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守護国家論 08 第07章 爾前経と浄土経の興廃
【大文の第二に、正像末に就いて】第2段に、正法、像法、末法の三時について
【仏法の興廃有ることを明かさば、之に就いて二有り。】
仏法の興廃があることを明確にすると、これについて二項を設け、説明します。
【一には爾前〔にぜん〕四十余年の内の諸経と浄土の三部経との】
一つには、法華経以前の40余年の内の諸経と浄土の三部経との
【末法に於ける久住〔くじゅう〕・不久住〔ふくじゅう〕を明かし、】
末法における久住、不久住を明確にします。
【二には法華・涅槃と浄土の三部経並びに】
二つには、法華経、涅槃経と浄土の三部経ならびに
【諸経との久住・不久住を明かす。】
諸経との久住、不久住を明確にします。
【第一に、爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経との】
第一項に法華経以前の40余年の内の諸経と浄土の三部経との
【末法に於ける久住・不久住を明かさば、】
末法における久住、不久住を明確にします。
【問うて云はく、如来の教法は大小・浅深・勝劣を論ぜず、】
それでは、如来の教法については、大小、浅深、優劣を問わず、
【但時機に依って之を行ぜば定めて利益有るべきなり。】
ただ時機によって、これを修行すれば、必ず利益があるはずです。
【然るに賢劫〔けんごう〕・大術・大集等の諸経を見るに】
しかし賢劫〔けんごう〕経、大術経、大集経などの諸経を見ると、
【仏滅後二千余年已後は仏法皆滅して】
仏滅後二千余年已後は、仏法がすべて滅して
【但教のみ有りて行証有るべからず。】
ただ教法のみあって修行、証果は、ありません。
【随って伝教大師の末法〔まっぽう〕灯明記〔とうみょうき〕を開くに】
したがって伝教大師の末法灯明記〔とうみょうき〕を開くと
【「我が延暦〔えんりゃく〕二十年辛〔かのと〕巳〔み〕】
「我が国の延暦20年は、
【一千七百五十歳」(一説なり)。】
1750年である」と述べられています。(一説なり)
【延暦二十年より已後亦四百五十余歳なり。】
この延暦20年から、今は、更に450余年ですから、
【既に末法に入れり。設〔たと〕ひ教法有りと雖も行証無けん。】
既に末法に入っているので、たとえ、教法があっても、修行、証果は、ないのです。
【然るに於ては仏法を行ずる者万が一も得道有り難きか。】
そうだとすれば、仏法を行ずる者は、万が一にも得道することは、有り得ません。
【然るに双観経〔そうかんぎょう〕の「当来の世経道〔きょうどう〕】
ところが双巻無量寿経の「未来の世に仏教が
【滅尽〔めつじん〕せんに我慈悲〔じひ〕哀愍〔あいみん〕を以て】
滅び尽きる時に、我は、慈悲と哀れみをもって
【特〔ひと〕り此の経を留めて止住せんこと百歳ならん。】
この経文だけを百年間、留め置こう。
【其れ衆生の斯の経に値ふこと有らん者は意の所願に随って】
衆生が、この経に会うことがあれば、願いに従って
【皆得度〔とくど〕すべし」等の文を見るに、釈迦如来一代の聖教皆滅尽の後、】
皆、得道すべし」などの文章をみると、釈迦如来一代の聖教が、すべて滅した後に、
【唯特り双観経の念仏のみを留めて衆生を利益すべしと見え了んぬ。】
ただ、ひとり、双巻無量寿経の念仏だけが、衆生に利益することは、明確なのです。
【此の意趣に依って粗〔ほぼ〕浄土家の諸師の釈を勘〔かんが〕ふるに】
この見解によって、ほぼ浄土家の諸師の解釈を見てみると、
【其の意無きに非ず。道綽〔どうしゃく〕禅師は】
その意義がないわけではありません。道綽〔どうしゃく〕禅師は、
【「当今末法は是五濁〔ごじょく〕悪世〔あくせ〕なり、】
「現在、末法は、これ五濁悪世である。
【唯〔ただ〕浄土の一門のみ有りて通入の路〔みち〕なるべし」と書し、】
ただ、浄土の一門だけが、通入できる道である」と書き残しており、
【善導〔ぜんどう〕和尚は「万年に三宝滅し】
善導〔ぜんどう〕和尚〔わじょう〕は、「末法万年に仏法僧の三宝が滅して、
【此の経のみ住すること百年なり」と宣べ、】
この経だけが百年間、留まる」と述べており、
【慈恩〔じおん〕大師は「末法万年に余経悉く滅し、】
慈恩大師は「末法万年には、余経は、ことごとく滅し、
【弥陀の一教利物〔りもつ〕偏〔ひとえ〕に増す」と定め、】
阿弥陀仏の一教だけが利益を増す」と定めており、
【日本国の叡山〔えいざん〕の先徳慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕は】
日本国の比叡山の先徳である慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕は、
【一代聖教の要文を集め末代の指南を教ふる】
一代聖教の要文を集めて、末法の人々の指南として教えた
【往生〔おうじょう〕要集〔ようしゅう〕の序に云はく】
往生〔おうじょう〕要集〔ようしゅう〕の序に
【「夫〔それ〕往生極楽の教行は濁世〔じょくせ〕末代の目足〔もくそく〕なり。】
「それ往生極楽の教行は、濁世〔じょくせ〕末代の目と足である。
【道俗〔どうぞく〕貴賎〔きせん〕誰か帰せざる者あらん。】
僧侶も在家も、貴い者も賎しい者も、誰が帰依しない者がいるだろうか。
【但し顕密〔けんみつ〕の教法は其の文一に非ず。】
顕密二教の教法は、その文章は、一つではなく、
【事理の業因其の行惟〔これ〕多し。】
事理の業因である修行も、また煩雑〔はんざつ〕である。
【利智〔りち〕精進〔しょうじん〕の人は未だ難しと為〔せ〕ず。】
智慧があり精進できる人は、難しいとしないが、
【予が如き頑魯〔がんろ〕の者豈〔あに〕敢〔あ〕へてせんや」と。乃至】
私のような頑固で愚かな者は、どうして修行ができるのか」とあり、(中略)
【次下〔つぎしも〕に云はく「就中〔なかんずく〕念仏の教は】
その次に「とりわけ、念仏の教えは
【多く末代経道滅尽して後の濁悪の衆生を利する計りなり」と。】
多く末法の仏教が滅した後の濁悪の衆生を利益する為なのである」とあります。
【総じて諸宗の学者も此の旨を存ずべし。】
総じて諸宗の学者も、この趣旨を知っているのです。
【殊〔こと〕に天台一宗の学者誰か此の義に背くべけんや如何。】
とくに天台一宗の学者のうち、だれが、この義に背くことがあるでしょうか。
【答へて云はく、爾前四十余年の経々は】
それは、法華経以前、40余年の経々は
【各〔おのおの〕時機に随って而も興廃有るが故に、】
各々の時機に従って興廃があるがゆえに、
【多分は浄土の三部経より已前に滅尽〔めつじん〕有るべきか。】
多くは、浄土三部経より以前に滅してしまうのが道理なのです。
【諸経に於ては多く三乗〔さんじょう〕現身〔げんしん〕の得道を説く。】
諸経においては、多くは、菩薩や声聞、縁覚の現在の得道を説くゆえに、
【故に末代に於ては現身得道の者之〔これ〕少〔まれ〕なり。】
末法においては、凡夫が現在の身で得道する者は、少ないからなのです。
【十方の往生浄土は多くは末代の機に蒙〔こうむ〕らしむ。】
十方の浄土に往生することを説いた教えは、多くは、末法の鈍根の者の為なのです。
【之に就いて、西方〔さいほう〕極楽〔ごくらく〕は】
これについて西方極楽浄土は、
【娑婆〔しゃば〕隣近〔りんごん〕なるが故に、】
娑婆世界の近隣にあるために、
【最下の浄土なるが故に、日輪東に出で西に没するが故に諸経に多く之を勧む。】
また、最も劣った浄土であるゆえに、日輪が東から出で西に沈むゆえに、
【随って浄土の祖師のみ独〔ひと〕り此の義を勧むるに非ず。】
そこで、浄土経の祖師だけが、この意義を勧めているわけではないのです。
【天台・妙楽等も亦爾前の経に依るの日は】
天台大師、妙楽大師なども、また法華経以前の経文に依っている段階では、
【且〔しばら〕く此の筋有り。】
しばらく、この説き方をしているのです。
【亦独り人師のみに非ず、竜樹〔りゅうじゅ〕・天親〔てんじん〕も此の意有り。】
また中国の人師だけでなく、竜樹、天親も、これと同様のことを言っています。
【是一義なり。亦仁王〔にんのう〕経等の如きは】
これは、多くの教義の中の一義なのです。また、仁王〔にんのう〕経などは
【浄土の三部経より尚〔なお〕久しく末法万年の後八千年住すべしとなり。】
浄土の三部経より、なお永く末法万年の末の八千年間、続くだろうと言っています。
【故に爾前の諸経に於ては】
それゆえに法華経以前の諸経においては、
【一定〔いちじょう〕すべからず。】
どの経文が最も永く存続するのかは、決っていないのです。