつでん〕、直指人心〔じきしにんしん〕の矛盾を挙げられて破折され、さらに当世の念仏者や権教、権宗の者たちが信者数の大小に執われる愚を諭〔さと〕されます。
本抄でいう愚人とは、このように日頃から外典を学び、自然に心を寄せて生死に迷う仏教に無知な人をさしています。
聖人とは、一応、仏教を極めたという諸宗の人々のことですが、彼らは、つぎつぎに、その邪智、謗法が明らかになり、ただ法華受持の聖人こそが、真実の聖人であることを示します。
そして、この愚人に対して「法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時折伏を行ずるも非なり。折伏の時摂受を行ずるも失〔とが〕なり。然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是を知るべし。」(御書402頁)「邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣いて謗法を責むべし、是折伏の修行なり。此の旨を知らずして摂折途〔みち〕に違はゞ得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云う事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明なり。」(御書402頁)「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。」(御書403頁)と折伏こそが成仏の直道であると示され、「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福〔さいわい〕や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」(御書406頁)と仰せられ、さらに、「意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし。」(御書408頁)と御教示され、妙法五字に一切の功徳を含むことを理解し、謗法厳戒の意義を了解して、妙法に帰依していきます。
本抄の聖愚問答抄という題名は、このように聖人と愚人との問答形式によって顕されています。
もちろん、この聖人とは、末法の御本仏、日蓮大聖人御自身のことです。
なお、本抄は、佐渡以前の御書であることから題目の弘通にとどまり、その題目の実体である末法出現の御本尊の実義までは顕されず、三大秘法中の「本門の題目」についての御教示にとどまり、その当体である「本門の本尊」についての御教示はありませんが、付嘱〔ふぞく〕の要法について「所謂〔いわゆる〕諸仏の誠諦得道の最要は只是妙法蓮華経の五字なり。」(御書405頁)とあり、さらに「凡〔およ〕そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも、只是五字を説かんためなり。霊山の雲の上、鷲峰〔じゅぶ〕の霞〔かすみ〕の中に、釈尊要を結び地涌付嘱を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法〔ようぼう〕に在り。」(御書405頁)と妙法蓮華経の五字が結要付嘱の要法であることが明かされていることから、大聖人の御内証の法門の大綱を、おぼろげながら教示された御書であると拝されます。
本抄の最後に法華経受持を決意した愚人に対して「人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝当座は信ずといふとも後日は必ず翻〔ひるが〕へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱〔そうらん〕する事なかれ。夫〔それ〕天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば猪の金山〔こんぜん〕を摺〔す〕り、衆流〔しゅる〕の海に入り、薪〔たきぎ〕の火を盛んになし、風の求羅〔ぐら〕をま〔増〕すが如くせば、豈〔あに〕好〔よ〕き事にあらずや。」(御書409頁)と仰せになり、世間の目や損得で判断すれば、必ず、折伏した時の難によって法華経を捨ててしまうであろう。その時こそ、この仏法の道理を思い起こし、難によって成仏が可能になると喜ぶべきであると御教示されて本抄を結ばれています。

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