御書研鑚の集い 御書研鑽資料
守護国家論 14 第13章 往生要集の本意
【但し往生要集は一往序文を見る時は法華・真言等を以て】ただし、往生要集は、一往、序文を見る時は、法華、真言などを
【顕密の内に入れて殆〔ほとん〕ど末代の機に叶はずと書すと雖も、】
顕教、密教の中に入れて、ほとんど末法の衆生の機根に合わないと書いていますが、
【文に入りて委細に一部三巻の始末を見るに、】
本文に入って、詳しく一部三巻の初めから、終わりまでを見ると、
【第十の問答料簡〔りょうけん〕の下に正しく諸行の勝劣を定むる時、】
第十段の問答料簡の第七項に、正しく諸行の優劣を定める時に、
【観仏〔かんぶつ〕三昧・般舟〔はんじゅ〕三昧・】
観仏〔かんぶつ〕三昧経、般舟〔はんじゅ〕三昧経、
【十住毘婆沙論・宝積〔ほうしゃく〕・】
十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論、宝積〔ほうしゃく〕経、
【大集等の爾前の経論を引いて、一切の万行に対して】
大集経などの法華以前の経論を引用して、一切のすべての修行に対して、
【念仏三昧を以て王三昧と立て了〔おわ〕んぬ。】
念仏三昧をもって最上の王三昧であるとしています。
【最後に一つの問答有り。】
その最後に一つの問答があります。
【爾前の禅定〔ぜんじょう〕念仏三昧を以て法華経の一念信解に対するに】
法華以前の禅定である念仏三昧をもって法華経の一念信解の功徳に対すると
【百千万億倍劣ると定む。】
百千万億倍劣ると認めているのです。
【復〔また〕問ひを通ずる時、念仏三昧を万行に勝るゝと云ふは】
また、問いの答えとして、念仏三昧をすべての修行に優れていると言うのは
【爾前の当分なりと云云。】
爾前経の範囲内であると言っているのです。
【当に知るべし、慧心〔えしん〕の意は往生要集を造りて】
まさに真相は、慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕の本意は、往生要集を作り著して
【末代の愚機〔ぐき〕を調〔ととの〕へて法華経に入れんが為なり。】
末法の愚かな機根を調えて法華経に入れようとするものなのです。
【例せば仏の四十余年の経を以て権機を調へ】
例えば、仏が40余年の諸経をもって権教の機根を調えて
【法華経に入れたまふが如し。故に最後に一乗要決を造る。】
法華経に入れられた事と同じなのです。それゆえに最後に一乗要決を作り著し、
【其の序に云はく「諸乗の権実は古来の諍〔あらそ〕ひなり。】
その序文に「諸宗の権実の問題は、論争の的であり、
【倶〔とも〕に経論に拠〔よ〕って互ひに是非を執〔しゅう〕す。】
それぞれが経論を依りどころにして、互いに是か非かに執着している。
【余寛弘〔かんこう〕丙〔ひのえ〕午〔うま〕の歳冬十月病中に歎いて曰く、】
私は、寛弘〔かんこう〕年間の冬十月に、病床にあって、このことを嘆いて考えた。
【仏法に遇〔あ〕ふと雖も仏意を了せず。】
せっかく仏法に会いながら、仏意を覚り尽くせないで、
【若し終〔つい〕に手を空〔むな〕しうせば後悔何ぞ追〔およ〕ばん。】
空しく死んでいくならば、後悔しても、後悔しきれないと。
【爰〔ここ〕に経論の文義・賢哲〔けんてつ〕の章疏〔しょうしょ〕、】
そこで経論の文章の意義、賢者、哲人の仏法書を、
【或は人をして尋ねしめ或は自ら思択〔したく〕して】
人に究明させ、あるいは、自ら思索をして、
【全く自宗・他宗の偏党〔へんとう〕を捨てゝ】
全く自宗、他宗の偏〔かたよ〕った考えを捨てて、
【専ら権智・実智の深奥を探るに、終〔つい〕に一乗は真実の理、】
専ら方便の智慧の深奥を探ぐっていたところ、ついに一仏乗が真実の理であり、
【五乗は方便の説を得る者なり。】
人、天、声聞、縁覚、菩薩の五乗は、方便の説であると確信したのである。
【既に今生の蒙〔もう〕を開く、】
こうして、既に今生の迷いを開いたので、
【何ぞ夕死〔せきし〕の恨みを遺〔のこ〕さんや」(已上)。】
どうして、夕べに死ぬことに恨みを残すことがあろうや」と述べているのです。
【此の序の意は偏〔ひとえ〕に慧心の本意を顕はすなり。】
この序文は、ひとえに慧心〔えしん〕僧都の本意が何であったかを顕しており、
【自宗・他宗の偏党を捨つるの時、】
自宗、他宗の偏〔かたよ〕った考えを捨てたならば、
【浄土の法門を捨てざらんや。】
浄土の法門を捨てるべきだという結論になるのです。
【一乗は真実の理を得る時、】
そして一仏乗が真実の理と心得た時には、
【専ら法華経に依るに非ずや。】
もっぱら、法華経に依るのが、当然ではないでしょうか。
【源信〔げんしん〕僧都〔そうず〕は】
慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕源信〔げんしん〕は
【永観〔えいかん〕二年甲〔きのえ〕申〔さる〕の冬十一月】
永観2年の冬11月、
【往生要集を造り寛弘丙午の冬十月の比〔ころ〕、一乗要決を作る。】
往生要集を作り著し、寛弘2年の冬10月の頃、一乗要決を作り著したのです。
【其の中間二十余年。権を先にし実を後にす。】
その間は、20余年です。方便の教えを先に説き、真実の教えを後に説いたのは、
【宛〔あたか〕も仏の如く亦竜樹・天親・天台等の如し。】
あたかも仏と同じであり、また、竜樹、天親、天台大師などとも同じなのです。
【汝往生要集を便〔たよ〕りと為〔し〕て】
あなたは、往生要集を依りどころとして、
【師の謗法の失を救はんと欲すれども】
師の法然房源空の謗法の罪を弁明しているのですが、
【敢〔あ〕へて其の義類に似ず。】
決して往生要集と選択集とでは、その教義内容は、同じではないのです。
【義類の同じきを以て一処に聚〔あつ〕むとならば】
教義内容が同じであるから、一箇所に集めたと言いますが、
【何等〔なんら〕の義類同なるや。】
どの教義内容が同じなのでしょうか。
【華厳経の如きは二乗界を隔〔へだ〕つるが故に十界互具なし。】
華厳経は、二乗界を隔てているので、それゆえに十界互具の義は、ありません。
【方等・般若の諸経も亦十界互具を許さず。】
方等経、般若経の諸経も、また十界互具を許していません。
【観経〔かんぎょう〕等の往生〔おうじょう〕極楽も亦方便の往生なり。】
観無量寿経などに説く往生極楽も、また、方便の往生に過ぎないのです。
【成仏・往生倶〔とも〕に法華経の如き往生に非ず。】
爾前経で説く成仏、往生は、ともに法華経で説くような成仏、往生ではないのです。
【皆別時〔べつじ〕意趣〔いしゅ〕の】
爾前経は、すべて別の時に往生、成仏するのを、
【往生・成仏なり。】
直ちに往生、成仏するかのように説いたものなのです。
【其の上源信僧都の意は】
そのうえ、慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕源信〔げんしん〕の本意が
【四威儀〔いぎ〕に行じ易〔やす〕きが故に】
行住坐臥の四威儀において修行しやすい故に
【念仏を以て易行と云ひ、四威儀に行じ難きが故に法華を以て難行と称せば】
念仏を易行と言い、四威儀において修行し難いので法華経を難行であるとするなら、
【天台・妙楽の釈を破る人なり。】
慧心〔えしん〕僧都は、天台大師、妙楽大師の解釈を破る人と言う事に成るのです。
【所以〔ゆえ〕に妙楽大師は、】
その理由は、妙楽大師は、摩訶止観輔行伝弘決〔ぶぎょうでんぐけつ〕巻二において
【末代の鈍者〔どんしゃ〕・無智の者等の法華経を行ずるに】
末法の鈍根の者、無智の者などが法華経を修行すると
【普賢〔ふげん〕菩薩並びに多宝・十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云はく】
普賢菩薩や多宝如来、十方の諸仏を見る事が容易にできると定めて
【「散心〔さんしん〕に法華を誦〔じゅ〕し】
「気が散った心で法華経を誦〔じゅ〕し、
【禅三昧に入らず。坐立行〔ざりゅうぎょう〕】
坐立行〔ざりゅうぎょう〕で真剣で集中した三昧に入らずとも、
【一心〔いっしん〕に法華の文字を念ぜよ」(已上)。】
随喜する一心で法華経の文字を念ぜよ」と言われています。
【此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり。】
この妙楽大師の解釈の意味は、末法の愚者を対象にする事にあるのです。
【散心とは定心〔じょうしん〕に対する語なり。】
気が散った心とは、真剣で集中した心に対する言葉なのです。
【誦法華とは八巻・一巻・一字・一句・一偈・】
法華経を誦〔じゅ〕するとは、法華経の八巻、一巻、一字、一句、一偈、
【題目、一心一念随喜〔ずいき〕の者】
題目を唱え、また、一心一念に随喜する者が、
【五十展転〔てんでん〕等なり。】
次から次に50回、人から人に伝える事などであるのです。
【坐立行とは四威儀を嫌はざるなり。】
坐立行〔ざりゅうぎょう〕とは、行住坐臥の四威儀にこだわらないことです。
【一心とは定の一心にも非ず、理の一心にも非ず、】
一心とは、真剣で集中した一心でもなく、理性の一心でもなく、
【散心の中の一心なり。】
気が散った一心なのです。
【念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず、】
法華経の文字を念じるとは、この法華経は、諸経の文字と違って、
【一字を誦〔じゅ〕すと雖も八万宝蔵の文字を含み】
一字を誦〔じゅ〕すと言っても、仏の八万宝蔵の文字を含み、
【一切諸仏の功徳を納むるなり。天台大師玄義の八に云はく】
一切の諸仏の功徳を納めているのです。天台大師は、法華玄義巻八に
【「手に巻〔かん〕を執〔と〕らざれども常に是の経を読み、】
「手に経巻を取らなくても、常に、この経を読み、
【口に言声〔ごんしょう〕無けれども遍〔あまね〕く衆典を誦し、】
口に言声を出さなくても、広く多くの経典を誦〔じゅ〕し、
【仏〔ほとけ〕説法せざれども恒〔つね〕に梵音を聞き、】
仏が説法しなくても、常に清浄な声を聞き、
【心に思惟〔しゆい〕せざれども普〔あまね〕く法界を照らす」(已上)。】
心に思索しなくとも、あまねく法界を照らす」と述べています。
【此の文の意は手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は】
この文章の意味は、手に法華経一部八巻を取らなくても、この経文を信ずる人は
【昼夜十二時の持経者なり。】
昼夜十二時にわたる持経者なのです。
【口には読経の声を出ださゞれども法華経を信ずる者は日々時々念々に】
口に読経の声を出さなくても、法華経を信ずる者は、日々、時々、念々に
【一切経を読む者なり。仏の入滅既に二千余年を経たり。】
一切経を読む者であると言う事です。仏の入滅から既に二千余年が過ぎています。
【然りと雖も法華経を信ずる者の許〔もと〕に仏の音声〔おんじょう〕を留めて、】
しかしながら、法華経を信ずる者のもとに仏の声を留めて、
【時々刻々念々に我が死せざる由〔よし〕を聞かしむるなり。】
時々、刻々、念々に、仏が不滅であることを、教えられているのです。
【心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照らす者なり。】
心に一念三千を観じなくても、あまねく十方の法界を照す者なのです。
【此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備はれるなり。】
これらの功徳が、もっぱら法華経を修行する者に備わるのです。
【是の故に法華経を信ずる者は、設〔たと〕ひ臨終の時、心に仏を念ぜず、】
このゆえに法華経を信ずる者は、たとい臨終の時に心に仏を念じなくても
【口に経を誦せず、道場に入らずとも】
口に経文を誦〔じゅ〕さなくても、身を道場に入れなくても、
【心無くして法界を照らし、音〔こえ〕無くして一切経を誦し、】
意識しないで法界を照らし、声に出さなくても一切経を誦〔じゅ〕し、
【巻軸〔かんじく〕を取らずして法華経八巻を拳〔にぎ〕る徳之〔これ〕有り。】
経巻の軸を取らなくても、法華経八巻を握る功徳があるのです。
【是豈〔あに〕権教の念仏者の臨終正念を期〔ご〕して】
これは、まことに権教の念仏者が臨終正念を期待して、
【十念の念仏を唱へんと欲する者に百千万倍勝るゝの易行〔いぎょう〕に非ずや。】
十念の念仏を唱えようとする者よりも、百千万倍、簡単では、ないでしょうか。
【故に天台大師文句〔もんぐ〕の十に云はく「都〔すべ〕て諸経に勝るゝが故に】
それゆえに天台大師は、法華文句の第10巻に「すべてが諸教に優れているゆえに
【随喜〔ずいき〕功徳〔くどく〕品〔ほん〕と言ふ」と。】
随喜功徳品と言う」と述べられています。
【妙楽〔みょうらく〕大師は法華経は諸経より浅機〔せんき〕を取る、】
妙楽大師は、法華経は、諸経より浅い理解力でも、よいにも関わらず
【而〔しか〕るを人師此の義を弁〔わきま〕へざるが故に】
諸宗派の人師は、この意義を弁〔わきま〕えない故に
【法華経の機を深く取る事を破して云はく】
法華経は、深い理解力の為の経文であるとしている事を強く破折して
【「恐らくは人謬〔あやま〕りて解する者、】
「誤って理解する者は、おそらく、
【初心の功徳の大なることを測〔はか〕らずして】
初心の功徳が大であることを測らないで
【功を上位に推〔ゆず〕りて此の初心を蔑〔あなど〕る。】
功徳を上位に推しすすめ、この初心を蔑〔あなど〕るであろう。
【故に今彼の行は浅く功の深きことを示して以て】
したがって今は、彼の修行は、浅く、功徳は、深いことを示して、
【経力〔きょうりき〕を顕はす」(已上)。】
それを以って経文の力を顕す」と述べています。
【以顕〔いけん〕経力の釈の意趣〔いしゅ〕は、法華経は】
「以って経の力を顕す」の解釈の意味は、法華経は、
【観経〔かんぎょう〕等の権経に勝れたるが故に行は浅く功は深し。】
観無量寿経などの権経より優れている故に、修行は、浅くても、功徳は、深く、
【浅機を摂する故なり。】
それは、法華経が浅い理解力の者を対象とするからなのです。
【若し慧心の先徳法華経を以て】
もし、先徳である慧心〔えしん〕僧都〔ぞうず〕源信が法華経をもって
【念仏より難行と定め、愚者・頑魯〔がんろ〕の者を摂せずと云はゞ、】
念仏より難行と定め、愚者、頑迷な者を対象としないと言っているとすれば、
【恐らくは逆路伽耶陀〔ぎゃくろかやだ〕の罪を招かざらんや。】
恐らくは、反逆者である逆路伽耶陀〔ぎゃくろかやだ〕の罪を我が身に招き、
【亦恐人謬解〔くにんみょうげ〕の内に入らざらんや。】
恐らくは、人が誤って理解すると妙楽が述べている者に入ることになるでしょう。
【総じて天台・妙楽の三大部の】
総じて天台大師の法華玄義、法華文句、摩訶止観の三大部の
【本末の意には、】
本書および妙楽大師の註釈書の述べている意義は、
【法華経は諸経に漏れたる愚者〔ぐしゃ〕・悪人・女人・】
法華経は、諸経に漏れた愚者、悪人、女性、
【常没〔じょうもつ〕の闡提〔せんだい〕等を摂したまふ。】
常に苦海に没している一闡提などを救う為の経文であると言うことです。
【他師仏意を覚らざるが故に法華経を諸経に同じ、】
他の人師は、仏意を覚知しない故に法華経を諸経と同じであるとして、
【或は地住〔じじゅう〕の機に取り、】
あるいは、52位中の初地、初住以上が法華経の機であるとしたり、
【或は凡夫に於ても別時〔べつじ〕】
あるいは、凡夫を即身成仏させるとあっても、別の時に成仏するのに
【意趣〔いしゅ〕の義を存す。】
方便的に直ちに成仏できるかのように説いたに過ぎないと思っていたのです。
【此等の邪義を破して人天・】
天台大師は、これらの邪義を破折して人、天と
【四悪を以て法華経の機と定む。】
地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣をもって法華経の対象者と定め、
【種類・相対を以て】
就類種〔じゅるいしゅ〕の開会と相対種〔そうたいしゅ〕の開会をもって
【過去の善悪を収〔おさ〕む。】
過去に善悪の業を作っても、それが成仏の種となり、
【人天に生ずる人豈〔あに〕過去の】
人界や天界に生れた人であれば、どうして過去に
【五戒十善無からんや等と定め了〔おわ〕んぬ。】
五戒、十善の善業がないなどと言う事があるだろうかと定められたのです。
【若し慧心〔えしん〕此の義に背かば】
もし、慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕源信が、この義に背けば、
【豈天台宗を知れる人ならんや。而るを源空深く此の義に迷ふが故に】
天台宗と言えるでしょうか。しかし、法然房源空が深く、この義に迷う為に、
【往生〔おうじょう〕要集〔ようしゅう〕に於て】
慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕の往生〔おうじょう〕要集〔ようしゅう〕を
【僻見〔びゃっけん〕を起こし、自らも失ひ他をも誤る者なり。】
誤解して、自ら間違った考えを起こし、他人をも誤らせたのです。
【適〔たまたま〕宿善〔しゅくぜん〕有りて実教に入りながら、一切衆生を】
たまたま、過去世に善根があって、実教に入りながら、
【化して権教に還〔かえ〕らしめ、】
法然房源空は、一切衆生を誤って教化して、権教に逆戻りさせたばかりでなく、
【剩〔あまつさ〕へ実教を破せしむ。豈悪師に非ずや。】
実教を破らせてしまったのです。これこそ、悪師では、ないでしょうか。
【彼の久遠〔くおん〕下種〔げしゅ〕・大通〔だいつう〕結縁〔けちえん〕の者の】
あの久遠下種や大通〔だいつう〕結縁〔けちえん〕の者が、
【五百・三千の塵点〔じんでん〕を経ふる者の如きは、】
五百塵点〔じんでん〕劫・三千塵点〔じんでん〕劫と言う永い期間、
【法華の大教を捨てゝ爾前の】
悪業を流転したのは、法華経を捨てて権教や小乗教に移ったためであり、
【権小に遷〔うつ〕るが故に後には権経をも捨てゝ六道に回〔めぐ〕りぬ。】
さらに権経も捨ててしまい、六道を輪廻したのです。
【不軽〔ふきょう〕軽毀〔きょうき〕の衆は】
不軽菩薩を軽んじ毀〔そし〕った人々は
【千劫〔せんごう〕阿鼻〔あび〕地獄〔じごく〕に堕〔お〕つ。】
千劫の間、無間地獄に堕ちたのです。
【権師〔ごんし〕を信じて実経を弘むる者に】
権教の人師を信じ、実経を弘める者を
【誹謗〔ひぼう〕を作〔な〕したるが故なり。】
誹謗〔ひぼう〕したゆえであるのです。
【而るに源空〔げんくう〕我が身唯〔ただ〕実経を捨てゝ権経に入るのみに非ず、】
しかるに法然房源空は、自分が実経を捨てて、権経に入ったばかりでなく、
【人を勧めて実教を捨てゝ権経に入らしめ】
他人にも勧めて実経を捨てて権経に入らせ、
【亦権人をして実経に入らしめず。】
また、権教の人を実経に入らせないようにし、
【剩へ実経の行者を罵〔ののし〕るの】
そのうえ、実経の行者を悪く言うのであるから、
【罪永劫にも浮〔う〕かび難からんか。】
その罪は、未来永劫に、悪道から浮かび上がる事は、できないでしょう。