日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


守護国家論 01 背景と大意

守護国家論 背景と大意

本抄は、正元元年(西暦1259年)、日蓮大聖人が聖寿38歳の時に著わされた御書です。
この著作された年については、様々な説がありましたが、本抄に正嘉〔しょうか〕元年(西暦1257年)の大地震、正嘉2年(西暦1258年)秋の旱魃〔かんばつ〕、大風についての記述があり、その一方で正元元年の大疫病の記述がないことなどから、正元元年が妥当とされています。
御真筆は、かつて日蓮宗の身延山久遠寺に所蔵されていましたが、明治8年(西暦1875年)の大火で焼失しました。 現在では、写本のみが存在しています。
内容については、大聖人自らが守護国家論と題名を付けられている通り、国家の安寧〔あんねい〕を願うならば、まず、正しい仏教を守護しなければ、ならない事を明示され、その為には、災難の元凶である正法誹謗の法然の念仏宗を、破折し、駆逐しなければならないことを示されています。
日蓮大聖人は、建長5年(西暦1253年)4月28日に安房の国、清澄寺で立教開宗され、その後、鎌倉の松葉ケ谷の草庵を拠点に妙法の弘通をされていましたが、まるで、それに呼応するかのように、文字通り国家を揺るがす大地震が起き、さらに末法と言う名の通り、世の末を予感させるような疫病、飢饉などが頻発するなど、まさに国難とも言うべき状況が立て続けに起き続けていたのです。
このような惨憺たる状況を見られた大聖人は、このような大災害の原因を究明すべく、一切経を調べる為に駿河国(静岡県)岩本実相寺の経蔵に入られたのです。
正嘉2年(西暦1258年)、聖寿37歳の時のことです。
この年には、安房国の故郷で大聖人の父上が亡くなられています。
その結果として、2年後の文応元年(西暦1260年)7月16日に、立正安国論をもって一度目の国主への諌暁をされたのでした。
この間においても、駿河国の岩本実相寺(静岡県富士市岩本)の経蔵で、日蓮大聖人は、一切経、五千余巻の閲覧をされながら、次々と御著述をされていたのです。
その代表的なものとして、一代聖教大意、一念三千理事、一念三千法門、十如是事などがあります。
これらの数々の著作は、釈迦牟尼仏一代の法門を浅いものから深いものへと並べられて、まさに法華経こそ釈迦牟尼仏の出世の本懐であり、釈迦牟尼仏一代聖教の最高の経文であることを論証されるとともに、法華経に基づいて構築された中国の天台大師、智顗〔ちぎ〕の一念三千法門について、末法の法華経の行者、上行菩薩再誕の大聖人の立場として受け継がれる事を明確にされたものであり、その意味で、これらの御書には、目的である災害の原因を、いまだ明らかにされていなかったのです。
守護国家論は、その本来の目的であった災害が起こる原因を、最終的な形で理路整然と述べられた最初の著作であると言えます。
さらに重大な事は、この岩本実相寺において、この当時、近くの天台宗四十九院で修学中であった13歳の日興上人に出会われ、その日興上人が大聖人の弟子となられた事です。
もし、日蓮大聖人が、この目的の為に駿河国に入らなければ、日興上人に会うことは、なかったかも知れません。
それを思うと、この富士と言う土地に不思議な関係性を覚えずには、いられません。
この守護国家論は、そういう理由で立正安国論に先立ち、その前年に著述されたものなのです。
最初に、この書の御述作の由来(第01章)を述べられています。
まず、すべての人々が地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちる原因を示されますが、その多くの原因の中で、特に仏法の中において、法然が書き著した「選択〔せんちゃく〕本願念仏集」略して「選択集〔せんちゃくしゅう〕」こそ最大の原因であると指摘され、過去にも、その原因である選択集を批判した書物が、多くの仏教者によって著されましたが、それらは、選択集の謗法の根源を指摘していなかった為に、返って世間の人々に、それを弘めてしまい、未だに多くの人々が、法然の言葉を信じて念仏を唱えているのでした。
これこそが釈迦牟尼仏が示された通りの国を喪〔うしな〕う悪法であり、この為に人々が三悪道に堕ちる三災七難が起こっているのであると、その根本原因を断言されているのです。
そして、本抄を著わされた理由を「予此の事を歎く間、一巻の書を造りて選択集の謗法の縁起〔えんぎ〕を顕はし、名づけて守護国家論と号す。」(御書118頁)と述べられ、本抄が選択集破折の書であることを明記され、選択集の謗法の根源である「此の事」を根底から断ち切る為に、この選択集の法華経誹謗と言う謗法の根源を明らかにしようと、本抄を執筆され、守護国家論と名付けた事を示されています。
さらに、その後に「分かちて七門と為〔な〕す。一には如来の経教に於て権実二教を定むることを明かし、二には正〔しょう〕像〔ぞう〕末〔まつ〕の興廃〔こうはい〕を明かし、三には選択集〔せんちゃくしゅう〕の謗法の縁起を明かし、四には謗法の者を対治すべき証文を出〔い〕だすことを明かし、五には善知識並びに真実の法には値ひ難きことを明かし、六には法華涅槃に依る行者の用心を明かし、七には問ひに随って答へを明かす。」と、七つの段落に分けて念仏が諸悪の根源である事を示されます。
第1段として「如来の経教に於て権実二教を定むること」を明示され、その中で、第1項で「大部の経の次第を出だして流類〔るるい〕を摂することを明かし」と、五時の説法の順序(第02章)を明示し、第2項で「諸経の浅深〔せんじん〕を明かし」と述べられて無量義経と爾前経の浅深(第03章)を明示され、第3項で「大小乗を定むることを明かし」とされて、大乗、小乗を定め(第04章)、第4項で「且〔しばら〕く権を捨てゝ実に就〔つ〕くべきことを明かす」と捨権就実の十の文証(第05章)をあげられています。
そして「或は小〔すこ〕し自義に違〔たが〕ふ文有れば理を曲げて会通〔えつう〕を構〔かま〕へ、以て自身の義に叶はしむ。設〔たと〕ひ後に道理と念〔おも〕ふと雖も、或は名利に依り、或は檀那の帰依に依って、権宗を捨てゝ実宗に入らず。」と少し自分の考えと違う経文があれば、それを曲げて自分の考えに合わせ、たとえ、経文が正しいと思っても名聞名利の為、または、周りの者の後押しによって権教を捨てて法華経の宗派に入らない事を指摘され、人師が経論を誤る理由(第06章)を明確にされています。
第2段では、「正像末の興廃」を明示され、仏滅後の正像末に仏法の興廃がある事を述べられています。
第1項で「爾前〔にぜん〕四十余年の内の諸経と浄土の三部経との末法に於ける久住〔くじゅう〕・不久住〔ふくじゅう〕を明かし」と爾前経と浄土経の興廃(第07章)を明示され、第2項で「法華・涅槃と浄土の三部経並びに諸経との久住・不久住を明かす」とされ、この中で無量義経の経文から考察すると、浄土の三部経は、方便の教えであり、いくら修行しても法華経に至らなければ、一分の利益も得られず、今世で、どのような原因を作っても、死んでしまえば、未来世に如何なる結果も生じないとする有因無果の外道の説と同様であると破折され、浄土教滅・法華久住(第08章)を明らかにされています。
さらに、なぜ、このような主張が末法で、おかしくなってしまったかと言うと「是の故に善導和尚も雑行の言の中に敢へて法華・真言等を入れず。」とあるように中国浄土教の善導和尚の「雑行〔ぞうぎょう〕」の中に法華経を入れる法然の権実雑乱の罪(第09章)によってであり、また、日本の慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕は、比叡山第18代の座主であり、多くの書を著したのは、すべて、法華経を弘める為であり、その中の往生要集も「往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり。」とあるように、その中のひとつであったのですが、法然は、それを隠して、念仏のみを取り出して、選択集で法華経を誹謗したのです。これこそ、人々を三災七難によって三悪道に落とす恐るべき法然の選択集の罪(第10章)なのです。
第3段では「選択集〔せんちゃくしゅう〕謗法の縁起を出ださば、」と法然の撰択集が謗法である理由(第11章)を明らかにされ、特に法華経を難行道、聖道門、雑行と下して末法の機に合わないとした選択集の邪義が、国中の万人をして法華経を時機不相応の教えと勘違いさせた大謗法たることを厳しく指摘されます。 さらに「無性の常没・決定性の二乗は但法華・涅槃等に限れり。」と一闡提・二乗の成仏(第12章)また、「当に知るべし、慧心〔えしん〕の意は往生要集を造りて末代の愚機〔ぐき〕を調〔ととの〕へて法華経に入れんが為なり。」と往生要集の本意(第13章)を述べられ、「仏自ら権実を分けたまふ。其の栓を探るに決定性の二乗・無性有情の成不成(第14章)是なり。」と一闡提と二乗の不成仏を指摘され、法華経こそ末法相応の経文であるとされています。
さらに第4段では「謗法の者を対治すべき証文を出ださば、」と述べられ、第1項では「仏法を以て国王大臣並びに四衆に付嘱〔ふぞく〕することを明かし、」仏法を付嘱する証文(第15章)とされ、特に仁王経、大集経、涅槃経、金光明経を引用され、謗法対治の任を国主と想定されています。 第2項では「正しく謗法の人の王地に処するをば対治すべき証文を明かす。」と謗法者対治の証文(第16章)を述べられ、いくら世の中の安穏を祈っても、国に三災が起これば、それは悪法が流布しているのであると見破り、涅槃経に説かれる仏法中怨の責めを受けないためにも、法然の謗法を徹底して呵責すべきことを勧められています。
第5段では「善知識並びに真実の法には値ひ難きこと」として、第1項では「受け難き人身値ひ難き仏法なることを明かし」、人間に生まれる事さえ稀であり、また、奇跡的に仏法に巡り合ったとしても、善知識や真実の法に会うことは、極めて困難であると善知識に値い難き事(第17章)を明示され、第2項では「受け難き人身を受け値ひ難き仏法に値ふと雖も悪知識に値ふが故に三悪道に堕することを明かし」、悪知識の選択集(第18章)によって多くの人々が、せっかく巡り合った正法を、この法然の撰択集を信じて捨て去り、三悪道に堕ちる事がないように諭されています。
第3項では「正〔まさ〕しく末代の凡夫の為の善知識を明かす。」と述べられ、末法における善知識(第19章)は、十界互具が説かれた末代の凡夫を真に成仏せしめる法華経のみであることを示されています。
しかし、この時期の比叡山天台宗は、法華最勝の伝教大師の宗旨を守らず、念仏、真言を取り入れ、まさに密教の巣窟に成り果てていたのです。
また、日蓮大聖人の本義は、法華経の文底下種の仏法であるのですが、この時期には、それをはっきりとは顕さずに「追ってこれを記すべし。」と述べられるに止〔とど〕められています。
第6段では、「法華・涅槃に依る行者の用心」を明示され、第1項では「在家の諸人正法を護持するを以て生死を離るべく、悪法を持つに依って三悪道〔さんなくどう〕に堕すること」を示され、正法護持の功徳(第20章)を明確にされ、第2項では「但法華経の名字〔みょうじ〕計〔ばか〕りを唱へて三悪道を離るべきこと」と題目の功徳(第21章)を明確にし、第3項では「涅槃経は法華経の為の流通と成ること」、つまり、涅槃経は、法華経の流通分(第22章)である事を明かされます。
第7段に、「此の一段を撰〔えら〕んで権人の邪難を防〔ふせ〕がん。(第23章)」と述べられ、法華経を受持する者に対し、諸宗による攻撃と、その返答を示されます。
そこでは、釈迦牟尼仏の一代五十年の経文の内の、どの時期の経文かを糾〔ただ〕し、もし法華経の前であれば、未顕真実と責めよと述べられ、最後に滅後の魔仏〔まぶつ〕、虚妄、方便、不了義経、魔説である権仏、権教の始覚の仏を捨て「久遠〔くおん〕実成〔じつじょう〕の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。」とあるように、実経である久遠実成・十界互具(第24章)の法華経を信ずべきことを御教示され、本抄を結ばれます。
この守護国家論において、大聖人は、真言の邪義を直ちに破折されず、「法華・真言」と法華経と同等に扱われていますが、これは、曽谷入道殿御書に「仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり。禅宗と念仏宗とを責め候ひしは此の事を申し顕はさん料なり。」(御書747頁)とあり、さらに清澄寺大衆中に「其の上真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見〔びゃっけん〕を責めて見んと思ふ。」(御書946頁)と仰せのように立宗から間もない時期は、当時、民衆に深く浸透していた念仏の邪義を破折されたのです。
特に、本抄において真言を破折されていないのは、災難の一凶として法然の念仏の邪義を徹底して破折することに主眼を置かれた為です。
末法における正法は、第五段以降に明らかなように、あくまでも十界互具・一念三千を説く法華経に限ります。
しかし、この時期は、撰時抄に「されば桓武・伝教等の日本国建立の寺塔は一宇〔いちう〕もなく真言の寺となりぬ。」(御書861頁)とあるように法華経最勝であるはずの比叡山延暦寺でさえ、念仏、真言の邪義に染まっており、まず、比叡山第18代座主の慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕の往生集の例を引いて、真言は、ひとまず置いて念仏の邪義を、まず最初に退けられたのです。
さらに、ここで述べられている「法華・真言」の「真言」とは、開目抄の「此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり。」(御書548頁)の「真言」であり、法華経の文底に秘沈された三大秘法の本門の題目に極まり、決して、真言宗の「真言」ではなく、これを知ることが大事なのです。


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