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守護国家論 25 第24章 久遠実成・十界互具
【亦法華経を信ぜん愚者の為に二種の信心を立つ。】また、法華経を信じる凡夫の為に二種類の信心を立てます。
【一には仏に就〔つ〕いて信を立て、二には経に就いて信を立つ。】
ひとつには、仏について信を立て、ふたつには、経について信を立てます。
【仏に就いて信を立つとは、】
仏について信を立てるとは、
【権宗の学者来たり難じて云はん、】
権教の宗派の学者が来て、非難して次のように言っているのです。
【善導和尚は三昧〔さんまい〕発得〔ほっとく〕の人師、】
善導〔ぜんどう〕和尚は、三昧〔さんまい〕に入って悟りを得た人師であり、
【本地は弥陀〔みだ〕の化身なり。】
本地は、阿弥陀仏であり、この世に化身された方であるのです。
【慈恩大師は十一面観音の化身、】
慈恩大師は、十一面観音の化身であり、
【亦筆端〔ひったん〕より舎利〔しゃり〕を雨〔ふ〕らす。】
また、筆の先より舎利を降らせたのです。
【此等の諸人は皆彼々の経々に依って皆証〔しょう〕有り。】
これらの人々の教えは、すべて、経文に依っており、いずれも証拠があります。
【何ぞ汝彼の経に依らず、】
どうして汝は、その経文に依らないで、
【亦彼の師の義を用ひざるや。】
また、その師の教義を用いようとしないのでしょうか。
【答へて曰く、汝聞け。】
それは、汝、よく聞きなさい。
【一切の権宗の大師先徳並びに舎利弗・目連〔もくれん〕・普賢〔ふげん〕・】
一切の権教を宗旨とする大師や先徳ならびに舎利弗、目連、普賢〔ふげん〕、
【文殊〔もんじゅ〕・観音〔かんのん〕乃至阿弥陀・藥師・釈迦如来、】
文殊〔もんじゅ〕、観音、(中略)さらに阿弥陀、薬師、釈迦如来が、
【我等の前に集まりて説いて云はん、法華経は汝等の機に叶〔かな〕はず、】
我、ならびに十方の人々の前に集まって、法華経は、汝らの機根に合わない。
【念仏等の権経の行を修して往生を遂〔と〕げて】
念仏などの権経の修行をして往生を遂げてから、
【後に法華経を覚れと。】
その後に法華経を悟れ」と説いたとします。
【是くの如き説を聞くと雖も敢へて用ふべからず。】
しかし、そのような説を聞いても、決して用いてはならないのです。
【其の故は四十余年の諸経には法華経の名字〔みょうじ〕を呼ばず、】
その理由は、釈尊40余年間の諸々の経文の、どこに法華経の名前を挙げて、
【何れの処にか機の堪〔たん〕不堪〔ふたん〕を論ぜん。】
この法華経の機根が、どうのこうのと論じているでしょうか。
【法華経に於ては多宝・釈迦・十方諸仏、一処に集まりて撰定〔せんじょう〕して云はく】
法華経においては、釈迦如来、多宝如来、十方の諸仏が一ヵ所に集まり、
【「法をして久しく住せしむ」】
見宝塔品に「法をして、久しく住せしめん」、
【「如来の滅後に於て閻浮提〔えんぶだい〕の内に広く流布せしめ】
普賢菩薩勧発品に「如来は、滅後に於いて、閻浮提の内に広く流布して、
【断絶せざらしむ」と。此の外に今〔いま〕】
断絶せしめん」と言っているのです。しかるに、これとは、別に、今、
【仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す。】
仏が出現して法華経は、末代に相応しくない経文であると定めたとすれば、
【知んぬ、此の仏は涅槃経に出だす所の】
それは、法華経に違背することになります。この仏は、涅槃経に出ている
【滅後の魔仏〔まぶつ〕なり。之を信用すべからず。】
滅後の魔仏なのです。これを信用しては、いけません。
【其の已下の菩薩〔ぼさつ〕・声聞〔しょうもん〕・比丘〔びく〕等は】
それ以下の菩薩、声聞、僧侶などについては
【亦言論〔ごんろん〕するに及ばず。此等は不審も無し。】
また、論ずる必要も、ありません。これらは、疑いもなく
【涅槃経に記す所の滅後の魔の所変〔しょへん〕の菩薩等なり。】
涅槃経に記〔しる〕されている滅後の魔の変化した菩薩なのです。
【其の故は法華経の座は三千大千世界の外】
そのゆえは、法華経の会座は、三千大千世界のほか、
【四百万億阿僧祇〔あそうぎ〕の世界なり。】
四百万億阿僧祇と言う極めて広大な世界なのです。
【其の中に充満せる菩薩・二乗・人天〔にんでん〕・】
その中に充満する菩薩、二乗、人、天、
【八部等皆如来の告勅〔ごうちょく〕を蒙〔こうむ〕り、】
仏法を守護する八部衆などが、すべて如来の勅命〔ちょくめい〕を受けて、
【各々所在の国土に法華経を弘むべきの由之を願ひぬ。】
それぞれの住んでいる国土に法華経を弘めようと願ったのです。
【善導等若し権者〔ごんじゃ〕ならば】
善導〔ぜんどう〕などが、もし、菩薩の仮の姿であるならば、
【何ぞ竜樹・天親等の如く権教を弘めて】
どうして竜樹や天親〔てんじん〕などのように権教を弘めて
【後に法華経を弘めざるや、法華経の告勅の数に入らざるや、】
後に法華経を弘めないのでしょうか。法華経の会座の数に入らないのでしょうか。
【何ぞ仏の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。】
何ぞ仏の如く権教を弘めて、その後に法華経を弘めないのでしょうか。
【若し此の義無くんば設〔たと〕ひ仏たりと雖も】
もし、この法華経第一の義がなければ、たとえ仏であると言っても、
【之を信ずべからず。】
これを信じてはならないのです。
【今は法華経の中の仏を信ず、故に仏に就〔つ〕いて信を立つと云ふなり。】
これは、法華経の中の仏を信じるゆえに、仏について信を立てると言うのです。
【問うて云はく、釈迦如来の所説を他仏之を証するを】
それでは、釈迦如来の説いたところを他仏が証明しているのを
【実説と称せば何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。】
真実の説と言うのであれば、どうして阿弥陀経を信じないのでしょうか。
【答へて云はく、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明〔しょうみょう〕無きが故に】
それは、阿弥陀経においては、法華経のように他仏の証明がないゆえに、
【之を信ぜず。】
これを信じないのです。
【問うて云はく、阿弥陀経を見るに、釈迦如来の所説の一日七日の念仏を】
それでは、阿弥陀経を見ると、釈迦如来の説いた一日七日の念仏を
【六万の諸仏舌を出だし三千を覆〔おお〕ふて之を証明せり。】
六方の諸仏が舌を出して、三千大千世界を覆〔おお〕って、これを証明しました。
【何ぞ証明無しと云ふや。】
どうして他仏の証明がないなどと言うのでしょうか。
【答へて云はく、阿弥陀経に於ては全く法華経の如き証明無し。】
それは、阿弥陀経においては、全く法華経のような証明がなく、
【但釈迦一仏舎利弗に向かって説いて言はく、我一人阿弥陀経を説くのみに非ず、】
ただ、釈迦一仏が舎利弗に向かって、我一人が阿弥陀経を説くだけではなく、
【六万の諸仏舌を出だし三千を覆ふて阿弥陀経を説くと】
六方の諸仏が舌を出し三千大千世界を覆って阿弥陀経を説くと
【云ふと雖も此等は釈迦一仏の説なり、】
言っているのであって、これらは、釈迦一仏の説法の中の話なのです。
【敢〔あ〕へて諸仏は来たりたまはず。】
あえて諸仏は、その会座には、来られていないのです。
【此等は権文なり。四十余年の間は教主も権仏・始覚〔しがく〕の仏なり。】
これらの権教の文章では、40余年の間は、教主も権の仏であるのです。
【仏権〔ごん〕なるが故に所説も亦権なり。】
始成正覚の仏であり、仏が権であるゆえに、その教説もまた権なのです。
【故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず。】
それゆえに40余年の権の仏の教説は、これを信じてはならないのです。
【今の法華涅槃は久遠〔くおん〕実成〔じつじょう〕の円仏の実説なり。】
今の法華経、涅槃経は、久遠実成の本仏の真実の説であり、
【十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて】
十界互具の実語なのです。また、多宝如来、十方分身の諸仏が来て、
【之を証明したまふ。故に之を信ずべし。阿弥陀経の説は】
これを証明されたのですから、これを信ずべきです。阿弥陀経の説法は、
【無量義経の未顕真実の語に壊れ了〔おわ〕んぬ。】
無量義経の未だ真実を顕さずの言葉で破折されてしまったのです。
【全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり。】
阿弥陀経は、釈迦一仏の言葉であって、諸仏が証明しているわけではないのです。
【二に経に就いて信を立つとは、】
二に経について信心を立てることについて言えば、
【無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ。】
無量義経の説法品に40余年の諸経を挙げて、未だ真実を顕さずと言っています。
【涅槃経に云はく「如来は虚妄〔こもう〕の言無しと雖も、】
涅槃経の梵行品には「如来は、虚妄の言葉は、ないと言っても、
【若し衆生虚妄の説に因〔よ〕って法利を得ると知れば、】
もし、衆生が虚妄の説によって法の利益を得ると知るならば、
【宜〔よろ〕しきに随って方便して則〔すなわ〕ち為に之を説きたまふ」と。】
よろしきに随って方便して衆生の為に、これを説きたまう」とあり、
【又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」(已上)。】
また如来性品に「了義経に依って、不了義経に依らざれ」とあります。
【是くの如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を】
このような文章は、一つだけではなく、すべて40余年間に自らが説いた諸経を
【虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。】
虚妄、方便、不了義、魔説と言っているのです。
【是皆人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為なり。】
これは、すべての人が、その経文を捨てて、法華、涅槃に入れる為なのです。
【而るに何の恃〔たの〕み有りて妄語の経を留めて】
それなのに、どのような根拠があって、虚妄の言葉の経文を大事にして、
【行儀を企〔くわだ〕て得道を期〔ご〕するや。】
それを修行して、得道を期そうとするのでしょうか。
【今権教の情執を捨てゝ偏〔ひとえ〕に実経を信ず。】
権教に執着する心を捨て、ひたすら実経を信ずることを、
【故に経に就いて信を立つと云ふなり。】
経文について、信を立てると言うのです。
【問うて云はく、善導和尚も人に就いて信を立て、】
それでは、善導〔ぜんどう〕和尚も人について信を立て、
【行に就いて信を立つ。何の差別有らんや。】
行について信を立てています。これと、どのような相違があるのでしょうか。
【答へて曰く、彼は阿弥陀経等の三部に依って】
それは、善導〔ぜんどう〕は、阿弥陀経などの浄土三部経に依って
【之を立て、】
人と行について信を立てたのですが、
【一代の経に於て了義経・不了義経を分かたずして之を立つ。】
釈尊一代の経々における了義経と不了義経を分別しないで、これを立てたのです。
【故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は】
それゆえに法華経、涅槃経の教義を非難する事によって、
【其の義壊れ了んぬ。】
その善導〔ぜんどう〕の教義は、崩れ去ってしまうのです。
【守護国家論】
守護国家論